第361話 エピローグ エミル
空を見上げる。晴れ渡る空、穏やかな陽光。
肌を撫でていく涼やかな春の風を感じて、勇者のあの子が死んで一年の月日が過ぎたことを思い起こした。
勇者イリア・キャンバス。
どこまでも無私に、自分の色を持たず、誰かのために戦い続けた少女。
アタシはあの子の生き方が嫌いで、そんな生き方にならざるをえないあの子が気になって仕方なかった。
自分の道の果てに絶望しかないと知ってもあの子は歩みを止めようともしない。
自分以外が幸せに笑える未来があるのならそれでいいと、あの子は迷わずに走り出す。
それが、我慢ならなかった。
自分の前に絶望が立ち塞がるなら、自身の全霊をもって立ち向かえばいい。
誰かの前に苦難が待っているとしても、それはその誰かの問題だ。片手間に手を貸すくらいはいいけど、その問題を丸々背負ってやる義理はない。
なのにあの子は、イリアは自分の問題は後回しにしてずっと見知らぬ他人のためだけに走り続けた。
その行為はアタシの内からは絶対に出てこないからこそ、アタシにとってイリアは眩しく、とても
だってあの子の行いは自分の内側から出てきたものじゃない。
勇者としてそう生きるように教えられ、そう教えた人たちがみんな殺されたから後に引けなくなっただけ。
あの子は自分から生まれたものでない使命で走り続け、一度はそのまま走り抜けた。
だからあの子はどこまでも歪で、アタシの握りしめた拳から血が滲み流れるほどに、美しかった。
それを、美しいと、尊いと思い知らされたからこそ、アタシはあの子と一緒にいられないって、思ったんだ。
アタシじゃ、最後まで走り抜けるあの子を止められない。
あの子を待ち受ける絶望を、払いのけられない。
アタシだけじゃない、きっと誰にも無理だって思ってた。
全知を騙る賢者にも、無知ゆえに純粋な剣士にも、あの子を救うことはできないって。
アタシは、あの子の絶望に付き合いたくなくて、あの子のそんな最後を目にしたくなくて、一度は彼女を見放した。
あの子から離れれば、少なくとも運命の歯車の巡りが鈍くなると信じて。
なのにあの子はアタシの前に現れた。
アタシの、かつての憧れを引き連れて。
魔王アゼル、絶対の強者にして孤高の王。
何者にも頼らず、ただ生まれ持った己のみで魔族の
完成された、アタシの理想。
そんな彼が、あの子の前ではどこにでもいるただの青年だった。
周りに振り回され、人並みに悩み、アタシの行動にイチイチ呆れながらツッコミを入れるような、どこにでもいる男だった。
でも彼は、あの子にとってはそれで十分に特別だったんだ。
対等に、同じ目線で、時には勇者と魔王という立場を忘れてあの子たちは向き合っていた。
彼がいるのなら、もしかして、と思えた。
アタシの直感したあの子の最期が、別のモノにすり替わるんじゃないかって。
みんなに都合のいいように走り抜けたすえに、何一つ報われないで石になるあの子の終わりに、何か別の意味が加わるんじゃないかって、思えた。
その結末は、どうだったんだろ。
あの子の最期に立ち会えたのは、魔王アゼルただ一人。
だから、アタシの直感が当たったのか外れたのかも、知るのは彼ひとり。
だけど一応は外れたことにしておこう。
アタシの直感は外れたことがないけど、それが理由で周囲と数えきれないほどのトラブルを生んできたけれど、多分今回は外れたんだ。
少なくとも、死の間際に愛した男からあれほど泣いてもらえた女の子が、何も報われなかったなんてことはないと思う。
そんな人生の最期とは縁遠いアタシからすれば、少しだけ、ほんの少しだけ羨ましい話だ。
「ど~したのエミルちゃん。空を見上げて
アタシの耳に、はつらつとした声が届いてくる。
「……別に、少しだけあの子のこと思い出してただけ。ラクスこそ、盗賊を引き渡すのに随分時間かかったじゃん」
声に振り向き、アタシは紅い髪をポニーテールにした女、ラクス・ハーネットに返事する。
「いや~、だって向こうさんが謝礼を渋るもんだからさ、思わずあの賢者のお兄さんばりに交渉しちゃったよ」
やれやれといった様子で彼女はたんまりとお礼が入ったであろう袋を持ち帰ってきていた。
「交渉って、ラクスの場合は脅迫の間違いでしょ?」
最強の英雄との交渉の場に立たされた人間に思わず同情する。
「脅迫って人聞きが悪いなぁ。でも最後は『あんまり渋るようならここにエミルちゃんを連れてくるよ』って言ったらすぐにお礼を用意してくれたよ。ふふ~ん、これでもまだ脅迫?」
「…………」
返す言葉のないアタシの顔をラクスはニヤニヤと笑いながら覗きこんでくる。
アタシの名前を出した彼女にも腹が立つし、アタシの名前だけでお金を差し出した交渉役がどんな顔をしているのかも一度見てみたくなってきた。
「ま、それが脅迫だったかはおいといて、そもそもアタシが付いていったら余計なトラブルが起きるからってラクスだけで街に行ってきたんでしょ。なのにアタシの名前出しちゃったら意味ないじゃん」
「だってその方が話が早かったんだもん。いやぁ、つい物事を暴力で解決したがるエミルちゃんの気持ちがちょっぴりとわかちゃったね」
ニコニコと、太陽のような笑顔を見せながらこの女は悪辣なことを口にする。
あれからアタシは彼女、ラクス・ハーネットと旅を続けている。
理由は、探せばいくつかあるんだろうけど、第一にラクスがアタシを旅に誘ってきたから。
別に、一人旅でも良かったんだけど、いきなり話す相手がいなくなるのも物足りなくなりそうだったからアタシは彼女の提案に乗ることにした。
あれだけ毎日賑わっていた日々が突然無音になるのは、流石にアタシだって耳が寂しい。
第二に、ラクスには借りもあるからなんだけど、それはまたおいおい。
今は二人で気ままに旅をして、適当に悪そうな奴をぶちのめしながら路銀を稼いでいる。
ラクスはアタシが想像していたよりもずっと社会性があったみたいで、彼女と一緒にいるとアタシが街で引き起こすトラブルがいつもの半分くらい少なくなった。
だけどまあ、その半分のトラブルですら彼女には多かったようで、ついにアタシは街の外でのお留守番を命じられるようになってしまったんだけど。そのあたりアタシの社会性のゴミさ加減は推して知るべし。
あと変わったことと言えば、今はラクスたっての希望で暇なときは彼女に魔法を教えていることくらい。
肉体面、精神面で限界まで鍛え上げられた彼女からするとあとは魔法を覚えるくらいしか成長の伸びしろがないらしい。
元々ラクスは魔法の基礎を押さえているから、アタシが教えてるのは大魔法とか実践的な応用魔法の類だけど、彼女はさすがに飲み込みが早くて次々と教えたことを習熟していく。
アタシの彼女に対するアドバンテージが減ってしまうことになるけど、いつか必ず倒してやるヤツが強くなる分にはアタシも構わないし。
「それにしても良かったねエミルちゃん、アスキルドからの指名手配が解除されて。この街でもきちんと手配書は剥がされてたよ。おかげで、本当は声をかけたくないんだけど義務感が強いせいで恐る恐る任意同行を求めてくる衛兵さんたちとのトラブルもなくなったし」
本当にニコニコした笑顔でラクスはアタシに毒を吐いてくる。いやまあ、魔王よりも高額の懸賞金が掛かってたアタシが悪いんだけど。
「解除っていうか、指名手配を出してた国がなくなったんだから仕方ないでしょ。アタシとしてはちょっかいかけてくる相手が減ったから物足りなさ半分、嬉しさは……とくにないかな」
残念なことにアスキルドの指名手配がそのまま次の国に引き継がれることはなかった。一応勇者の仲間だったアタシに気をつかってくれたのかもしれないけど、いらぬ気遣いになってしまっている。
「もう、エミルちゃんてトラブルを喜んで待ち構えているあたり厄介だよね。そりゃ社会に適合しないわけだわ」
呆れ顔でラクスは盗賊を倒した謝礼の袋を彼女の便利な『ふくろ』に収納する。二人旅での持ち物がかさばらないし個人的にも助かっている。……あとラクスが何か言ってるけど、自分が社会不適合者である自覚は十分にあるから、別に彼女の軽口もまったく気にならない。
「逆にアタシはラクスが思ったより大人しくて驚いてるよ。最近は魔族にだって反応しないし」
これは本当。アタシの同類だと思ってた彼女に社会性があったことはショックというよりは、単純に驚きだった。利害を計算に入れながらも、力が先行するタイプだと思ってたのに。
「そりゃ私は『
「ふ~ん、そういうものなんだ」
「そ、だからみんなの敵がいなくなった以上、英雄なんて看板ももう役に立たないかなぁ」
あっけらかんと、英雄なんて称号はただの看板だってラクスは言い放つ。
そう、ここがあの子とこいつの違い。ラクスは英雄と呼ばれる自覚はあっても、英雄としての生き方に興味がない。
ただそう呼ばれたから、その在り方につきあっただけ。英雄という看板も、下ろすときは本当にあっさりと下ろすのだろう。
アタシと同じように魔王に掛けられた懸賞金も取り下げられ、今は新しい魔王を代表とした人間と魔族の融和が進む世の中となり、以前のように明確な人間全体の敵はいなくなった。
残った敵といば社会の中に生きる悪くらい。これはとても流動的で、盗賊とかのわかりやすいバカならともかく、賢い悪党はたいてい善人たちの中に潜んでいる。
確かに、そんな世界でまっとうな社会性を持つ人間なら、むやみやたらに手にした武器や力を振るうなんてことはしないだろう。アタシみたいなヤツでもない限り。
「あ~あ、そろそろこんな生活も潮時かなぁ。いい加減に結婚でも考えよっと」
意外な言葉が彼女の口から出てきた。
「え、ラクスって結婚する気あったんだ?」
これまた驚き。性に奔放なタイプなことは知ってたけど、逆に彼女が誰かと身を固めるイメージは一切湧いてこない。
「そりゃ結婚願望くらいあるよ~。理想はカッコよくて私より強い人」
また、あっけらかんとラクスは言い放った。
イメージが湧かないのも当然だ。それ、結婚する気ないでしょ。ついで言うとその条件は、半分くらいアタシのと一緒だし。
「あ、もちろん可愛くて私より強い人でもいいよ」
何がもちろんなのかは知らないけど彼女はこっちに満面の笑顔を向けてきた。
ありがたいことにアタシはその条件に当てはまってないのでセーフだ。いや、だけど……
「あっそ、いつか見つかればいいね」
彼女の発言を真に受けることなく聞き流す。だけど、いつまでも負けたままじゃいられない。借りは、返さないと。
「それでさラクス、次はどこに行く? 路銀もあるし、今度は遠いところに行ってもいいけど」
何気ない言葉を口にしながら、アタシは呼吸をゆっくりと整えた。
「そう? う~んとね、それじゃあ……あっち」
ラクスは元気よく南西を指差す。
「アタシはこっち」
アタシの指は北西を差していた。
「ラクスは何でそっち?」
彼女が指差したのは旧アスキルド領の方面だ。
「だってエミルちゃんの里はあっちでしょ? 今度はゆっくり遊びに行ってみたいなって」
どうやらラクスは魔法使いの里が目的らしい。確かにこの前彼女が訪れた時は、里は全壊、アタシは瀕死だった上に、そのままイリアたちのところまで急いで運んでもらったから、ゆっくりするどころじゃなかったか。
「エミルちゃんこそ何でその方角? 何か面白いとこあったっけ?」
アタシの指差す先を訝し気に見つめる。確かにこの方角には本来とくになにもない。でも、
「ダンジョン、そろそろ入り口ができるって前にリノンが教えてくれてたの思い出した」
パストエイジの遺産、古代の言葉では『真海』と呼ばれる場所。ただ一人、目の前のラクス・ハーネットだけが生還を果たした遺跡の扉がリノンの話だと近々開くらしい。
「へ~、それは興味深いなぁ。新しいアイテムの回収がてら、今度はダンジョンにエミルちゃんと二人で潜るのも楽しそう、…………だけどこれってそういう話じゃないんでしょ?」
にこやかだったラクスの笑顔が、不敵な笑みに切り替わる。
「うん、どこに行くかが問題じゃなくて、どっちの意見を優先するかって話。二人の意見が分かれたならさ、きっちり勝負で決めないとね」
アタシの言葉からにじみ出た戦意を読みとるあたり、彼女はやっぱり同類だ。戦いの気配を感じ取ったら、それを決して見逃さない。
「勝負、か。私はそれでもいいけど、エミルちゃんこそいいの? ダンジョンから持ち帰ったアイテムとかはだいたいあのディスコルドでの戦いで使い切っちゃったけど、それでも負ける気しないよ。エミルちゃんに教えてもらって魔法のバリエーションも広がってるし、言っておくけど前と同じくらいには強いから私」
そう、だからアタシは彼女に魔法を教えた。かつて負けた彼女に、強い彼女に勝たないと意味がない。
「それでいいよ、そんなアンタにアタシは勝ちたい」
正面からアタシはラクスと向き合う。
「そっか。…………エミルちゃん、本気でそう思ってるなら私は少し軽蔑するよ? ここはディスコルドじゃないし魔族領ですらない。魔素の補給もできない貴女じゃすぐに魔力が枯渇する。それなのに私に勝てるつもりなんだ」
ラクスの瞳が鋭い眼光を放つ。本気で戦うつもりがあるからこそ、アタシの覚悟を彼女は問う。
「本気だよ、知らなかったかもしれないけどアタシは戦うことが大好きで、全力の戦いで相手に勝つことが何よりも好きなんだからっ」
最も位階の高い魔法使いの証、アタシが纏う黒金のローブをはだけさせて内側を晒す。そこに収納されているのは12個の黒石。
「エミルちゃん、それって魔石?」
「うん、別れる時にアゼルに作らせた最高純度の魔石」
その一つを取り出してアタシは迷いなく噛み砕き、飲み込む。
全身を駆け巡る濃密な魔素がアタシの魔奏紋を通じて魔力へと変換されていく。
同時に髪が、身体が、灼銀の熱で光り出す。
「────へえ」
そんなアタシの姿を見て、全力を出すに値するとラクスの口の端が吊り上がった。
「アゼル君にそんなもの作らせてたなんて、いい手切れ金だねエミルちゃん」
「…………手切れ金じゃないし」
そう、アイツと縁を切った覚えもない。
それと同時に、この魔石を作った時のアゼルの呆れ果てた顔を思い出す。うん、アイツがアタシに向ける感情はそれくらいのやつでちょうどいい。
「じゃあラクス、やろっか。勝った方が次の行き先を決める」
「行き先なんてどうでもいいクセによく言うよ。私が勝って、今度はエミルちゃんの里の人たちに紹介してもらうからね」
ラクスは『ふくろ』から彼女の代名詞とも言える星剣アトラスを取り出して戦闘態勢に入る。
同様にアタシもありったけの魔法で自身への強化を重ねる。
「─────うん、いつかは紹介するよ。アタシの新しい友達だって」
アタシの小さな呟きは、きっと彼女には聞こえない。
晴れ渡る空、穏やかな陽光。
肌を撫でていく春の風を感じながら、アタシは最強へと戦いを挑んだ。
この戦いの勝敗を、今は語らず。
ああ、余談だけどアタシたち二人の戦いは三日三晩と続いて最終的に激甚災害として指定され、エミル・ハルカゼとラクス・ハーネットには高額懸賞金付きの指名手配が出されることになった。
かつて勇者とともに戦った最強の魔法使いと最強の英雄は揃ってお尋ね者の肩書きを手に入れ、トラブルが勝手に舞い込んでくる生活に逆戻りした。
どうやら足を止めてしまうにはまだ早いらしい。アタシたちの旅は、まだまだ続いていく。
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