第360話 エピローグ シロナ
空を見上げる。晴れ晴れとした、清々しく広がる青。
そこにどこまでも広がり繋がる悠久を垣間見て、自分は少しだけ寂しさを覚えた。
親父殿のところから外の世界に出て、たかだか2年程度の間に多くの出会いと、別れがあった。
自分程度が手にするには身に余る多くのモノがあり、同時に多くのかけがえのないモノを失う旅でもあった。
そう、もう取り戻せないあの旅の日々こそが、今の自分を寂しくさせているのかもしれない。
「ど~したのシロナ? そんな物思いにふけった顔して」
自分の背中に少し幼い声がかけられる。
淡い青色の髪をした魔族の少女、カタリナだ。
「どうしたも何も、ユリウスもカタリナも拙者をここに置いていくものだから空を見上げるくらいしかすることがなかっただけでござるよ」
あのディスコルドにおける戦いで両手足を失った自分は、今や車椅子に座り誰かに押してもらわなければどこにも行くことができない。
一応、親父殿の倉庫にあった
「ごめんごめんシロナ。クロムさんに呼ばれたものだからつい、ね」
カタリナに遅れて、燃えるような赤髪をした魔族の少年、ユリウスも戻ってきた。
この二人は手足を失った自分が家に戻ったところで親父殿が大変になるだけだろうということで、アルト殿が一時的な奉公修行としてここに預けてくれている。
アルト殿本人もそれどころではないほどに大変なはずなのに、彼女には随分と気を遣わせてしまった。
「別に怒ってはいないでござる。ゆっくりと空を眺めるだけの時間も案外と悪くない」
今の自分は誰かの助けなしにはどこにもいけない。
まあ食事をするわけでもなし、眠りが必要なわけでもなし、喋る置物としての不都合が別段あるわけでもないが。それでも……
「たく、
頭の中で一人考え事を始めた自分に、低く、力強い声がかけられる。
「おお、親父殿。拙者、そんなに老け込んで見えたでござるか?」
声の方向へ振り向くと親父殿、鍛冶師クロムがゴツゴツした太い腕で布の包みを持ってこちらへ歩いてきていた。
「そりゃな、車椅子に乗ってただ空を見上げる日々を送るにはお前はまだ早すぎる。そんな楽でつまらんな生活は、させてやらんよ」
親父殿の分厚い手が自分の短い白髪をワシャワシャと撫でた。
「ほれ、お前の新しい右腕だ。
親父殿はそんなことを言いながら自分の仮の腕を外して、新しく作成した右腕を注意深く取り付ける。その口の端は、少しだけ嬉しそうに笑っているように見えた。
「どうだシロナ、動くか?」
「流石、親父殿でござる。うむ、まったく問題なく動く」
自身の右腕から指先までの可動を細かく確認する。以前と同様、いやそれ以上に滑らかかつ繊細に己の意志に応えて新しい右腕も機能している。
「そうか、ならよかった」
安心したように親父殿は息を吐く。親父殿といえど、もう一度この腕が動いてくれるかは不安だったらしい。
「あの日、大賢者が手足のないお前を背負ってここに来た時は
安心したついでに気持ちも少し緩んだのか、普段なら口に出さないようなことを親父殿は言った。
「うむ、拙者が生きて帰ってこれたのはただの偶然でござろうな。あの魔神殿との戦い、誰が死んでもおかしくなかった。それに、親父殿にとっては、最高傑作の『凛』と『翠』も失った」
それが、自分にとっての大きな後悔のひとつでもある。
あの大魔王アーデン・グラクシアの堅固たる肉体を斬るには自分と聖刀の限界を超える必要があったとはいえ、親父殿に申し訳ない気持ちも消えはしない。
「シロナ、まだそんなこと言ってんのか。そんなことは気にしなくていいって何度言えばわかるんだか。いいんだよ、
親父殿は頭をガシガシと搔きながら何やら言葉を探している。するとカタリナが、
「うんうん、わかるよクロムさん。シロナはおれの最高傑作だって言いたいけど、シロナは作品じゃなくておれの息子だ、ってことだよね。うんうんわかるわかる」
親父殿の後ろで腕組みをしながら、理解者面をして深く何度もうなずいている。
「いやいやカタリナ、そこまでわかったのなら口にしないで黙っていてあげなよ。ほら、クロムさんの顔が真っ赤になったじゃないか」
確かに、親父殿の浅黒い顔に赤みがさしている。珍しいこともあったものだ。
何はともあれ、どうやら自分は鍛冶師クロムの最高傑作でもあり、息子でもあるということらしい。
「ふむ、実に得した気分でござる」
「まんざらでもない顔してんじゃねえよバカ息子。『凛』と『翠』はあれだ、まあ残念ではあるが刀鍛冶としてはまだまだ目指すべき場所があったってことでもある。だからいいんだよ、また刀が欲しくなったなら…………、いいのを探してやるからよ」
そこで親父殿は、自分が刀を打つとは、言ってくれなかった。
「なんだかクロムさん、ダダ甘の親バカみたい」
「うるさいぞカタリナ。そんなこと言ってんなら、お前が欲しがってた首飾り作ってやらねえぞ」
「ウソですごめんなさいクロムさん。クロムさんは頑固一徹で融通のきかない愛想なしです」
「たく、それでいいんだよ」
「あ、今のでいいんだ」
「ふふ、ユリウスとカタリナが来てくれたおかげで親父殿にも張り合いが出てよかったでござる。何せ拙者だけではこの半年、何もできなかったからな。とはいえ、今も動くのは右腕だけなので何ができるのか考え物だが」
ようやく自由を得た右手をあごに当てて考え込む。
片手では車椅子もこげぬし、いざ落ちてしまえば自分で座り直すのも難しい。
「そうだユリウス、その辺に棒切れがあれば取って貰えぬか?」
「?? こんなのでいいのシロナ?」
ユリウスは小枝、というには少し太い感じの棒枝を持ってきてくれた。うむ、多少の張りもあるし
「それでどうするのシロナ?」
「二人を親父殿のところで遊ばせたままではアルト殿に申し訳ない。だから少しは二人に剣の稽古をつけてやろうと思ったでござる」
自分の言葉を聞き、ユリウスとカタリナは一瞬だけ身をこわばらせた。もしかすると、稽古という単語にトラウマがあるのかもしれない。はて、彼らの一番最後の師匠はエミルだったような、自分だったような。
「えっ!? あ、いやだけどシロナはまだ右手しか動かせないよね」
「うんうん、そんなんじゃいくら私たちでもシロナに勝っちゃうよ」
二人は冷静に
「それは心強い、二人にはぜひとも拙者に勝ってもらいたいところでござる。─────直心一刀」
心のままに枝を振るう。枝のしなりとともに空を切ったそれは風を断ち、音を断ち、二人の大きくなった気持ちを断ち切った。
「え、シロナ」
「なんかすごい空気の刃が飛んでったんだけど」
「安心するでござる。エミルと違ってきちんと加減はしている。ただ、少し前の拙者と違って多少のケガは残るかもしれない。きちんと覚悟はするといい」
枝を振りながら自身の手応えを感じる。以前のようにむやみに星を斬ろうと意気込むわけでもなく、魔族を敵として斬りたいわけでもなく、今はただ心のまま自在に技を扱えている気がする。
「シロナ、お前」
自分の様子を見て、親父殿は何か気付いた様子だ。
「昔、夕斬りという少女に斬りたいモノも選べない剣士なんて未熟もいいところだと叱られた。ようやく、その未熟から一歩抜け出せたようでござる」
「は、そりゃ、ずいぶんと大きな一歩だな」
親父殿は嬉しさを隠すためか少しだけ顔を伏せ、自分の頭をポンポンと叩いてから作業場へ戻ろうとする。
「ユリウス、カタリナ。いい機会だシロナに稽古をつけてもらっておけ。それがいつかお前たちのためになる。晩メシなら
こちらを振り向くことなく手を振りながら、親父殿は家の中へと帰っていった。
「さて、二人とも親父殿の護身刀を持つがいい。ああ、ユリウスは魔剣を出せるのだったな。もちろんそれを使っても構わないでござるよ」
知らない間に彼らも成長している。二人の言ったとおり、本当に負かされてしうまうのかもしれない。
右手に枝を軽く握り、自身の気を研ぎ澄ます。
ああ、久方ぶりに忘れていた感覚。仲間たちとの旅、その戦いの日々を思い出す。
「それじゃあシロナ、私たちも本気で行くからね。それにユリウスだけじゃなくて私だってもう魔剣を扱えるんだから」
驚きだ、いつの間にかユリウスだけでなくカタリナも魔剣を顕現させることができるようになったらしい。
「うんそうだね、僕らは魔剣だって使うし、せっかく直ったシロナの右手を壊しちゃっても怒らないでよ」
意外にも、ユリウスとカタリナの二人ともすぐに戦意を整え、片手に魔剣、もう一方の手に親父殿の護身刀を手にしてこちらと向き合っていた。
ふむ、アゼルもそうであったし、最近は二刀を使うのが流行っているのだろうか?
「魔剣シュバルツトルテ!!」
「魔剣ブランシュショコラ!!」
掛け声とともに二人は十分な威圧を放つ魔剣を顕した。うむ、アルト殿のもとでも十分な教育を受けていたようだ。彼らはすでに
これなら、一切の遠慮はいるまい。
「いざ尋常に、刀神
多くを失っても、自分にできることをする。
今はただ、未来へ萌え出ずる若芽を、厳しくも正しく導くとしよう。
「ったく、それで夕陽が暮れるまで稽古を続けたってか? お前たちは本当に加減を知らんな」
自分とユリウス、カタリナは日が暮れるまで模擬戦を続け、疲労困ぱいの二人は晩御飯を食べるとすぐに親父殿お手製の二段ベッドで眠りについてしまった。
「二人とも魔族の中では貴族の優秀な出ゆえ、体力も底なしでござるからな。それに、時間のことを言うなら親父殿こそもっと早く声をかけてくれてもよかったと思うのだが」
親父殿はユリウスとカタリナに毛布をかけたあと、棚の奥から酒を取り出して晩酌の準備をしていた。二人が寝静まってから自分と一緒にゆっくりと酒を飲む、それが自分がここに帰って来てからの親父殿の日常だった。もちろん自分は酒を飲めないので親父殿の話に付き合うくらいしかできないが。
どうやら聞くところによると、自分と最後に晩酌した日から親父殿は禁酒をしていたようで、もしかすると今はその反動が来ているのかもしれない。
「まあ
なるほど、では仕方ない。職人が、何を次の自分の仕事として選ぶかは大事なことだ。ただそれが自分の手足の話だというのは大変申し訳ないと思う。
「そういえば、礼を言うのが遅れたでござる。親父殿の作った新しい腕、すこぶる調子は良かった。おかげで、こうやって親父殿の酌の相手もできる」
親父殿の空の杯に透明な酒をトプトプと注ぐ。
「バカ野郎、別にそんなことさせるためにお前の腕を作ったんじゃねえよ。それに礼もいらねえ、息子のケガを治すたびにいちいち頭下げられる親なんざいねえだろうが」
そう言いながら、親父殿は注がれた酒を一息に
「それで、シロナ? 次に仕上げるのは手と足、どっちがいい? まあ、足も結局は片方ずつ作ることになるから、ひとつ完成したところですぐには歩けねえが、その分早く世の中を歩き回れるぞ。お前が早く旅に出たいってんなら……」
「左腕が先で、いいでござるよ」
親父殿の言葉を制してまた杯に酒を満たし、己の希望を口にする。
「…………そうか。てっきり、行きたい場所があるのかと思ったが」
満ちた酒の
「もちろん、いずれ外を歩けるようになる日も待ち遠しいし、会いたい人たちもいるでござる。しかし、今は両腕が揃うのが先がいい」
「それは、何でだ?」
「その方が、拙者の
「お前の夢? 初めて、聞いたな」
「初めて、口にしたでござるから。だけどずっと前からおぼろげに、そうなれたらいいと考えていたことでもある」
そう、ずっと思っていた。自分には無理かもしれないが、もしもそれが叶うのなら、と。
「ただ、
覚悟を込めて、自分なりの言葉をここに紡ぐ。
「なんだ、お前の夢ってのは何か資格がいることなのか?」
「……おれは、多くの人の命を絶った。数えきれないほどの魔族を斬り、彼らのあとに続いたはずの夢も可能性も断ち斬った。そんな奴に、夢を語る資格はない」
「シロナ、お前」
「…………そう、思っていたんだ。勇者のあとを追い、彼女の真似をして魔族を斬った。ただ一振りの、そうあれと願われた刀であるために。だがそれは、どんなに取り繕っても善と呼べる行いではないし、そこには拭いきれない悪がある」
どんなに己の煩悶を払おうと、自分が過去にした行いが変わらぬ以上、声ならぬ声が全てを償えと常に耳元で語りかけてくる。
「ああ、それはそうだろう。だが、その悪は誰しもが生きてる以上背負うモノだシロナ。いや、そうじゃねえな。……
自らの胸、心臓のある場所に拳を当て、おれの父親はそう言い切った。
「だから、お前もその悪を抱えたまま、生きていくしかない。
抱えた悪を、何かを諦める理由にするなと。
「ありがとう、
誰かの命を踏みつけたまま、ずっとそこに立ってはいられない。前に、進まなくては。
「そうか、お前を奈落の道に突き落としたのもあの勇者なら、自らの命をもってお前に道を示したのも勇者だったか。いいさ、お前が自分のしてきたことから目をそらさずに、それでも前を向こうと言うのなら、
真っ直ぐに、おれの目を見て親父は言った。
だから自分も、親父に真っ直ぐに答える。
「おれは、聖刀を、打ちたい。親父のように、かつて親父が心血を注いだように、おれの手で鉄を打ち、刀を作りたい」
そうありたいと願った、その理想を。
「お前、それは」
「親父が聖刀からすでに手を引いていることは知っている。だがそれでもおれは親父から学びたい。いつか手にした仮初めの理想を、この手で現実にしたい」
それが、おれの想い描いていた夢。叶えたい、現実。
「……シロナ、分かっているのか? お前の作った刀は、誰かを傷つけるかもしれない。誰かの夢を、未来を断ち斬るかもしれないんだぞ」
その言葉はおれに向けてのモノであり、かつての親父自身に向けたモノでもあった。
だから、自分は大丈夫だ。
「それは、痛いほどに、知っている。だが、おれが作った刀が、誰かの未来を切り開く助けになるかもしれない。誰かの命を繋ぐ一振りになるかもしれない、親父の作り上げてきた刀たちが、これまでそうしてきたように」
この言葉は親父に向けたモノであり、今の自分自身に向けたモノでもある。
刀匠クロムの在り方そのものが、自分のこれからの道を支えてくれている。
彼の積み上げた失敗と、自分の積み上げた後悔が、これから歩く道の土台となってくれている。
「だから、そんな刀を鍛え上げる親父のような
ようやく言葉としてカタチにできた、一番大切な人に伝えたかったおれの想い。
「─────は、子供には旅をさせろってのは、随分の昔の言葉だったか? たく、先人の言葉には
親父は大きな右手で目元を隠すように顔を覆い、あおるように杯の酒を飲み干した。
こぼれ落ちたのは酒の雫か、それともあるいは。
「いいさ、教えてやるよ。刀の打ち方、
「それはこちらも望むところでござる。よろしくお願いしたい、親父」
ここが拙者の旅の終着点であり、ここからがおれの旅の始まりでもある。
多くの失ったモノがあり、身に余る多くを手に入れた旅でもあった。
だからこれからも、何かを失い、きっとたくさんのモノを自分は手に入れていくのだろう。
その眩い未来に目を細めながら、おれは空の杯に酒を満たした。
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