第359話 果ての願い



 赤雷の瞳の魔神を聖剣で貫きながら、黒衣の魔王が灰色の空を波打つように飛んでいく。


「ん、ん~~~~」

 魔神アーシェは胸に刺さった聖剣を引き抜こうと必死の抵抗を示すも、これまでに消費してきた魔素が膨大過ぎたことにより、彼女は徐々に抵抗する力を失っていった。


 流星のように空を駆け抜けた彼らはディスコルドを象徴する大樹、魔晶樹へと衝突することでようやく止まる。


 同時に聖剣アミスアテナの波動が魔晶樹を駆け上るように幹から葉へと広がっていき、暗黒の世界をほんのひと時だけ白く染め上げた。


「─────────ん、きれい」

 自身を聖剣で貫かれていることも忘れ、魔神アーシェの無垢な言葉がもれる。

 それとともに彼女自身も白い光に少しずつ包まれていった。


「申し訳ないですが魔神アーシェ、貴女をこの聖剣の中に封じさせてもらいます」

 聖剣からイリアの声が発せられる。


「そう、なんだ」

 魔神アーシェは少しだけ驚いたように目を見開き、


「そこなら、わたしはゆっくりねむれるかな?」

 安堵するように敗北した現実を受け入れた。


「ええ、おそらくは。…………ですが、魔神アーシェ」

 イリアの真摯な声が響く。


「ん、なに?」

 返ってくるアーシェの声はどこか気だるげで、今にも眠りに落ちてしまいそうなほどだった。だが、


「貴女は、世界がうるさくて眠れなかったのではなく、本当はみんなの楽しそうな声が気になって目が覚めてしまっただけなんじゃないですか?」


「──────え?」

 イリアの言葉に、アーシェは真に驚きの声をあげて目を丸くする。


「面白そうな世界があることに気付いて眠れなくなって、貴女自身もそんな世界に混ざってみたかったんじゃないですか?」

 聖剣となったイリアに表情はない、だが確かに今彼女は優しく微笑んでいた。


 アーシェは考え込むように少しだけ瞳を閉じたあと、

「そう、だったのかな。どう、なんだろ。…………でも、もしそうだったのなら、いいね」

 柔らかな、愛らしい笑みを浮かべる。


「そういうゆめを、こんどは、みようかな。ありがとう、やさしいひと。─────おやすみ、なさい」

 眠りの言葉とともに、ついにアーシェ・アートグラフは聖剣の光に全て包まれて消えていった。


 聖剣アミスアテナの中から、確かに感じられる彼女の穏やかな鼓動。


「…………ふう。これで、封印は完了したってことでいいんだよな?」

 アゼルは安堵の声とともに一息つく。

 彼の臨戦態勢が解けたことによって、背中で翼のように展開されていた魔剣も姿を消した。


「うん、そうだね。…………これで、終わりだね」

 だが、イリアの相槌は彼の安堵とは別の意味合いを含んでいた。


「ん、イリア?」

 彼女の声に違和感を覚え、アゼルは聖剣を見る。

 すると柔らかな輝きが広がるとともに、彼の前に一人のヒト型が形作られた。


 それは彼がもう一度目にしたくてたまらなかった、彼女の姿。


「イリア、お前」

 聖剣によって自らを突き刺し、肉体を失って魂が聖剣に取り込まれたはずのイリア・キャンバスが、今アゼルの前にいる。

 彼女はかつての姿ではなく、まるで湖の乙女のような薄く白い衣に身を包んでいた。


「あ~、やっぱりこうなっちゃったね」

 イリアはバツの悪そうな顔でアゼルに微笑む。


 本来であれば喜ばしいはずの目の前の光景、だがアゼルは言いようのない不安を拭うことができない。


「イリア、どうしたんだよ。アミスアテナと同じように聖剣になったんじゃ、ねえのか? それとも、これからはその姿で……」

 その姿でずっと側にいてくれるのか、そんな淡い希望をアゼルが口にしかけた時、


「ううん、違うのアゼル。私、聖剣から追い出されちゃったみたい」

 なんでもないことのように、イリアはどうしようもない事実を口にした。


「は? 何を、言って」

 イリアの口にした言葉の意味を、アゼルは理解することを頭の中で必死に拒む。


「聖剣アミスの本来の対となる存在じゃない私だと、ずっと同化はしていられないみたい。だから、魔神アーシェの封印もいつかは解けるかもしれないからアゼルはこの剣を大切に扱ってね。聖剣の中は彼女にとって最高の環境みたいだから、ずっと眠ってるのかもしれないけど」

 イリアは話しておかなければいけないと思う大事なことを一息で言い切った。まるで彼女に残された時間がもはやないとでも言うように。


「いや、違うだろイリア。それも大切かもしれないが、そうじゃない。イリア、お前はどうなるんだ? 聖剣から追い出されて、お前は……」

 おそるおそる、嫌な予感を振り払いながらアゼルは声を絞り出す。しかし、


「あ~、う~ん。もうすぐ、消えちゃうかな」

 イリアは自身の手足を見ながらそう結論付けた。

 すでに、彼女の末端は存在が薄く、透き通るようにぼやけはじめている。


「魂だけの存在だと、ずっとは形を保てないみたいだね。うん、今こうしてアゼルと話せてることだって奇蹟かもしれないよ」

 そう言って嬉しそうにイリアは微笑んだ。

 ただそれだけで、自分の人生は報われたとでも言うかのように。


「そんな、わけがねえだろ! イリアが、こんな形で終わっていいわけがねえ。みんなを、守ったんだろ? 俺たちみんなで、助かったんだろ? これから、お前自身の人生が始まるんだろうがよ!」

 アゼルの慟哭が、彼らしかいない魔晶樹の下で響き渡る。


「優しい、魔王だね。でも、ずっと続く人生はないんだよアゼル。私は十分に幸せだった。貴方に出会えてからのこの一年、全部宝物みたいに輝いてる」

 イリアは、愛しい宝物を抱きしめるように胸の前で両手を組む。


「違う! まだだ、まだ終わりなんかじゃない! 終わらないで、いてくれ。まだ俺は、お前に誕生日プレゼントを、やってねえよ。18歳に、なったんだろ? …………世界征服、するんだろ? イリアになら、世界の半分だって、くれてやるよ」

 縋るような声をアゼルは絞り出す。

 どんなに情けなくとも、それで彼女が消えずにいてくれるのならそれでいいと。


「そう、だったね。プレゼント、貰いそこねちゃったなぁ。それに、なんで世界の半分なの? アゼルってそんなにケチだった?」

 冗談めかしてイリアは笑う。

 自身の終わりをすでに受け入れた彼女に、悲愴の色はまったくない。


「そりゃ、世界の全部を、お前に背負わせるわけにはいかないからな。半分は、俺が背負うんだよ」

 落ち着いた様子のイリアとは対照的に、アゼルの瞳から涙がこぼれ続けていた。

 イリアが聖剣でその身を貫いた時よりも、さらに確実な別れを予感して。


「そっか、アゼルも一緒なら安心だね。みんなも、きっとその方が幸せかも。─────でも、やっぱりダメだなぁ。私、半分じゃ我慢できない」

 そこには、イリアがアゼルだけに向けるイジワルな笑みがあった。


「は? お前、そんなに贅沢だったか?」

 イリアの言葉に、アゼルの涙が少しだけ止まる。


「うん、私全部欲しい」

 屈託のない笑顔で彼女は告げた。


「私、アゼルの全部が欲しい」

 何よりも、彼女が欲してたまらないものを。


「イリア、本気か? そんな安っぽいので、お前本当にいいのかよ?」

 涙を拭うことも忘れ、アゼルは頑張ってクシャクシャの笑みを作る。


「そうかな、私には一番輝いて見えるよ」

 イリアは愛おしむようにアゼルの頬を両手で包むように撫でる。

 お互いに、触れた感覚はほとんどなかった。


「だったら、くれてやるよ俺の全部。─────だからイリア、頼む消えないでくれ。俺を残して、いかないでくれ」

 アゼルはほとんど実体をなくした彼女をそっと抱きしめる。決して、壊れ消えてしまわぬように。


「お前の、勇者のいない世界で、魔王なんかさせないでくれよっ」

 彼の涙がこぼれ落ち、彼女に触れることなく地面に落ちて吸い込まれていく。


「ごめんねアゼル。ずっと大好きだよ。ずっと前から、ずっとこれからも、私はアゼルが大好き。愛してる。だから─────貴方は、生きて」

 アゼルの唇にイリアのそれが触れる。


 今まで、何回も何十回も繰り返してきた二人の口づけ。


 だけど、最後のそれは本当に不確かで、曖昧で、イリアの全ての愛が込められていた。


「─────ばいばい、」

 その愛が届いたのを確認して、彼女は笑顔で消えていく。


「イリア、待ってくれ、頼む、行くな! イリア!!」

 アゼルの叫びも虚しく、もはや返ってくる言葉はない。


「イリ、ア」

 彼は、誰もいなくなった虚空を見つめ続ける。今も彼女がそこにいると信じて。


「─────っ!!」

 イリアの加護が消え、聖剣を手にした右手に激痛が走る。

 それでもアゼルは必死に痛みを無視し続けた。その痛みに気付けば、彼女がいなくなったことを認めてしまうことになるから。


 だが無常にも、聖剣アミスアテナによって白く照らされた世界が、再び元の昏きディスコルドへと戻っていく。

 彼の唇に残った名残りも消え、ようやく彼女がもう手の届かない場所に行ってしまったことを、アゼルは理解した。


「あ、ああっ。あああぁぁっ、イリア───────────────!!!!」


 大切な、とても大切な何かが心から欠け落ちて、彼の絶望の咆哮がディスコルドの大地へと響き渡る。



 こうして、勇者イリア・キャンバスは魔王アゼル・ヴァーミリオンの心に生涯消えることのない色を残して、この世界から消え去った。

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