Dear Aria
沢田こあき
Dear Aria
〈
テーブルの上、開いたままの便箋に綴られた、彼女の少し乱れた文字。私は冷たい指で手紙をそっと持ち上げた。
〈あなたもよく分かっていると思う。わたしたち──〉
窓に切り取られた空は澄んだ光に満ちていて、煩いくらいに青色だ。
子どもの頃は、華やかに散る白い太陽も、大きく膨れる雲も、よく見えないくらい遠いものだった。しかし彼女はあの頃すでに、私の遥か上空にいたのだ。
彼女がピアノを弾くところを、隣に座って眺めているのが好きだった。彼女の指の動きには何の迷いもなく、その踊っているかのような軽やかさに、私は魅了されていた。
「音は演奏を始める前から空気にあるの」彼女はいつも言っていた。「ピアノを奏でるときは、それをなぞるだけ。わたしの『音楽』の創り方よ」
彼女のピアノの音色は、聴く者の心を震わせる、なんてものではなかった。高い音が脳天を貫き、低い音がお腹の底を突き破る。周りの皆の身体を破裂させ、また新しく創造してしまうような、圧倒的美しさを持っていた。
彼女はこの町を代表するピアニストになるだろう、と学校の友達は言った。いや、国を代表するピアニストになるだろう、と彼女の両親は言った。いやいや、世界を代表するピアニストになるに違いない、と音楽の先生は言った。私はどの言葉にも頷いた。
彼女とは小さい頃から仲が良かった。内気であまり人との関わりをもたない私も、唯一彼女には心を開いていた。
〈わたしたち、もう一緒には暮らせない。あなたとの間に出来た距離に、このまま平気なふりはできないわ。あなたはわたしの手の届かないところに行ってしまった。毎日顔を合わせるたび、嫌でもそれを意識してしまう〉
前までそう思っていたのは私の方だ。
なぜ自分は何も持たないのだろう。何か一つでも自慢できるようなものがあれば、醜い劣等感を笑顔で隠すことなく、胸を張って彼女の隣に立てるのに。
そんな私に歌うことを教えてくれたのはあなたでしょ。
「とってもきれいな声。きっと歌声も素敵よ。ねえ、歌ってみて」
あるとき彼女は突然そう言って、私を戸惑わせた。その時の私は、一人で口ずさむことはあったものの、まだ人前で歌った経験などなかったのだ。
「歌えないよ」
「思いっきり息を吐けばいいの。どうせ誰も見てないよ」
私たちの住んでいたのは田舎町だったので、子どもの頃の遊び場所といえば、広い自然の中だった。その日も二人で森のそばの草原にいた。
彼女の言う通り、周りに人の気配はない。一番近い家も大分離れていた。そよ風に応えるニレの木々の囁きと、時折枝から飛び立つ鳥の羽音が、静かに聞こえてくる。
彼女はハミングで歌い出した。彼女の一番好きな曲。私は仕方なく遠慮がちに歌詞を乗せていく。
「上半身を楽にして」
僅かに歌いやすくなった。少し声を大きくしてみる。すぐ苦しくなってしまう。深く息を吸ってみる。お腹の底から声が流れた。
でも、歌うってこんなものではないはず。私が出したいのはこんな声ではないはず。身体の奥で『歌』が、自由にして欲しいと悶えている。
「そうよ。歌って──」
〈あの出来事でわたしは、音楽しか人生をかけるものがないんだって気がついた〉
大人になった私たちは、二人で都会の小さなアパートを借りた。彼女はピアニスト、私は歌手の卵として、大きな舞台に立つことを夢見ていた。
彼女はその夢に向かって順調に進んでいた。たくさんのコンクールで賞を取り、演奏会の為にあちこち飛び回った。交通事故に巻き込まれてさえいなければ、先に夢を叶えていたのは彼女だっただろう。
〈あなたをたくさん傷つけてしまったわね。本当にごめんなさい。わたしは、どうすればいいか分からなかったの〉
いくつかの指が曲がらなくなり、ピアノを弾けなくなってから、彼女は変わってしまった。夜遅くまでふらふらと町を彷徨い歩き、帰ってきたと思ったら酔っている。そんな日々が続いた。
「何か他にやりたいことを見つけたら」と言う私に、彼女がいつも呻くような声を出し、私はただ「そう」とだけ返す。その繰り返しだった。
それ以上のことは言わなかった。彼女が出ていってしまうことほど恐ろしい未来はなかったからだ。私は子どもの頃に抱いていた彼女への尊敬心を、宝物のようにずっと捨てずに持っていた。近頃は舞台に出る機会が増えたため、私が家賃を払っていたけれど、彼女がこのアパートを離れることは彼女に見捨てられるも同義だった。それなのに。
あんなことを言わなければよかった。
昨夜の彼女は深く酔っていた。酔って、悲観的なことばかりを呟いていた。「何もできない」「何もない」私はかけるべき言葉が思いつかず、もう幾度目かのいつもの台詞を口にした。他に──
「やめて!」
長い練習の後で疲れていた私は、珍しく尖った声で叫ぶ彼女に、驚きよりも先に苛立ちを覚えた。その不快な感情が喉を逆流して、気がついたら口からこぼれていた。
「だったら何を言えばいいの。何を言ってもどうせ、そうやって逃げるだけでしょ。私がどれだけあなたに我慢してきたと思っているの」自分のものでないみたいに、刺々しく耳障りな掠れ声。「もう顔も見たくない!」
言ってしまってすぐに後悔した。
「そうよね」違う。違うよ。「ごめん」違う。何で謝るの。謝ってほしいわけじゃない。本気で言ったわけじゃない。
彼女は、部屋の白々とした明かりにかき消されそうなほど、切なげで儚ない微笑みを向けた。プラチナブロンドの髪が艶やかに光り、潤んだ青い瞳が細められる。
とても、きれいだった。
私は罪悪感に溺れそうになりながらも、朝日が滲んだ薄い霧のような彼女の美しさに、長いこと目が離せなかった。
「私が言ったこと全部嘘よ。ここにいて。離れていかないで」
本当は分かっていた。そんなことを言ったところで、もう手遅れだ。
彼女はふっと呟く。
「離れていったのはあなたの方よ」
※ ※ ※
次の日彼女はアパートを出て行った。一通の手紙を残して。多分、前々から心に決めていたのだろう。あの夜のことはただのきっかけにすぎず、手紙もとっくに用意していたに違いない。
追いかけていきたかった。けれど私には立たなければならない舞台があって、歌わなければならない楽曲があった。私は空に近づきすぎたのだ。光に絡まり雲に呑まれて、霧の中に霞んでいく彼女の影を引き留めることができなかった。
彼女が去った後、私の中で、私を形成する一番大事な何かが崩れ落ちてしまった。
彼女のことを想いながら、今夜も舞台の上に立つ。眩しいスポットライトが頭上から降り注ぎ、このオレンジ色の空間に、演奏の始まりを告げる観客の拍手が溶けていく。
大地に優しく触れる風のようなピアノの音色。深く息を吸い込む。途端身体に自信が溢れ、自分がずっと大きくなったような気がした。さあ、歌おう。空気の中に音はある。私は『それをなぞるだけ』。
〈今までありがとう。こんな別れ方をしてしまうけれど、覚えていて。あなたの創る『音楽』が大好き。誰よりも大好きよ〉
自分の声がホール一杯に広がって、壁にぶつかって跳ね返り、あとからあとからやってくる新しい声と交わる。ああ、もっと響かせたい。そんな私の気持ちに沿うように、ピアノが力強くなっていった。
これは彼女のピアノの音だ。実際は違うはずだけれど、ふと、そんなことを思った。
私の中から『歌』がどんどん流れ出し、上へ上へと飛んでいく。客席もホールの天井も消えてしまった。見上げた先にあるのは、どこまでも続く青空だけだ。
草原で歌った日、彼女は私の肩に軽く両手を添えて言った。『歌って。歌って! もっと遠く、もっと高くまで!』彼女の温もり、首筋を撫でる彼女の息を、舞台にいるこの瞬間、はっきりと感じる。
〈あなたにわたしのすべてをあげる。わたしの過去も、夢も、名前も全部。会いに来ないでね。わたしが新しい自分を見つけるまで〉
最後のロングトーンをはき出した。どこかにいる彼女に向けて。
身体の奥から熱い塊が込み上げてきて、目のふちに溜まる。いつかのあの空に、涙が一粒ぽとりと落ちた。
〈
Dear Aria 沢田こあき @SAWATAKOAKI
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