救いの橋
シーラ
第1話
自分が生きる価値が無いと思っていた頃。
石川県金沢市の山深い場所にある畑で、母が仲間達と共に農作業をしている。時折、規格外の野菜を送ってもらい、私が働いている店で使っていた。
「収穫で忙しいから、畑まで直接野菜取りに来て。」
母から数ヶ月振りに電話が来て、私は疲れていたが車を走らせた。
昼の兼六園の渋滞を抜け、1車線の続く道をノロノロと進み。信号の多い川沿いを走り、分かれ道を左に進んで、人通りが殆ど無い渓谷にかかる橋を渡っていた時だ。
「…………?」
橋の真ん中辺りで、嗅いだことの無い香りを感じた。窓を締めているのにだ。それは、鼻腔ではなく体全体で感じる香り。
私は車を停止させ、外に出る。サワサワと水の流れる音、肌を撫でる涼やかな風。自然を感じるのに、この香りだけは異質で。この空間だけに存在する香りなのだと本能的に悟った。
甘く、しっとりとして、優しい
私はもっと強く匂いを感じたいと足を動かした。この匂いは私を受け止めてくれる。私を待ってくれていた。
私は必要とされたい。ああ、やっと来れた。ありがとう。ありがとう。
「吸うな!!!!」
感謝の言葉を述べ、香りの元へ行こうとすると、いきなり肩を強く掴まれた。私は不快でその手の主を見れば、その人は母の農作業仲間の大将だった。
「何て顔してやがる。ほら、さっさと俺の車に乗れ。」
拒否しようとするも、ゴツゴツした日焼けで真っ黒の手はあまりに強く。引き摺られるように、側にある軽トラックに押し込められた。そして、ダッシュボードに置いてある缶コーヒーを渡される。
「飲め。」
大将のせいで、香りが消えかかっている。どうしよう。置いていかれる。待たせては失礼だ。私はいきたい。
「えっ、と。大将…。」
「飲め!」
大将は普段とても優しい方なのに。その鬼気迫る様子に私は怖くなった。私の存在が今、大将を怒らせている。どうしよう。
私は不安な気持ちより、いま叱られたく無い気持ちが勝り、缶のプルトップに指をかけた。
『プシュウ』
小気味良い音と共に、匂いはかき消えてしまった。残念だと思いつつコーヒーを口にすると、甘く苦い味が舌に感じる。ここは現実なんだな。嫌だな。
でも、またきっと私を迎えに来てくれる。そう感じてはいた。
「この時間に連れて行こうとしやがるなんて。
お前が連れて行かれたら、お前の母ちゃんに俺は顔向け出来なくなるだろうが。」
「連れて行かれる?」
「ああ。」
迎えに来てくれているのに、連れて行くなんて。失礼な言い方だ。
大将は私の苦手なタバコを、車の窓を開けて吸い始めた。これは必要なのだと言っている。
「ここは俺の先祖から続く土地なんだ。橋を建築させて欲しいって頼まれた時に、色々取り決めていてな。
例えば。橋の下に安全ネットを三重につけて、月に一度は川沿いを見回りをするようにとな。特に、5月は週に一度。」
私は相槌する気も無く、大将もそれを望んでいないようで、タバコをひと吸いする。窓の外に吐かれる煙は渓谷に吸い込まれていった。
「余程用事が無い時は、朝の7時にここに来てんだ。早くても駄目でな。7時なんだ。」
大将はタバコを吸うと、虫の知らせがあって良かったと呟く。
「2か月前。畑を抜けて7時少し前にここに着いてな。忙しいからあと10秒だが戻ろうと車をUターンさせたら、バックミラーに先程まで無かった車がいてな。慌てて近づいたら誰も乗ってなくてな。警察と消防ヘリが来る事になった。
たまにあるから、やっぱり7時まで居ないといけないんだ。」
私は急に背筋が寒くなった。渓谷から流れてくる涼やかな風のせいだけではない。
大将は何で淡々と話せているのだろう。流れ作業のように言っている。
「今日は午後は休みなんだが。呼ばれてここに来たらお前がいた。つまり、お前はまだ生きてろ。仕事を辞めて旅行でもしてこい。」
「ま、待って下さい。話がみえなくて。」
「…もう大丈夫だから、外に出るぞ。」
言われるがまま、車から降りて自分の車に近づいてみた。あの香りはもうココには無く、寂しくなる。
彼に去られた時なんかより、もっとずっと、寂しくて堪らない。恋しい。
大将が見ろと橋の下を指差している。欄干に手を添えてそっと覗き見ると、川に向かって大きな転落防止ネットが厳重に張られていた。渓谷の美しい光景も、これだと台無しだな。
「迎えられた人間は、引っかからずに下まで行くんだ。ネットがあるのは、うっかり落ちた人間用って事だ。」
「あの香りは何でしょうか?幽霊とか、土地神とかそういうものですか?」
「知らん。わからんと言った方が良いか。」
咥えタバコで深く溜息を吐く大将。その深く皺のよる顔に私はわかった。ああ、この人も迎えられていたんだな。
「誰に連れ戻されたんですか?」
「嫁の母だ。あの人はそういう類いに敏感でな。悪いものではないそうだが、時折悪戯に呼び寄せる時もある。
橋は生活に欠かせないから、事故だけはないようにってな。」
あの香りには優しさしかなかった。悪いものだとは思いたくない。
「お前は俺のように止められた。つまり、お前はこれから幸せにもなれるって事だ。」
見透かされたようで、私は手からどっと汗をかいた。幸せに?私が?
『私はブスと無理矢理付き合っている彼が可哀想で、慰めてあげてただけ。ブスより給料低いなんて知ってたら近寄らなかったわ。だから、私は被害者なの。わかる?
それに。男を立てられないブスより、愛嬌ある女の方が良いに決まってるでしょ。迷惑料払わなかったら、ブスに虐められたって言いふらしてやる。』
私達の住む家で、私が祖母からプレゼントされたネックレスを身に付ける、ピンクの唇の女の言葉。
『お前みたいなブスといれるのは、俺しかいないんだ。彼女と結婚するけど一緒にいてやるから、お前の結婚資金貯めてたの出せ。
はぁ?………ブスのくせに口答えするな!!』
彼に灰皿で殴られズキリと疼く額の傷は、心の奥まで深く傷付き。見えない血が流れている。
私はここでは誰からも必要とされていない。金を出すだけの価値。私は足が震えてきた。泣いたらブスが余計醜くなるだけだ。耐えろ。
「俺は最後までここで見守るのが役目だ。次にその状態で来たら、俺の役目をお前に引き継いでもらわないといけなくなる。帰りは迂回して戻れ。
良い状態になったその時は、此処に景色を見にこれば良い。」
大将の目は、長年あの香りに抗ってきたせいか少し澱んでいる。
現実で待つ人がいるから、何度も戻ってきているのか。
「私はそうはなれません。私は彼から必要とされていない。いきたい。」
「何言ってんだ。お前を待ってくれている家族がいるだろ。そんな顔をさせている屑と比べる事か?
此処での役目は俺で終わりにしたい。我慢はかなり辛いんだ。後は警察が見回ってくれれば良いさ。
住む人も減って人通りが更に減ったから、寂しいと呼ぶ頻度も増えるだろうが。まあ、呼ばれる人はそれなりの理由があるからな。」
「……」
「母ちゃんが待ってくれているぞ。行ってこい。じゃあな。」
「ご馳走様でした。」
大将に『お裾分け』してもらったので、この返答が正しいと思う。私は頭を下げて車に乗り込む。振り向く必要はない。彼が怒っているのはよくわかっている。
「独り占めは狡いよ。」
私はアクセルを踏んで車を発進させた。
ーーー
あの不思議な出来事から、20年が経った。
傷は消えないから、住む環境を変えて全てを一からやり直した。外見を変え、生活を変え。すると、程なくして私を支えてくれる伴侶に出会い、子宝にも恵まれた。順風満帆とはこの状態を言うのだろう。
親戚の結婚式が石川県で執り行われる事になり。家族と実家に行こうと、駅のホームで電車を待っている時だ。反対のホームに違和感を感じた。
「あ、この香り…。」
そう思った瞬間だ。特急の電車に飛び込む人と目が合った。
離れているのにわかる。ああ、なんて幸せそうな表情なのだろう。羨ましい。狡い。
そう思っていたら、急ブレーキとけたたましいアラーム音に現実に引き戻される。駅が騒然となっていた。
「何かあったのかな?お母さん、何か見た?」
「……仕方ないよ。時間はあるから飛行場まではバスで行こう。」
今の私は普通の顔をしているだろうか。
「え?何か見たの?教えてよ。」
「さあ、大丈夫だから改札に戻ろう。」
ああ、勘違いしていた。どこにもコレは現れるんだ。私はこれから見守らないといけない。抗わないといけない。
この、甘く優しい香りを独り占めしたいという欲望を抑えながら。
救いの橋 シーラ @theira
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