ボーイミーツガール

 僕には、好きな場所がある。

 舗装された山の上の道から、眺める景色だ。

 そこは、真っすぐに伸びる線路が走る場所だった。

 その線路を、電車が走る風景が僕は好きだった。

 僕は鉄道オタクというわけではないけれど、この場所で電車が走る様子を見るのは一向に飽きなかった。

 何もない時ではなく、電車が走り抜けていくのを見るのが好きだった。

 何の電車でも良い。電車が走って行くのを見たかった。

 ここを通るのが何線かぐらいは知っていたけれど、どういう電車が走って行くのかは知らなかった。

 そのぐらいの知識だ。

 この光景がとても好きだったので、どうしても切り取っておきたくて、カメラに手を出してみた。

 色々勉強してみたけれど、僕には才能がなかったみたいで、全くうまく撮れなかった。

 うまく、というよりは、自分の頭に思い描くように、理想の形にできなかったというのが正しい。

 時間をかければかけるほど、この目の前の景色も刻々と変わって行ってしまう。

 その間に、今まで通らなかった電車が通るようにもなった。

 走らなくなった電車もあった。

 僕は焦って、カメラをあきらめた。

 次に手に取ったのは、ペンだった。

 絵を描くことにしたのだ。

 絵を描くには何回も通わねばならず、また進み具合も微々たるものだったが、僕の性格にとても合っていた。

 また絵だと、思うように線が引けて、自分の感動した景色を残すことができた。

 画材も色々あって、どれにしようか考えるのも楽しかった。

 水彩色えんぴつというものが僕の描きたいものにあっていたので、最近はこれを使っている。

 僕は、この絵を描くことに夢中になっていた。

 そして最近、この場所にいる人がもう一人増えた。

 道路の切り立った崖になっている方のガードレールに体をくっつけて、景色をずっと見ている僕と同い年ぐらいの少女だった。

 車も人もほとんど通らない狭い道路だから、僕も道路の端で絵を描いているぐらいだし、特に危ないことはないが、あんなに身を乗り出しそうにガードレールひっついているのは少しハラハラした。

 ただ、全く知らない人だし、僕が声をかけて不審がられても悲しい気持ちになるし、うまく声をかけられる自信もなかったので、そのまま知らないふりをして過ごしていた。

 彼女を気にしないのはなかなか大変だったが、とりあえずいつも通り絵を進めた。

 彼女は彼女で、目の前の景色にとても集中していて、こちらのことなど気にも留めていないようだ。

 それならそれで都合が良い。

 だんだん僕もこの状況に慣れてきて、絵に集中できるようになってきた。


 そんなある日のこと、いつもの日常に変化が起きた。

 僕は学校があるので、この場所に来るのは週末になる。

 雨が降ると来れなくなるので、そうなると、来れる回数は自然と少なくなる。

 梅雨の時期などは全く来ることができなくなってしまう。

 だから、晴れている日は、多少寒かったり暑かったりしても行くのだ。

 今日は、よく晴れているとても暑い夏の日だった。

 僕は夏休みにはいっていた。

 普段は休みの日しか来れないから、夏休みはずっと描いていられるから、夏休みは気合が入る。

 始まってから、友達や家族との約束以外はずっと絵を描いていたと思う。

 宿題もきっちり終わらせて、今日は夏休みの最終日。

 これまで思う存分絵を描いてこれたから悔いはないが、今日も一日きちんとやりきりたいという意気込みだった。

 それでも、寝坊はしてしまうわけだが……。

 暑いから、本当なら朝早くに起きて、朝の涼しいうちにやってしまおうと思っていたのだが、寝坊をしてしまって、この暑い中絵を描くことになってしまった。

 そして、汗を流しながら一心不乱に絵を描いていた。

 今ちょうど電車が走るところで、この姿を描いておきたいから、手を止めるわけにはいかなかった。

 最初は特に電車にこだわりなく描いていたのだが、描くにつれて、だんだん好きなデザインの電車が出てきて、特定の電車で描きたいという欲求も出てきていた。

 それを狙うためにも、朝早く来たかったというのもあったが、過去を嘆いてもしかたがない。

 一瞬で過ぎゆく電車を、必死に目に焼きつけながら手を動かしていた。

「すみません」

 すると、横から声をかけられた。

 驚いて、勢いよくそちらを向いてしまった。

 そこにいたのは、あのガードレールを握りしめながら景色を見ていた少女だった。

 少女は、僕の様子を戸惑いながら見つめている。

「あの……ここでいつも絵を描いていますか?」

 そう彼女が聞いてきた。

「え……あ……」

 僕は何を聞かれたか理解はできたが、どう返して良いのかどころか、この状況が理解できず、口をぱくぱくさせる。

「ご、ごめんなさい……!」

 そして、画材を慌てて抱え込むと、その場を走って逃げだしてしまっていた。

「あっ……」

 彼女の声が聞こえた気がしたが、振り切ってそのまま走った。

 こんなに走ったことはない。

 ふらついて耐えられなくなり、立ち止まった。

 蝉の声が耳をついてくる。

 じわじわとまとわりつく熱気。

 周りも、ゆらゆらと揺れ動いて見えた。

 横を見れば、自分の家の門が見えたので、何とか家まで帰りつけたようだ。

 ふらつく足を何とか動かし、玄関にたどりついた。

 玄関のドアを開けると、キッチンに駆け込んでコップを出す手間も惜しくて、蛇口から水を出すとそのまま手で水を受け取って顔を洗うように水を顔に当てて水を口に入れた。

「あらあら、そんなに慌ててどうしたの。大丈夫?」

 すると、部屋の外から声をかけられた。

 顔を上げると、苦笑いを浮かべている母だった。

「ごめん。限界だった」

「集中しすぎるなって言ってるでしょ?」

 まったく、と言いながら、母はまたどこかに行った。

 母は、フルタイム勤務で土日が休みの仕事をしている。

 平日は必要最低限しかできないからと、土日の出かけない日はだいたいいつもできない家事をして過ごしていた。

 たまたま夏休み最終日が日曜だったので、母は今日家にいた。

 パタパタと忙しなく動く母を見送りながら、水を口にした僕も人心地ついた。

 その後は、描いた絵の着色作業をして、翌日の学校の準備を再確認した。

 走り去る電車だけは、その走る姿の線を描くことしかできないので、着色はネットで電車の画像を探して、それを見ながらやるのだ。

 あとは、手直しをしたりしてその日の絵を仕上げる。

 彼女に話しかけられる以外は、全くいつもの週末だった。

 また彼女は来るだろうか。

 そうしたら、どうすれば良いだろう。

 あのような態度を取って、非常に気まずいのはあるのだが、そもそも彼女は何を目的にこちらに話しかけてきたのかも疑問だった。

 それが、とてつもなく不安だった。

 考えても答えが出ることはなかったので、結局は週末になってからまた考えることにして、その日は眠りについた。


 そうして、僕は瞼を光が刺激するのに気づいて目を開けた。

 今何時だろうと時計へ目をむけた。

「げっ!」

 時計は九時をさしていた。

 学校の始業時間を過ぎている。

 もうきっと家族は出てしまっているだろう。

 なぜ誰も声をかけてくれなかったんだ?

 飛び起きて、慌てて着替える。

 ドタドタと大きい音を立てて階段を降りると、掃除機をかける母親が居間にいた。

「あら、どうしたの?」

 掃除機を止めて、驚いた顔をしている。

 それはこっちのセリフだと言いたかったが、僕は一旦落ち着いて母に言った。

「母さん、仕事は?」

「何言ってるの。今日は日曜日よ」

 母は、からかうように笑って言った。

 僕はますます混乱した。日曜は昨日だ。

 だって、昨日あの場所で絵を描いて、そして眠りについたのだから。

 日曜日の次は月曜日で、月曜日の今日から学校が始まる。

 父も母も仕事だ。家には誰もいなくなるはずだ。

 しかし、母が家にいるということは、確かに今日は休みなのかもしれない。

「そ、そうだったか……ははっ……寝ぼけちゃってたみたい……」

 僕は、気まずくてぎこちなく笑った。

「それよりも、今日も朝早く行くんじゃなかったの? 出た方がいいんじゃない?」

「あっ」

 母に言われて気づいた。

 今日が日曜日ということは、僕はまた寝坊をしてしまったということだ。

 とりあえずこの状況を考えるのはまた後にして、とりあえず支度をしよう。

 貴重な絵を描く時間を減らすわけにはいかない。

 僕は慌てて支度をして、外に出た。

 そういえば、前の日曜日の朝もこんな感じだった気がする。

 何だか、あの日を繰り返しているような、不思議な心地だった。

 いや、繰り返しているような、というより繰り返しているのか。

 考えながら走っていると、いつもの場所に着いた。

 彼女は、いつものように落ちそうなほどガードレールから身を乗り出していた。

 彼女がいるだろうから、朝早く来たかったのだが、しょうがない。

 これもあの日と同じだ。

 向こうを窺いながら、少し離れた場所に陣取った。

 それからも、あの人同じだった。

 同じ電車が来て、一心不乱にペンを動かしていた。

 使うものは色えんぴつだった。

 その場で、色も同時にのせておきたかったから。

 それで色で線の枠組みを作り、後からきちんと塗り込めるのだ。

 あの日は、筆が進んでとても調子が良かった気がする。

 だからこそ、彼女の気配にも気づかなかったのかもしれない。

「すみません」

 しまった。

 僕は、勢い良く声のした方を向いた。

 少女は、驚いたように少し後ろに体を仰け反らせた。

「え……あ……」

 また馬鹿みたいに、僕は口をぽかんと開けてしまっていた。

 何も言葉が出てこない。

「ご、ごめんなさい!」

 そう言って、その場を走り出す。

 またこれも同じだ。

 逃げるように走って走って、ただ途中で立ち止まった。

 彼女が見えないか周りを窺って、持っていた水筒を開ける。

 麦茶を勢い良く飲んで、人心地ついた。

 これは、前の経験を生かした。

 そうして、ゆっくり歩いて家に着いた。

 そっと家に入ったが、中にいた母はすぐに僕に気づいた。

「あら、帰ってきたのね。ちゃんと水飲んでた? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。ご飯ある?」

「良い時間に帰ってこれたわね。できてるわよ。食べましょう」

 言われて、僕はすぐに荷物を置きに部屋にあがった。

 そうして、手を洗いご飯をとり、家族と会話をし、絵の着色をして、眠りにつく時間となった。

 ベッドに入ろうとして、僕は少し立ち止まる。

 結局ほとんど同じ日を繰り返してしまった。

 なぜまた同じ日曜日を過ごしたかわからないが、ここで寝て果たして明日から学校が始まるのだろうか。

 特に同じ日を繰り返している以外は何もないのだが、異常な状態であることには間違いないし、不安は募る。

 しかし、今日は外に出ていたのもあり、体は疲れていた。

 眠気には勝てず、結局ベッドに入って眠りについた。


 再び目を覚ました。

 時計を見る。

 時計の針は九時をさしていた。

 僕の心はひどく落ち着いていた。

 よく聞くと、母親が掃除機をかける音が部屋まで響いていた。

 よく見ると、外の雰囲気も日曜の落ち着いた雰囲気だ。

 平日の皆の通勤通学が落ち着いた後のような空気とは違う。

 今日も日曜日、つまり夏休みの最終日なのだと、僕は察した。

 これが急に一週間進んで、来週の日曜日になっていたりは恐らくないだろう。

 しかし、また寝坊をしてしまったことには変わりない。

 服を取り出して、素早く着替えると、下に降りていった。

「あら、おはよう。今日早く行くって言ってたけど大丈夫?」

「そう思うなら起こしてよー」

「休みの自分の予定ぐらい自分で起きてみなさい」

 僕が口をとがらせて言うと、母はすげなく返した。

 それももっともな話なので、何も言えない。

「ご飯は食べていきなさい。用意してあるから」

「はーい」

 いつもの日常だ。

 テレビをつけて曜日を確認したが、やはり昨日の日付だ。

 僕はあえて、いつもの日常のように過ごすことにした。

 僕は確信していた。

 あの日を繰り返しているのだと。

 何が原因かわからない今、落ち着かなければいけない。

 僕以外のみんなは繰り返していることを知らないようだから、このことを相談するのも難しそうだ。

 とりあえず、少しずつ繰り返していることを変えていって、何か変化があるか見ていくのが良さそうだと思った。

 慌てずに、落ち着いてゆったりといつもの場所に向かってみることにした。

 そうしていたら、日は高く上り、突き刺すような日の光が頭を焼く。

 帽子はかぶっていたが、熱が突き抜けてくる。

 さすがにこの暑さで外にいるのは自殺行為かもしれない。

 やっぱり、朝早く行くべきだったな、と後悔していた。

 いつもの場所が近づいてくると、僕は足を止めた。

 少女がガードレールに身を寄せて、山下の線路の見つめていた。

 今度は、少女の方が早く着いていたようだ。

 どうしよう。このまま行ったら、少女に話しかけられるのだろうか。

 あの時は僕の方が先に来ていたから、少女は気づいたのかもしれない。

 今度は、気づかれないように静かに行けば話しかけられずに済むかもしれない。

 情けないが、彼女と話をする勇気はなかった。

 一体何を言われるのか、考えただけで恐ろしい。

 そもそも、この絵を描く時間を人には邪魔されたくないのだ。

 この趣味をわかちあえるような友達がいたら、と思ったことがないわけではない。

 だが、鉄道が好きなわけでもない。絵がうまくなりたいというとも違う。

 ただひたすら、自分が気に入った電車が走る景色を理想通りに描きとめたい、それだけなのだ。

 そういう人とは今まで結局出会うことはできなかった。

 彼女を様子を見ても、きっとあの電車が好きなのだろう。

 話しかけられて、微妙に話がかみ合わなかった時の、あの気まずい空気も味わいたくない。

 相手にも味わわせたくない。

 だから、こうして避けるのがお互いにとって一番良いのだ。

 彼女から身を隠すように、姿が見えるところは素早く動き、なるべく影になるような場所へ移動した。

 道路の奥に行くと、高台の公園がある。

 そこへ行けば、絵を描く場所を確保しながら彼女から離れられるだろうと考えた。

 草木が生えてるところは、虫がいたり危ないものがあるかもしれないので近づかないように言われていたが、背に腹は代えられない。

 これで少しは僕の姿も隠れるだろう。

 少し背の高い草が生えているところに、僕はシートを敷いて腰かけた。

 草が少し視界に入って見にくいが、贅沢は言えない。

 彼女が来てから、少しここも不便になってきた。

 どこか他に良い場所を探すべきなのかもしれない。

 とりあえず、まずはこの絵を完成させよう。

 頑張って描かなければ。

 そう思って、僕は絵に向き直った。

 草の影になっているおかげで、少しだけだが快適に過ごせた。

 水分補給も忘れずに行い、絵を進めることができた。

 少し遅く来たから、来る電車が前に見たものと違う。

 正確には、同じ時間に見たものは同じだが、今日は前よりも遅く来たから、もう少し遅い時間までこの場所にいたから違う電車が走ってきたのだ。

 こういうことがあるから、朝早くに来たいのもあった。

 この景色に僕が合うと思っている電車が来るのを待つために。

 それは勝手な思い込みではあるけど、僕が良いと思うものを描くからこそ僕の絵になると思っているのでそれで良いと思っている。

 自分の好きな景色を描くために、何枚も絵を描いたりする。

 時には、同じ電車でも違う風に見えることがあるので、それも絵を描く。

 そうすると絵が増えるので、着色作業の時に同時に絵の整理もするのだった。

 少し日の傾きを感じ、顔を上げた。

 さすがにお腹が空いてきた。

 この暑さで空腹は、いくら水分補給をしているとはいえ熱中症になってしまう可能性が出てくる。

 お菓子は少し持っていたが、それも尽きてしまった。

 絵もだいぶ描けたし、そろそろ帰ろうかと顔をあげた時。

 僕の視界に少女が何気なく入ってきた。

 そして、僕の時は一瞬静止した。

 彼女は、カメラを構えていた。

 僕が最初に挑戦して、センスのなさにあきらめたものだ。

 彼女は、写真を撮る人だったのだ。

 僕は、彼女が写真を撮る姿につい見入ってしまっていた。

 彼女も、一心不乱にカメラを構えていた。

 ちょうど電車が二つすれ違うところだった。

 二つとも走り去るまで、しばらく彼女はカメラを構えていた。

 カメラを下ろすまで、僕はじっと彼女のことを見ていた。

 彼女がどういう写真を撮ったのか、とても気になってしまっていた。

 すると、カメラを下ろしたと思ったら、彼女は不意に僕の方を振り向いた。

「!?」

 驚いて、持っていた絵具を落としてしまう。

 僕が慌ててそれを拾ってまとめようとしている間にも、視界の端に映る彼女はこちらに歩み寄ってきていた。

 なぜ急にこちらに気づいたのだろう。

 僕は焦っていたけど、体が動かせなかった。

 その間にも、彼女はどんどん近づいてくる。

 目の前まで近づいてきて、僕はやっと画材を抱え込み、立ち上がって少女から離れようとした。

「待って」

 すると、彼女は僕の腕をつかんだ。

 驚いて、また僕は動けなくなった。

 彼女の方を見て、静止する。

 彼女も僕の方をじっと見て、しばらく見つめ合ったまま時が過ぎた。

 蝉の鳴く声が、いやに耳に響いた。

「カメラ、好きなの?」

 彼女が言った言葉を、しばらく理解できず呆けた顔をしていた。

 またそのまま時間が過ぎる。

「私がカメラ撮ってる時、見てたでしょ?」

 しかしさすがに彼女が我慢しきれなかったのか、少しいらついた口調で言った。

「あ、う、うん……ごめんなさい……」

「だからぁ!」

 不快に思ったのかと、僕がもごもごと言うと、彼女はさらに語気を強くした。

 少し怖くて、僕はびくっと震えてしまった。

「別にあなたは何も悪くない! カメラが好きな人なのか気になって、私が話しかけただけ!」

 少女はさらに続けた。

 そこまで言って、彼女は僕をじっと見た。

 その瞳があまりにも強い光を放つので、僕はぼうっと彼女を見てしまっていた。

「おーい、私の話聞いてる?」

 少女は僕の目の前で手を大きく振った。

「あ、はい、聞いてます……」

 そこで気づいて、何とか返事をした。

 声がうまく出なくて、少しかすれてしまった。

「あなたは絵を描いているみたいだけど、写真にも興味があるの?」

 少女は隣に座って、僕が持っている画用紙を覗き込んだ。

 何だか恥ずかしくなり、僕は胸に寄せて抱えた。

「さ、最初は、し、写真を撮っていたんだよ……」

 しどろもどろになりながら、僕は何とか説明した。

「何で絵を描き始めたの?」

 別に言う必要がないのに、僕は聞かれると答えていた。

「……うまく写真が取れなかったから……」

 しかし、言って心がちくりと痛んだ。

 それが表情に出ていたのか、少女も黙った。

 少しの間、沈黙が流れる。

 汗がじわりと顔と背中を伝った。

「ねぇ」

 少女が、僕の肩に手を置いた。

 僕は驚いて、彼女から距離をあけた。

 彼女も驚いて、僕の肩に置いた手と合わせて、両手を上にあげた。

「ねぇ、写真撮ってみない? カメラ貸してあげる」

 そう言うと、彼女は持っていたカメラを僕に差し出した。

「えっ」

 突然のことに、僕は驚いた。

「ほらほら」

 その間にも、彼女は僕の手を取って、カメラをのせる。

 落としたら大変と、僕は両手でカメラを支えた。

「ほ、ほんとに?」

 僕は少女を窺うように見た。

「何でこんなことで嘘を言うの?」

 彼女は、そんな僕の言葉に笑った。

「ほら、立ってみて」

 彼女が言うのに従って、その場に立った。

 彼女の方を見ても、期待の眼差しを向けてくるだけである。

 写真を撮っていたと言っても、こんな大層なカメラを使ったことはない。

 いわゆるコンデジというタイプのデジカメで撮っていたぐらいだ。

 だから、手に取ってもどうやって使ったら良いのかわからない。

 かろうじて、シャッターを切るボタンはわかるが、きっとこのカメラは露出とかピントとかをいじらないといけないだろう。

「シャッターを切るだけで、それなりに映せるように設定してるから、とりあえずボタン押してみてよ」

 戸惑っている僕に気づいたのか、彼女はそう言った。

 僕はそれに安心して、カメラを構えた。

 ちょうどその時、電車が来た。

 僕は、反射的にシャッターを切っていた。

 ピピッ。

 電子音が鳴り、画面に写真画像が映し出された。

「見せて見せてー」

 すると、少女はカメラを僕の手から取りあげた。

 その画像を、ふーんと言いながら見る。

 表情が急に神妙なものになったので、僕は嫌な予感がした。

「あなたは絵の方が面白いものを出すね」

 予想どおりの言葉だった。

 僕はははっと自嘲気味な笑みが漏れた。

「うらやましい」

 少女が次に出した言葉に、僕は驚いて少女を見た。

「私、アートみたいな写真を撮りたいんだけど、やっぱり人の手で描かれた絵とは世界が違うんだなって思ってるの。だから、それを絵で表現しようとしてるの、すごく面白くていいなって思った」

 そんなことを言われたのは初めてだった。

「……あ、ありがとう……」

 嬉しくて、小さく言葉がこぼれていた。

 少女は、僕に明るく笑い返してくれた。

「私の写真も見てよ。どう思う?」

 そう言うと、少女はカメラをいじって画面に別の画像データを映し出した。

 恐らく彼女が今まで撮った写真なのだろう。

 数枚データを見せてくれた。

 明るさや彩度が細かく調整された、不思議な世界がそこには映し出されていた。

 だが、やりすぎという感じもなく、誰かの思い出の光景を見せられているような気にもなった。

「いいと思う……」

 うまい言葉が思いうかばず、とりあえず良いという感想だけを何とか出した。

 少女は、それで満足してくれたようだ。

 嬉しそうにカメラを抱えた。

「ねぇ、またここに来るでしょう?」

「うん……」

 少女がずいと顔を寄せて聞くのに、僕は戸惑いながらうなずく。

「じゃあ、また会えるね。よかった。じゃ、私はそろそろ帰るね」

 そう言うと、少女は立ち上がって走り去っていった。

 僕は、しばらく呆然と彼女の去る様を見つめていた。

 少しして僕も、片付けをして家に戻った。

 そうだ、僕は帰ろうとしていたんだった、と思い出したのもあった。

 家に帰ると、いつもよりも帰りが遅いので母は少し心配していたようだ。

 何事もなく帰ってきたので、特に咎めもなくその日は終わった。

 絵の着色作業をして、その絵の整理をして、明日の学校の準備も確認した。

 さて、明日はきちんと迎えられるのだろうか。

 できれば、迎えてほしいと僕は思っていた。

 彼女が、また会えると言っていたのが心に残っていた。

 僕も、また彼女に会いたいと思っていた。

 それには、明日が来ないといけない。

 僕は期待と不安を抱えて、ベッドに潜り込んだ。


 僕は目が覚めた。

 時計を見ると、朝六時だった。

 今日は早く目が覚めれたようだ。

 普段学校に行く時はこうして起きられるのに、休みの日になると気が緩むのかわからないが、たまに寝坊をしてしまう。

 だから、アラームをかけるということもしにくいのだ。

 できれば寝れる時には寝ていたいとも思っているので。

 さて、果たして僕は無事に翌日を迎えられたのだろうか。

 ベッドの脇に置いていたスマートホンを手に取った。

 電源をつけると、ロック画面に九月一日月曜と表示されていた。

 夏休みが終わった。

 今日から学校だ。

 僕はベッドから勢い良く飛び出して、支度を始めた。

 体が激しく脈打ち、自分が興奮していることがわかる。

 新しい一日が始まったことが嬉しかった。

 なぜ時間が繰り返していたのか、どうして新しい日を始めることができたのか。

 全く何もわからないままだったが、僕は繰り返しから抜け出せたのが嬉しくて、深く考えるのをやめた。

 周りは何も変わらず、いつも通り過ぎていった。

 母の朝ごはんを食べ、僕は学校に向かった。

 仲の良い友達に挨拶をし、夏休みはどうだったなどと話を始める。

 じわりじわりと、日常が戻ってきたことを実感し始めてきた。

 すると、始業のチャイムが鳴り、教室に先生が入ってきた。

 皆席につき、静かに先生を見る。

「転校生を紹介する」

 先生が軽く挨拶の言葉を述べた後、そう言うと、教室中がざわめきだした。

 隣にいる級友も、どんな子だろうな、と話しかけてきたりする。

 僕も、気になって先生の言葉を待った。

 入りなさい、と言う先生の言葉で扉が開き、転校生が教室に入ってきた。

 僕は、その姿を見て言葉を失った。

 転校生は教壇の所に立つと、礼をした。

「はじめまして」

 名前を明るく言う彼女は、昨日話した少女だった。

 僕と目が合うと、彼女はその笑顔を濃くした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鉄道短編集「鉄道のある場所」 RAN @ran0101

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ