海になった貴方へ

兎紙きりえ

第1話

海沿いの道路を一台の車が走っていた。

左右には豊かな緑と、煌めく海。少し開けた車窓から爽やかな潮風が抜ける。

車内には二人。ハンドルを握る男は風見雄介という。

「はいこれ、古谷さんの部屋の鍵です」

ポケットから取り出した、キーホルダー付きの鍵を後ろ手に渡す腕は、こんがりと焼けている。

がっちりとした体躯と相まって、休日にでも海でサーフィンを楽しんでいそうな『海の男』という言葉が似合う男。

雄介とは古い付き合いだった。


「わるいな、急に部屋まで用意してもらって」


もう一人の男は痩せこけた枯れ木のような腕でその鍵を受け取った。それが私だ。


「全然大歓迎ですって。部屋の空きだけならいくらでもあるんで」


苦笑した雄介は、一転、心底安堵したような表情で。


「こっちに戻ってきたってことは病気治ったんすね。安心しました」


今度は私が苦笑する番だった。

雄介の言う病気というのは、もちろん私の命を蝕むそれのことであり、正直なところその病気というのは簡単に治るようなものでもなかった。

治ったわけではなく、むしろその逆。治る見込みが無いからこそ、戻ってきたのだった。私の余命は幾ばくもない。

死ぬならせめて、無機質な病室のベッドじゃなくて故郷の、それも海が見えるところで死にたい。

そう思って帰ってきたのが真実だった。

私の沈黙に、それを察したのか、雄介はハンドルを握り直し、


「いっそ住んじゃってもいいんすよ」

「考えとくよ」

「そうだ、古谷さん明日って時間あります?姉の墓参り、出来れば来てほしくて……姉もきっと喜びますし」


姉。その言葉にびくんと心臓が跳ねた。

彼の姉、そして私の幼馴染でもある少女は風見楓夏という。


「……それも考えとく」


そう。彼女は丁度、十年前の明日、この海で亡くなっていた。

忘れたくても脳裏に焼き付いた記憶がのそりと顔を出す。

クーラーの効いた車内だというのに脂っこい嫌な汗が額を伝っていく。

つい数分前の出来事を思い出していた。

……その時に聞こえた声は、確かに楓夏のものであったというのに。


故郷に戻ってから最初に訪れた先は海だった。

堤防を降り、テトラポッドを超えた先に広がる海は観光ビーチにこそなっていないものの、素直に美しいと言えるだろう。

見晴らしのいい浜辺に立つと燦燦輝く太陽が一際輝いている気さえした。


「あつい」


翳した手の隙間から、入り込んだ陽光が瞼を焼く。

遠くから海鳥の啼き声が薄らに聞こえ、ざぁざぁさららと、波の音が夏の空に溶けていく。

白く積まれた入道雲、遠くに広がる水平線、吸った風はなんだか塩辛い。

穏やかな風に凪いでは、白い泡を輪郭にして立つ波打ち際を眺めていると

つい、砂の感触を確かめたくなって靴なんか脱いでみたり。

靴の中からさらさら零れた砂粒は砂浜になってから踏みしめると軽く、足の型をとるように沈んだ。

ギラギラ降り注ぐ日差しをたっぷりと浴びた砂は熱を帯びていて、数秒もすれば火傷してしまいそうだ。

全身を包み込む熱気に、夏なんだなぁと感じつつ、それでも十年ぶりに眺めた海は、記憶の中のそれと大して変わらなかった。


砂をぱらっぱ払って、靴を履きなおせば

落としきれない砂が靴に入って、その感触すら懐かしい。

けれども別に、ただ、海を見に来たわけじゃない。

本来の目的を思い出して、私は歩いた。

数分も海に沿って歩けば砂浜の終わり、ごつごつした岩場の入江が見えてくるはず。

果たして、いややはりと言うべき、記憶の通り入江も、秘密基地にしていた洞窟さえそこにはあった。

干潮の時にだけ現れる洞窟の中は浅く、奥側がやや凹んでる構造をしているのもあって、小さいビニールプール程度の手頃な潮だまりが出来るのだ。

それが置き去りにされた海を閉じ込めたようで、私たちはよくそこで遊んでいたのだ。


「懐かしいな」


ふと、感傷が零れた。

それは波の音に掻き消されるような、独り言のはずの言葉で、けれどもそのような形として終わってはくれなかった。


「おかえり」


聞こえるはずのない声が、答えるように。

閉じ込められた海の方から女の子の声が聞こえた。

懐かしく、なんども幻想の淵で思い出した声。

たちまち恐ろしくなって、ぶわりと全身が震えた。

ありえない、と切り捨てようにも、耳に残って離れない。

どこか惹かれる声色に、つい足が引かれては洞窟の奥地へ向いた。

あの声に呼ばれるままに。そうだ、あの頃みたいに小さな海で遊んでみたり。あぁ、それがいい。

その時だった。


「古谷さーん!」


遠くから聞こえてきた声にハッと意識が戻された。

何をしようとしていたのか、思い至って、背中がぐっしょり濡れていることにきがついた。

夏のせいじゃない、いやな汗だった。

取り戻した理性的な思考を手放さないように、堤防に目をやれば迎えの車がちょうどやってきたところだった。


「助かったよ」

「久しぶりに帰ってきてくれたんです。迎えくらい全然しますよ」


そうして雄介の車に乗り込んで、今に至る。



なだらかな斜面に所狭しと並んだ家々の中を縫うように通された細い道路を抜けると、一棟の木造アパートに到着した。


「部屋は好きに使ってくださいね」


と、言い残して去っていく雄介を見送った後、玄関口に荷物を放り出して、ワンルームの部屋に入った。

紙魚の匂いがこべり着いた部屋の窓からは海の青さが覗いている。


「死に場所には少し、贅沢すぎるな」


荷解きを終えたころになって、雄介からメッセージが届いた。


『明日、いけそうですか?』

『こういう言い方は卑怯ですけど、姉も喜ぶと思います。古谷さんのこと弟みたいに気に入ってましたから』


「ああ、よく知ってるさ」

誰もいない部屋に染み込むように、寂しさが口をつく。

『準備しておく』

入力したメッセージが送信されたことを確認もせず、スマホを放り投げ、寝ころぶ。

全身を押しつぶす気怠さを、さっき飲んだ薬のせいにしながら、今はただ、一秒でも早く意識を手放してしまいたかった。



その墓地はアパートから車で十分ほどの距離にあった。

既に誰かが来ていたのか、ジュースなどの供え物と一緒に香が焚かれ、一筋の煙が立っている。

墓前に立ち

享年13。死因は溺死…とされているが、実のところ、未だによくわかっていない。

死体が、見つからなかったのだ。

秘密基地があった海岸の、すぐ近くの崖下あたりで楓夏の

嵐の中、一人で船着き場に居るところを目撃した人


空っぽの墓の前に手を合わせ、雄介と一言二言交わした後、私は一人、ぶらりと街を歩いていた。

確かめたかったのだ。

この街に楓夏が居ないこと。

昔に感じた夏の熱気の中、昔に見た景色のままの街でただ一人足りない彼女の存在を。

だというのに、どうしてあの声が気になっていた。

聞き間違えるはずがない。確かにそこにいたのだ。

潮だまりに足が向く。


日が傾き始めたのもあって洞窟の中は少し暗かった。

子どもが遊ぶには十分な、けれども大人には少し狭い通路の先。

ちゃぷり、と音がした。

慌ててスマホのライトをかざし、絶句した。

その姿に、いつかの夏の日の光景が重なって見えた。



それは中学に上がって最初の夏の日だった。


「ほら!やっぱりこの町にもあるよ!人魚伝説!」


風見楓夏は心底、嬉しそうにそう言っていた。

その日、私達は図書館に居て、彼女はやけに装丁の凝った分厚い本の1ページを見せつけながら言っていた。


そもそものきっかけは確か、当時、流行っていたテレビのオカルト番組だったと思う。

中学生になった私はといえば、自分の病気のことにようやく絶望したとこで。

だからこそ、テレビの内容なんて信じてはいなかったし、楓夏の話す人魚伝説に内心苛立ちを覚えていた。

それからというもの、楓夏は段々と人魚伝説にのめりこんでいった。


「風夏は馬鹿だなぁ、そんなのウソにきまってるじゃん」

「馬鹿なのはやっちゃんのほうだよ!絶対、いるもん!」


古谷(ふるや)だからやっちゃん。私の事をやっちゃんと呼ぶのは楓夏だけだった。


「ってか、なんでそんな人魚が見たいんだよ?オカルト話なら他にもいくらでもあるだろ」

「だって、不老不死になれるのは人魚だけなんだもん」


不老不死。老いることも死ぬこともない。

永遠の命。

……今になって思えば、楓夏も私の病気のことを知っていたのだろう。

だが、当時の私には、彼女が人魚伝説に躍起になる理由に思い至らず、ただ、不老不死という言葉への嫌悪感しかなかった。


「もうすぐ嵐が来るみたい、だからね」


夏の途中、私の容態が急変して入院することになった。体を動かすたびにズキズキと、無数の針を刺されているみたいに痛くて、ベッドの上から動けない日々が続いていた。

ベッドの傍に座った楓夏は言った。

いつもなら何の了承もなく、ずかずか病室に踏み入っては、人魚がどうたら話し始める彼女だからか、言い淀んでいる姿が何だか新鮮でよく覚えている。


「待っててね。私、人魚を捕まえてくるから」


その日、彼女の言う通り、天気予報に無い急な嵐が街を襲った。

そして、風見楓夏は海へと消えた。


次の日、雲ひとつない空っぽの青が広がっていた。

台風が雲も、波も全て奪い去ったみたいに、街は異質なほど静まり返っているのに、大人達は慌ただしく動いていた。

楓夏のところのおばさんが、警察を連れて家に訪ねてきた。

楓夏の居場所を聞かれ、彼女と交わした最後の言葉を聞いた瞬間、おばさんが膝から崩れ落ちた意味を、その時の私は知らなかった。

後になって、漁師の1人が唸る風の中で岬に立つ人影を見たのを知ってようやくその意味を理解した。

気付いたときには既に、台風が全てを奪い去った後だった。

雲も、波も、楓夏さえも。



それからは毎日のように海に入っては探した。

病の、全身を刺すような痛みなんかより、心に空いた穴の方がずっと痛くて苦しかった。

楓夏の来ない病室は、ずっと真っ白なままで、締め切ったカーテンの奥に楓夏を呑み込んだ海が広がっていると思うと居ても立っても居られなくなった。

いるわけない。見つかるわけがない。

そんな言葉を飲み込めるほど、私は大人ではなかったのだから。

春になって、夏になって、秋になって、冬になった。

風見楓夏は戻ってこなかった。

行方不明のチラシが擦れ、破れるたびに張り替えた。

また春になって、夏になったところで、ついに楓夏のことを誰も話さなくなっていた。

義務感みたいなものが薄れたのか、それとも期間限定のアピールだったのか

大人たちの船はまた魚だけを追い求めるようになった。

これだけ探したのだから見つからないだろうな、まぁ、見つかったらいいなくらいの

希望的観測感覚が伝染していた。

程なくして、空っぽのお墓だけが建った。

風見楓夏は、あの夏の、嵐の海で亡くなったのだと結論が出たみたいだった。



それから10年が経って、目の前に現れた顔は、かつての楓夏そのままで。

水面から僅かに曝け出した胴から下には、鱗が覆い、魚のようなその胴の先には足の代わりに尾びれが伸びていた。


「なんだ、人魚か……」


それは正しく人魚だった。

フィクションの中から飛び出したままの、語られ尽くした通りの容姿をした人魚だ。

正体に気が付くと不思議と気持ちは落ち着いた。

今更人魚なんて。あぁ、遅い。今更遅すぎる。


私は急いで部屋に戻っていた。

床に散乱した錠剤を踏みつけて、私はキッチンに向かう。

すらりと細長い包丁を持って、部屋を出る。



ずるりと倒れ込んだ人魚を見下ろしながら、私は人魚を刺した包丁を握りなおしていた。

肩口に刺さっていた歯が、やがて力なく抜けていった。



人魚の肉を開いて、内臓っぽいよくわからない肉は全部掻き出して潮だまりに投げ捨てた。

骨は抜いて、潮だまりへ、ぽい。卵みたいな泡みたいなものはぷちぷち潰す。

要らないものは穴の中に、食べれそうなところはクーラーボックスに入れて持ち帰り、上半身の肉は唐揚げに、下半身は刺身にした。

人魚の肉は意外と捌きやすくて、流れた血はいつまでも赤かった。


食べて、喉を徹通る痛みに吐きそうになって、また食べた。

押し込むように、胃に詰め込むだけの作業。

貪るように、呑み込み続けた。


人魚を切った包丁を持って、指をなぞった。


「痛っ」


すぅ、ぷつぷつと斑点みたいに浮かんぶ。

指の腹をなぞるように、つー、っと血の雫が零れて、止まった。

未だ残る血の跡を拭えば傷口はきれいさっぱりふさがっていた。


「くだらんな、こんなもの」


肩口の傷からはだらだらと血が流れている。

薬も切れたのか、ようやく体中が痛み始めていた。

食べる前からある傷や病には無意味なのかと思うと、どうにもやるせない。

彼女が追いかけたものの価値が急に落ちぶれてしまった。

所詮、不老不死の伝説など、そう都合の良いものではなかったのだ。


洞窟を出ると空が変わっていた。

嵐だ。嵐がやってきていた。

ごうごうと鳴る風が容赦なく窓ガラスを叩き、大粒の雨が規律の無いドラムロールみたいに屋根を打つ嵐だ。

私は一人、誘われるように海に向かった。


ずぶずぶと体が沈んでいく。

荒々しい波の力が乱暴に体を攫っていく。

塩辛い海水が鼻に口に喉に溢れて痛かった。

目に入った海水からばちばちと刺激してうるさい。

と、差し込んでいた月明りを遮るように何かが通りかかった。

雲だろうか、と考えてすぐに思い至った。

そうか。呼んでいたのはこの娘か。

考えてるうちに影は増え、海底からすらり、海面からすらり。

波に揺られてすらすらり。

瞬く間にその数が増える物だから、

最初こそ、ひぃ、ふぅ、みぃと数えて、やめた。

海面が見えなくなるほど、視界を埋め尽くすほどの人魚の群れ。

そのすべてが、彼女と同じ顔をしていた。

「なんだよ、楓夏ちゃん。こんなところにいたのか」


ぽこぽこ昇る白い泡に赤が混じった。その中に十年前の光景が映って、弾けた。

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