初恋

河童と川姫

むかし、小学生の頃、釣り好きの父に連れられてよく川へ遊びに行った。


京都南部山城地方。

奈良との県境にも近い清流。


助手席から見た風景は今でも覚えている。

夏休みともなれば週に一度は通っていたんじゃないだろうか。

車で1時間もかからなかったこともよく通った理由だろう、父が。

僕もまた、今日、あの懐かしい川を目指す。

免許取ってやっと、親の許可得て初めての一人の運転、その目的地として。

父と母には内緒。

「適当に流してくるわ」

「大きい道、走らんとあかんで」

「分かってる」

不愛想に家の車の鍵を受け取った。


国道からそれれば、徐々にひなびた風景へと変わっていく。

まるで昭和にタイムスリップしたようだ。

道案内はスマホに頼ったが、そもそもナビを使う車の運転も初めて。運転しながらだとナビの案内がこんなにも分かりにくいとは思わなかった。

「こんな道やったっけ?」

途中、何度となく不安にも襲われた。


ジャリジャリジャリ……。


昼過ぎ、それでも何とか、たどり着けた。

砂利の敷き詰められたキャンプ場の駐車場。

慎重に車を枠内に、切り替えし切り替えし、バックで止める。

キャンプ場の景色は同じでも、設備は新しくなっていた。最近のキャンプブームに乗り遅れまいとしたか。


「うーん……」


車から降り、背を伸ばす。

一人でここまで来られた。

疲労感もあるが、達成感こそ心を満たしてくれた。


最後にここへ来てから、もう10年経つ。


あの日、僕は溺れてしまったんだ。


以来、僕がいくらせがもうとも父は川へ一緒に、もちろんここへなど連れてきてくれなくなった。

寂しそうな父の顔から察すれば、きっと母に「釣りにかまけて子どもをほったらしにするやなんて!」とでも、きつくとがめられたのだろう。


せせらぎの音。

夏の川風の心地よさ。

現地の友達と遊んだ記憶。

やっと帰ってこられた。

あっという間に小学生の頃に戻った。


河原を上流に向かって歩く。キャンプ場の喧騒を避けるように。

覚えている景色より、何だか小さくみえる。

それだけ自分が大きくなったということか。

胸の奥がジンと熱くなるのは、日差しに当てられたせいではないだろう。


あの日も僕は父から離れて遊んでいた。

父はいつも釣りに夢中。

一人遊び……、ではなかった。

ここでの友達。たくさんいた。覚えている限り、5人はいたはずだ。

「よう、来たな。遊ぼうや」

ニコニコと、手を引くようにして導かれ、秘密の遊び場へ。


(あの子たちは今頃、何してるんやろ? もう顔も思い出されへんな)


清流に流れる風が、ぱっと髪を乱した。


おしゃれなんて言葉も知らない少年期だったけど、ここの友達たちはみんな青々とした坊主頭だった。

今にして思えば、それもまた昭和。

やんちゃな子供がタンクトップと短パンでどろどろになるまで遊んでいた、そんな感じ。

それに僕も混ざって相撲なんかもして遊んでいた。


楽しかったなあ。


大きな岩があった。


(ああ、これこれ。これの大きさだけはあのころと変わらへんなあ)


きつい夏の日差しをさえぎるほど、圧迫感すら覚える巨体。

当時から大きかった印象あるが、大人になった今でも、手を伸ばしても巨岩の半分の高さにも届かない。

見上げるばかりで、ぐるり回ってもどこにも手も足も掛けられず、上に登れるものではない。


(あれ? でも、あの子はこの上にいたやんな? どないして登ったんや?)


あの頃、一人の少女がいた。


まぶしいくらい輝いていた。


そう、見えた。


長い黒髪が風に揺れる。

さらさらと流れる清流のよう。

岩の足元で僕たちが声を上げてはしゃいでいても、大人びた顔は下を見ていなかった。ずっと山や空を見ていた。

足をぶらぶらさせて。

素足の指の先がなんだかなまめかしく、子供心にも見惚みとれたのを覚えている。

友達にも、彼女にもばれないように、時々ちらちらと見ては胸が高鳴っていた。


(もしかしたら、彼女に会えるかも?)


セピア色の、あわい想い出。

ほのかな期待がなかったわけではない。

成長したらきっと、美しい女性になる。

ここまでの運転、車のなかで、頭のなかではそんな想像が駆け巡っていた。


「おまえ、あいつのこと、気になるんか?」


記憶の中の友達がいう。

ニヤニヤした顔は、明らかにからかいが入っていた。

友達たちは彼女のことを知っている。

訊けばきっと、教えてくれたはずだ。

でも、子どもの頃のこと、女の子のことでからかわれると意地になる。


「ちゃうわ!」


ぷいと横向いて、川のほうへ。


「そやったら……」


あそぼ、あそぼ、もっとあそぼ。


他愛ない声、きっと本当に、ただ遊びたい、もっと遊びたい、それだけだったのだろう。


誘われるまま、川のなかへ……。


急に体が沈んだ。

いつの間にか川の真ん中、流れが作った淵に落ち込んだのだ。

流れは急で、複雑で、もがいたけれど、体は浮かない。

沈んでいく。


友達はでも、みんなうまく泳いでいて、それがまた悔しかったような気がする。

水のなかでも笑う友達。

必死に僕も真似して……。


「あかん!」


水のなかなのに、声が聞こえた。


「あかん! あんたはそっち行かれへん! 戻ってきぃ!」


水のなかで抱きしめられた。

細い腕、滑らかな体。

溺れて、苦しくて、余裕なんて何もないはずなのに。

よみがえるのは、冷たい川の水の記憶よりも、彼女の肌の温かさの記憶。

頬が赤くなる。


気付いたときには、大人たちに囲まれていた。

暑い夏の川ではなく、涼しい冷房の利いた病室のなか。

母と、何より父がわんわん泣いていた。

それで理解した、ああ溺れたんだと。


「あの子らは?」

「何いうとるん? あんた一人だけやで?」

「そやかて、みんな……」

「あんた、一人で川のほう行ってたんや。それは見てた人もいてはったんや。でも、姿が見えんようになって、捜したら河原でぐったりって」

「けど……」

「ああ、記憶と意識がまだ混乱してるんやなあ。ええんや、ゆっくり休み」


母が話してくれたけど、そんなはずはない。

僕はみんなと遊んでいた。

僕がうまく泳げなかったから、みんなに迷惑かけたんだ。

だから、みんなに謝らないと。


でも、誰も信じてくれない。

父も、あの場ではいつも、僕は一人で遊んでいたという。


そんなはずはない。


確認のつもりでもあった。

今日、ここに来たのは。


でももちろん、名前も覚えていないような子たち、偶然でも大人になってから会えるはずもない。


何より、あの子となんて。


(ああ、そや)


溺れた苦しい思い出を取り戻しに来たわけじゃない。

初恋のあわい、ときめきの想い出を見に来たんだ。


手には花束。

母の日のプレゼント以外では、初めてそんなものを買った。

でも、渡す相手はいない。


「あかんわ。なんの期待してたんや」


苦笑と共に包装を解くと、花束は川に投げ込んだ。


花は川に流されていく。

想い出もまた、流されていくようだ。

しばし感傷にふけって、花が流れていくのを見守っていた。


(え?)


渦もないところで、花束はまるでつかみ取られたように川のなかへ。


戸惑っていると、


「おかえり。気ぃ付けてな」


はっと振り向いたけど、そこには誰もいなかった。

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初恋 @t-Arigatou

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