音楽室で独り

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音楽室で独り




 



 運動部の朝は早い。


 見た事が無いのであまり良く解らないが、朝練のため、結構早くに集まっているらしい。


 対して、帰宅部の帰りは早い。


 放課後が長い。


 帰宅部は根暗で陰キャラという偏見が良くあるが、僕はそうじゃ無い。

 僕はただ、早く家に帰って好きなだけピアノを弾きたいだけなのだ。

 まぁ大して上手くも無いので、人前で聞かせる事は出来ないので、家で一人で弾いている。

 最近は即興演奏にハマっている。

 その場でコードとメロディを考えてその場で弾く。

 少し趣味で作曲もしているが、即興していて不意に思いついたモチーフの中で良いものがあったらその都度メモったり。

 弾き始めると止まらなくなり、気付いたら20分程即興している事もしばしば。

「弾け」と言われれば、一時間くらいなら即興できるだろう。

 まぁこれに関しても、とても人に聞かせられるものでは無いが。

 所謂自己満足だな。

 だがそれが、こうして一人でピアノを好き勝手弾くのが、どうしようもなく楽しいのだ。

 小学生がテレビゲームをする様に。

 僕はピアノを好き勝手弾くのだ。


 それが、帰宅部である僕の、放課後である。





 そして暫く。

 そろそろ銀杏の葉が黄金色に染まり、窓を開けると気持ちの良い風が髪を靡かせる。

 草木は枯れ始め、その様を見て少し寂寥感が込み上げてくる。

 つい眠りこけてしまいそうになるのを何とか堪えながら、その日の授業を終えた。


「あぁ、田村」


 ホームルーム前。

 担任に名前を呼ばれたので、教卓の隣へと足を運ぶ。


「いっ…………!」

「あっ、ごめんなさい………………」

「あっ、大丈夫大丈夫」

 

 机と机の間を歩いている時、宮島さんの足を少し蹴ってしまった。

 女子相手だとどうしても引け腰になってしまう。

 

「田村さ、前の身体測定休んでて受けてなかったろう? だから今日の放課後、保健室に行ってくれ」


 担任にそう言われ、はいと頷く。

 そして僕は足早にその場を去った。

 あまり他人と話すのは得意じゃ無い。

 さっきのを見たら解るだろう。

 他人が嫌いな訳では無い。

 担任が嫌いな訳でも無い。

 寧ろ良い人だ。

 だが、喋るとなるとどうも上手く言葉が紡げない。

 帰宅部が陰キャラという偏見は、あながち間違ってい無いのかもしれない。


 そして終礼後。

 僕は保健室に向かい、身体測定を受けた。

 身長が、去年と比べて1センチメートルだけ伸びていた。

 中学三年生の時が167センチメートルだったので、168センチメートルになったのだ。

 体重は0.4キログラム減っていた。

 ほぼ誤差の範囲ないだろう。

 できれば170センチメートルを超えたかったが、成長期はもう終わったか。



「失礼しました」


 僕は保健室を後にして、教室に戻った。

 未だ荷物を置いたままだったのだ。

 慌てる必要も無いので、一段一段、ゆっくりと階段を登る。

 三階まで上がった所で廊下へ出て、教室から荷物を取り、再び階段を降りようとしたが。

 今はこの校舎にあまり人が居ない様だったので、いつもとは違う経路で靴箱まで向かおうと、その階段からは降りなかった。

 テスト前だからなのか。

 部活生は皆既に帰途についているのだろう。

 部活生よりも帰るのが遅いだなんて。

 珍しい事もあるものだと、何故か高揚した。

 どうやら今この校舎には僕一人しかいない。

 そう錯覚できたのだ。

 窓の外を眺めると、所々が茜色に染まった葉が見受けられた。

 思わず足を止めてため息を吐きたくなる美しさだ。



「…………あれ?」


 そうして廊下を歩いていると。

 一つの部屋の扉が開きっぱなしになっていた。


「鍵をかけ忘れたのか…………」


 そんな事を呟きながら、中を覗いた。

 そこにあったのは。


「ピアノ…………」


 そこは音楽室だった。

 窓の外に集中していたので、気付かなかった。

 部屋に電気は消えていて、その奥の窓から差し込む夕日が、黒く艶やかなグランドピアノの側板が、薄く紅色に染まっている気がした。

 その輝きに、僕は我慢が出来なかった。

 スリッパを雑に脱ぎ捨て、音楽室の中へ入った。

 そして抱えていた荷物を床に放り、そのピアノを俯瞰した。

 嗚呼なんて美しいのだろう。

 家にあるのは電子ピアノなので、どうしてもグランドピアノとは、弾き心地に天地の差がある。

 やはりコンサートグランドピアノなんぞ弾いた時は。

 もう心が宝石店に置いてある磨かれたダイヤモンドの様に透き通る。

 今まで抱えていた悩みやストレスが全て馬鹿馬鹿しくなり、不意に世界が、人生が輝いて見えるのだ。

 そんな魔性の魅力が、グランドピアノにはあった。


 先生がこのピアノを弾くのは見た事がある。

 一体どんな弾き心地なのだろうか。

 そう妄想しない日は無い。


 僕は、ピアノの椅子の高さを調節して、とりあえず座ってみた。

 いつも使っているピアノを買った時についてくる様な椅子では当然無いので、座り心地もまるで違う。

 普段座るのには当然向いていないが、ピアノを弾く上ではとても気持ちが良い。


 良いかな?

 でも、バレたら怒られる…………

 けど。

 けれども。

 ここで弾かなければ、後悔する気がした。

 それなら、怒られてでも弾く方が良いな。

 うん、そうしよう。


 鍵盤に両の手を添えた。

 指と鍵盤が擦れる音が、鮮明に聞こえた。

 頭の中で考える。

 何のキーにするか。

 どんなメロディから入るか。

 どの様な曲にするか。

 どの様なテンポにするか。

 軽く頭の中で考え、しかしあまり良く纏まらなかったので、まぁ間違えても誰も聞いていないし良いかと、行き当たりばったりで即興する事に決めた。





 美麗なアルペジオが、誰もいない音楽室の中へ届いた。

 その音は、壁に当たるなり乱反射して、その音一つ一つをより高級で豪壮な物にする。

 その後左手が、テンポを揺らしつつ、分散和音を奏でる。

 その左手と少しずらす様にして、右手が長6度間隔の二音を装飾音の様に加える。

 それはまるで、黄金色のカステラに金箔を塗す様に。

 そうして次に右手は、メロディを担う。

 即興的なメロディ。

 いや、メロディとはあまり呼べないかもしれない。

 コードの補強を少しメロディックにしているだけなのだ。

 だがこれが綺麗なのだ。

 少し不規則な、メロディとも言えないメロディが、何処と無くBGMの様で、心が和む。


 嗚呼楽しい。

 やはり、グランドピアノを弾くのは楽しい。

 雑音が一切しない。

 この空間だからこそ、今自分は、高揚しているのだ。

 息をするのも忘れてしまいそうだ。

 楽しい。

 楽しい!


「田村君って、ピアノ弾けたんだ」

「ぎゃぁぁ!!!」


 突然話しかけられたので、吃驚して大声で叫んでしまった。

 慌てて口を押さえると、その声の主はクスクスと笑った。


「宮島さん…………?」


 何故ここに?

 そう訊く前に、宮島さんは答えてくれた。


「そうだよ、私吹部だから、楽器取りに来たの。ほら。テスト休みじゃん? だから、家で練習しようと思って」

「宮島さん……吹部だったんだ」

「そうだよ? ちなみにホルンね」


 そう言いながら宮島さんは音楽室の奥の棚を開けて、楽器を取り出した。


「やっぱりベル取り外せるやつは背負えるからさ、楽だよねー。中学の時は背負えないやつだったからさ、今めっちゃ楽」


 宮島さんは棚の戸をゆっくりと閉めた。


「田村君さ、今弾いてたの何の曲?」


 突然訊かれたので、少し慌てる。


「そ、即興です…………」

「即興! 凄っ!」

「いや、そんなに難しい事じゃ無いですよ」

「いや、難しいよ。私もピアノはちょっとだけやってるけど、そんなの全然出来ないもん」


 そう言いながら、宮島さんはケースから楽器を取り出した。

 ポケットからチューナーと取り出し、チューニングをし出した。


「私も、ちょっとだけ吹いてから帰ろっかな」


 宮島さんはチューナーをポケットに入れた。

 そして、マウスピースを唇にそっと当てて、息を吸った。


 ……………


 とても丸い音だった。

 角が取れた、丸みを帯びた、優しい音。

 良い音だなと、聞き入ってしまう。


 亡き王女のためのパヴァーヌ。


 モーリス・ラヴェルの曲。

 原曲はピアノだが、その秀麗なメロディは他の楽器で演奏しても多分に美しい。

 実際、ラヴェル自身が編曲した管弦楽版では、ホルンが初めのメロディを担当している。

 メロディと楽器の音色が、とてもマッチしているのだ。


 ずっとこうして聞いていたい。

 だが、少ししてみたい事があった。


 宮島さんの方に向けていた体を、ピアノの方へと向かせ、鍵盤の上に再び手を添えた。

 今度は手と鍵盤の擦れる音は、ホルンにかき消された。


 僕がピアノを弾き始めると、宮島さんは少し驚いた顔をしてこちらの方を向いたが、暫くすると体ごと僕の方へと向けて吹いてくれた。

 この曲なら、昔に弾いた事があったので、伴奏も解る。

 ピアノの音と、ホルンのメロディが、時計の歯車の様に、綺麗に填まった。

 その瞬間、そっと深呼吸をした。

 嗚呼、今僕は二重奏デュオをしているのだ、と。


 これまで僕は、ソロでしか演奏した事がなかった。

 ピアノなので、それは仕方がない事。

 それが至極だと思い、いつしか一人で弾くからこそピアノは楽しいのだと考えていた。


 だが違った。


 誰かと共に曲を歩むというのは、こんなにも素晴らしく、そして楽しかったのかと。

 その瞬間、心にかかっていた雲が散り、蒼穹が燦然と現れた。


「はぁ…………」


 吹き終えた宮島さんは、マウスピースを口から離し、何度も深呼吸をした。


「田村君、楽しいね!」


 宮島さんは、夕日に染められた頬を上げて、僕に笑いかけた。


「そう…………ですね。楽しいです…………」


 僕も思わず笑んでしまった。


「またどこかで、一緒に弾こっか」

「そうですね」


 音楽室で二人。


 僕は初めて、誰かと音楽をした。











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