『硝子と晶とガラスの壁』

小田舵木

『硝子と晶とガラスの壁』

 ガラスのような壁が私と彼の世界を隔てる。

 いつからこんなモノができてしまったのか?それは分からない。

 思春期を迎えつつある私達。第二次性徴を迎える私達。

 こんなモノがなくたって世界は隔てられてるっていうのに。

 なんで彼に近づこうとすると、この壁にはばまれるのか。

 私は手を伸ばしてその壁に触れる。ひんやりとした触り心地。それは私のてのひらの体温を奪う。

 

 彼とは幼馴染だが。幼馴染なんてものはいつかは分かれる運命にある。

 いつも一緒に居すぎた。そしてお互いにいた。居るのが当たり前ぎて、その価値に気付ななくなっていった。

 中学に上がると私も彼も新しい友人がたくさんできて。そちらとの付き合いが新鮮で、目が移りがちになっていって。


 彼は社交的だ。だからいつでも周りにはたくさん人が居る。

 対する私はそこまで社交的ではない。むしろ没交渉と言っても良いかも知れない。人を避けてるわけではないが、懐に入られるような会話は避けてしまう。

 

 ガラスの壁越しに彼を眺める。

 彼は友人たちと笑いあっていて。その笑顔はまぶしい。昔はその光を飽きるほど浴びたものだけど、今は久しく浴びていない。

「まーた見てる。晶くんがそんなに気になる?」私の席の隣に座る友人はからかう。

「…別に」なんて誤魔化ごまかしにならない台詞を吐いて。

硝子しょうこあきらくんと幼馴染じゃん。攻略するの簡単なんじゃないの?」

「最近ははなししない」

「なのに、熱い視線は送る…うーん。恋する乙女ですなあ」彼女はしみじみ言う。

「恋なんて」と言ってはみるが。そうなんだよな。恋をしているらしい。私は。

 だがしかし。世には『ウェスターマーク効果』というものがあり。その要約は『幼い頃から近くで育った異性はお互いに性的興味を抱くことが少なくなる』というものである。これは近親相姦を防ぐための心理効果なのだが。私と晶は別に近親でもない。むしろ、彼の家は私達が産まれた頃に越してきたのだ。遠くから。

  

                  ◆


 今日も彼をガラスの壁しに眺める。

 彼は今、グラウンドで部活に勤しんでいる。対する私は図書館で本を読んでいる。

 昔は運動音痴気味だったのに。そのせいでいじめられっ子だった。

 それをかばっていたのが私。庇護ひごされる彼は子鹿のような目を私に向けていたっけな。


 彼はグラウンドの端の方で高飛びをしている。陸上部なのだ。

 助走をつけて、バーを飛び越える。その動作の中にはメタファーがある。彼はかつての自分を飛び越えようとしている。


 そう。彼は変わろうとしているのだ。

 小学校を卒業する辺りからその変化は起こりつつあった。

 何が原因だったのか?それは第二次性徴で説明しきるには余るもので。

 家庭がらいだってのもあるのかも知れない。これは母からの又聞きだが、彼の母親が浮気をしたらしい。そして父親も外に愛人を持っていた。

 彼の家はみるみる間に崩れ落ち。今は私の家の近所に住んでいない。

 これに関して、私達は多くを語らなかった。ただ、彼は引っ越しをする時に、

「ま、色々あってね。離婚するんだわ。で。この家売るから引っ越し。長いこと世話になったな」とだけ言った。


 今や彼と私を結びつけるものなんて、何もありはしない。

 それなのに、

 その感情が友愛から恋愛に変化しているのに何もアプローチはできていないけど。


 カラスの壁は私と彼を隔てる。

 そして中学を卒業する頃には完全に分かたれるだろう。別々の学校に進むことによって。

 それまでに私は何かをすべきなんだろうけど。

 何をして良いのか分からない自分が居るのも事実で。

「あーあ」なんてため息をついて。

硝子しょうこ、またあきらくん見てたでしょ?」共に図書室に来た友人は言い。

「別に…って言えないか」

「流石に無理がある」

「ま、ただ見てる事しかできないんだけどね」

「もったいない。告白しちゃえば良いじゃん」

「…幼馴染だと照れが出るのよ。今更惚れたれたなんて言い辛い」

「そういうのは言い訳って言うんだよ?」

「分かってる。でもなあ…」

「言い訳がましい」

 

                   ◆


 ガラス。その透明さのおかげで、私はまだ彼を見ることは出来るけど。直接触れる事は叶わない。近づいていって話すことは叶わない。

 私はガラスの壁に頭をつける。しっかりとした硬さが頭の先から伝わってくる。そこから冷たさが伝わってきて。

 この壁は彼の心の一部なのかな、なんて思う。冷え切った心であるなら、昔みたいに励ましにいってやりたいのだが。


 今の私は昔と変わっただろうか?

 私自身は変わったつもりはないが。昔からの友人は言う。少しクールになった、と。

 それは彼の事を悩みだしてから、かつての柔らかさが失われただけだと思っているが。違うのだろうか?

 私だって変化の途上にいるのかも知れない。彼と同じように。

 あまりに近い自分だから変化に気づけていないのか?

 もし、そうだとして。今の私は彼にどう映るのだろう?それを確かめてみたいなって思うけど。どうやって彼に近づけば良いか分からなかった。

 

「硝子、ニュース!」友達が半ば叫ぶように言う。

「どうかした?アンタの想い人に恋人でもできた?」彼女もまた恋する乙女である。私の事をよくからかうが。

「違う。晶くん。女の子に告白されたって」ああ。恐れていた事態が。

「まあ、あの中性的なルックスだからモテるし」なんて言い繕ってみたが。

「前から狙ってる人はいっぱいだったよね…んでね。4組の子がコクったって」

「結果は?」多分。振ったんだろう。この感じでは。

「ま、残念でしたって感じ。好きな子が居るんだってさ。もしかして硝子の事なんじゃ?」なんて噂好きのおばさんみたいな調子で言ってくる彼女が鬱陶しい。

「そんな訳ないでしょ?最近は…というか中学上がってからロクに喋ってすらいない訳で」

「向こうが照れてる…なんて可能性は?」

「そんなシャイボーイに育てた覚えはないわよ」

「育てたってアンタ…オカンか何か?」

「いじめられっ子だった彼をよくかばったもんよ」

「そんな縁がありながら…アンタは何してんのよ。日がな一日彼に視線を送ってさ。せっかく同じクラスなのに」

「なんとなく、話しかけ辛い」

「君もいじらしいですなあ」

「そんなんじゃないって」

「ま。年頃の乙女だもんね。色々あるわな」

「そういう事」


 ああ。拙い事態になりつつある。彼の魅力に気付いた人間がアプローチをかけはじめている。

 それに対する私はガラスの壁に阻まれ。彼に話かける事すら叶わない。

 なんだか悔しいのだけど。この感情を何処に持っていけば良いのかは分からなかった。


                  ◆


 彼が告白される風景を見てしまった。わざとではない。たまたま通りがかってしまったのだ。

 私は家路を急いでいた。家に読みかけの本があるのだ。

 廊下をぐんぐん走っていっていたのだが、階段のところに人影が2つ。その内一つはあきらだった。

 私は廊下の方に下がって。聞き耳を立てていた。はしたない事は分かっていたが、興味を抑えることができなかった。

「晶くん…」と聞こえて来たのは少女の声で。

「話ってなんだろう?こんな人気のない場所で」

「私、あなたが好きです」彼女は言い切る。その声は震えていて。勇気を出して言ってるのが伝わってきた。

「ええっと。ありがとう。でも俺には好きな人が居るんだよね」

「それって烏野からすのさん?幼馴染なんでしょ?」烏野というのは私の名字だ。しかしここで私の名前が出るとは。心臓に悪い。この後の返答次第では私は卒倒するかも知れない。

「烏野は―俺の大事な幼馴染だけど」彼は言いにくそうに言う。

「彼女が好きだから…私は駄目?」なんて彼女は応え。

「烏野が好きって訳じゃない」と彼は言った。ああ。

「じゃあ。誰が好きなのよ?」

「それは内緒」と晶は言ったが、その後の会話は私の耳に入ってこなかった。

 

 私は回り道をして別の階段で降りる。

 その階段を踏みしめる足はよろよろしていて。

 晶の好きな人は私じゃなかった。それがショックだったのは言うまでもないが。いやあ。ここまでやられるとは思ってもなかった。

 私は。ガラスの壁の向こうの晶に触れる事はもう叶わない。

 それを思うとたまらなく悲しくなる。

 大事な幼馴染とは形容してくれたけど、それでも好きにはなってくれなかった。

 『ウェスターマーク効果』。これが自らの身に降りかかろうとは。

 ああ。明日からが憂鬱だ。どんな顔をしてクラスに行けば良いんだろう?

 

                    ◆


 それからの日々はよく覚えていない。

 相変わらずガラスの壁は存在し、その向こうに彼は居たが、前のように視線を送ることはなくなっていた。

 日々は過ぎてゆく。受験がはじまり、そして終わった。その間に、晶には彼女ができていた。同じ部活の後輩だ。

 

 桜が舞い散る。今や3年生の3月で。皆、バラバラの進路を決めていて。

 私は近所の女子校に進む。そして…晶は隣の市の共学の進学高に進む。

 卒業式。皆一様に浮かれて居る中で、私はぼんやりしていたのだが。

「おい、烏野からすの…いや硝子しょうこ」そこには彼が居て。

「お久しぶり」と私はこたえる。こんなに近くに晶が居るけど、相変わらずガラスの壁は見えていて。

「なんと言うか―今まで世話になった」と彼は言う。

「世話した覚えはないわよ。特に中学に上がってからはね。アンタ、小学生の頃と比べたらタフになったから」

「とは言え。今の俺が居るのはお前が小学生の時に何かと世話を焼いてくれたからだ…そのお礼を言っときたくてな。もしかしたらこれが最後になるかも分からんし」

「…今さら礼なんて要らないわよ。たくましくなっちゃって」これじゃあなんだか近所のおばさんみたいだ。

「おかげさんで」と彼は照れくさそうに受けて。

「ま、これでアンタの世話を焼くこともないだろうから気楽だわ」なんて私は言う。心とは裏腹に。彼に対する失恋。未だに尾を引いているのだ。

「んじゃあ。また何処かで出会った時はよろしくな?」

「はいはい。高校でも上手くやんなさい。彼女を大切にね」

「へいへい」と彼は応えて。そして去っていった。それを見送る私の視界の中には分厚くなりつつあるガラスの壁が見えて。

 

                  ◆


 ガラスの壁を見なくなった私。その高校生活は乾燥したものだった。

 でもまあ、高校デビューみたいな事はしたけどね。化粧を覚えて、服装にも気を使うようになった。

 そして他校との合コンとかしたりするようになったけど。晶ほど気がかれる異性は現れなかった。だってみんな性欲に囚われた猿なんだもの。

 

 晶の消息を久しぶりに聞いたのは母伝い。

「晶くん。高校辞めたって」

「はあ?なんで?あそこ、進学高じゃない」

「…なんだか人間関係のトラブルを抱えたらしくてね」

「アイツらしいのかな。でもなあ。そんな攻撃的な人間じゃないはずなんだけど」

「あの子不器用だからねえ」母も晶をよく知っている。よく預かっていたからだ。


 こんなニュースを聞いても、私は晶に連絡を取らなかった。

 彼の姿は見えないが、相変わらずその間にはガラスの壁があるように思えて。

 これを聞いてあなたは薄情だと思うかも知れない。

 だけど。私と彼はもう、隔てられ。交わることのない関係に変質していた。 


                  ◆


 高校を卒業した私は県外の大学に進学して、実家を出た。向かう先は都会。

 そこはガラスの窓がついた高層建築物が林立するジャングルのような場所で。

 私は目を回しながら学問に励んだ。

 その中で彼氏もできた。あきらのような中性的なタイプではない。見るからに男、というようなタイプの男。

 彼とはバイト先が一緒で。気がついたら仲良くなっており。

 晶の時のようなガラスの壁は彼との間には現れなかった。だからなのか、安心して近づくことができて。


 私は満たされた生活を送っていた。物心ともに満たされていた。

 だから、その影で起こりつつあることには気がつけなかった。

 

 ある日の事である。

 実家から電話がかかってきて。その電話で晶が自殺したことを知らされた。

 彼は高校を辞めてから引きこもっていたのだが。20になった瞬間、自殺した。残された遺書には将来への不安が書き連ねられており。

「葬式…出てあげましょうよ」と電話口の母は言い。

「どの顔下げて出れば良いのよ?高校からは付き合いなかったのよ?」

「そうは言っても幼馴染でしょ?」

「そりゃ、幼稚園から中学までは付き合いあったけどね…」私が渋るのには理由がある。未だに彼に対して距離があるように思えるのだ。あのガラスの壁は依然として存在する。その向こうの人間は亡くなってしまったが。

「薄情な事言いなさんな」と母は言い。私は折れざるを得なかった。

 

                  ◆


 棺に収まった彼は知らない顔をしていた。引きこもってから不摂生な生活をしていたらしい。

 その間には分厚いガラスの壁が存在して。私はそれに触れて見たけど。相変わらずの冷たさで。 

 立ち上る焼香の煙。その奥に彼の抜け殻はある。

 首には隠せない縄の跡があり。そこからは彼の諦念のようなものが伝わってくるような気がして。

 

 葬式には人があまり居なかった。そりゃ引きこもっていればそうなる。

 その中でも晶の母親は目立っていた。人目をはばかららずおいおい泣いていて。

「おばさん。お久しぶりです…今回の件、ご愁傷さまです」と私は話しかける。

「硝子ちゃん…久しぶり。あの子っちゃった…」

「アイツ、抱え込むところありましたから…」なんて言うけど。今さら何を言ってるんだ私はと思わないでもなかった。

「小さい頃から色々面倒見てくれてありがとうね」おばさんは鼻声で言う。

「いや、中学になってからは全然」

「でも。家ではよく硝子ちゃんの話してたのよ?」

「アイツが?」意外な話だ。

「声をかけてくれなくて寂しいって」

「…そんな事言うくらいなら向こうから話かけて欲しかった…今じゃ手遅れ」いや。私もガラスの壁を言い訳に話かけなかったんだっけ…

「そうね。もうどうしようもない」


 私と母は、火葬まで式に付き合った。あまりに人が居なかったせいでもあるが。

 火葬場の炉に彼が入ってしまう。ああ、彼の身体はガラスの壁と共に焼けてしまう。

 点火され。彼の身体は焼かれていく。

 後には骨と溶けたガラスが残るだろう。いや私にとってだけだけど。

 

                  ◆


 火葬の帰り道。私は母と別れて川原を一人歩いている。

 火葬場からは煙が立ち上っていて。

 その煙は天に上っていく。彼を連れて。


 ああ。どこで話が狂ってしまったんだろう?

 私が中学生になってからも、ガラスの壁を気にせず話しかけていたら、何かが変わっただろうか?

 こんな事は考えても無駄なのだが。人死ひとじにが出るとどうしても考えがちだ。こんな想いを抱える前に行動すべきだったのに。

 そう、彼が高校を中退した時に連絡をとって。小学校の頃みたいに世話を焼くべきだったのだ。

 なのに私は。自分にだけ見えていたガラスの壁を言い訳に行動しなかった。

 その結果がこれだ。直接の責任がないとは言え、罪悪感を感じてしまう。

 

 川の流れは止まらない。障害物があろうが高きところから低きところに流れていく。

 それは人生も変わらない。彼の死という障害物も流れを止める事はないだろう。

 

 私は目をつむる。そしてあきらを思い浮かべる。

 その間には相変わらずのガラスの壁。でも。せめて想像の中だけでは私はハンマーを持ってその壁を打ち破る。

 バラバラになった破片が私の方に飛んでくるけど気にしない。

 そして向こうに居た晶を抱きしめてみようとするのだが。その身体はなくて。

 ただ。自らを抱きしめる私だけが残った。その周りには割れたガラス。

 

                  ◆

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『硝子と晶とガラスの壁』 小田舵木 @odakajiki

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