蝉の声

霜桜 雪奈

蝉の声

 夏休みの一週間を使って、僕達の家族は祖父おじいちゃんの家に泊まりに行く。祖父の家は山間の小さな町にあり、周りは山や田畑ばかりで、一番近いコンビニは山を越えた先にしかない。


 祖父の家に行った時の楽しみといえば、祖父を連れての町探検と、祖父の飼い犬であるサブロウと遊ぶことくらいだ。山や川には危ないから近寄るなと言われるし、他に遊ぶものも場所もない。


 小学五年生になった今年の夏休みも、僕たちは祖父の家を訪ねた。


 玄関の呼び鈴を押して祖父が出てくるのを待っている間、嫌な程セミの鳴き声が耳についた。


 祖父の家は大きい木造の平屋で、まるで映画の中にでてくる昔の建物みたいだ。扉はすりガラスの横開きで、縁側だってある。今では、この平屋に祖父一人で暮らしている。祖母は、二年前に亡くなってしまった。


 数分して、祖父が杖を突きながら出てくる。今年で八十七になる祖父は、すっかり足腰を弱くした。最近では、杖なしでは歩けないほどだ。それでも、それ以外は丈夫で同世代と比べたら元気すぎるくらいだ。


 祖父に促され家の中に入ると、途端に畳と線香の匂いが香ってくる。祖父以外の人が居ない家の中は、静けさと悲しさが漂っている。


 僕達はそのまま客室へと通され、持ってきた荷物をそこに置く。


 居間には、今では珍しい卓袱台ちゃぶだいがあり、壁際には祖母の仏壇が置かれている。写影の中の祖母は、生前の頃と同じような優しい笑みを浮かべていた。


 僕は縁側の方に駆け寄り、サブロウを呼ぶ。サブロウは犬小屋からのっそり出てきて、僕の姿を見て縁側によって来る。サブロウは老犬で、もう十年以上は祖父の家で暮らしている。歳のせいか、祖父と同じように、のっそりと歩いている。


 サブロウの頭を撫でると、サブロウは嬉しそうに尻尾を振る。すると、僕も頭を撫でられた。後ろを振り返れば、祖父が立っていた。


幸多こうた。おめぇ、一年も見ないうちに大きくなったなぁ」


 そう言いながら、祖父は僕の頭をがしがしと撫でる。


「身長、十センチも伸びたんだよ!」


「そうか、そうか。もっとでっかくなれよぉ」


 祖父はそう言って、また僕の頭を撫でる。


 祖父の家について早々、僕はサブロウの散歩もかねて、祖父と一緒に町探検をすることにした。田んぼの縁でオタマジャクシを探したり、農家の人に挨拶をしたり。普段住んでいる所では体験できないようなことを、この街では体験できる。


 山沿いの道を歩いている時、今まで見たことのないような石造りの階段を見つけた。その階段は山の上の方につながっており、上の方には鳥居が見える。


「おじいちゃん、これどこにつながってるの?」


 僕の質問に、祖父は少々困ったような顔をした。


「あー……この土地の守り神が祭られていたんだよ。今じゃあ、誰も近寄らんがね」


「どうして?」


「さぁねぇ。信仰が薄れたというか……忘れられっちまったんだろうなぁ」


 先程まで鳴いていた蝉の声が急に大きくなる。その話をするときの祖父の眼は悲しそうだった。


 この一週間は、サブロウを撫でては、町を歩いての繰り返し。楽しいのは最初の二日間くらいなもので、六日目ともなると街を歩くのも嫌になってくる。


 明日やっと帰れると思いながらサブロウを撫でていると、居間の方で祖父たちの話し声が聞こえてきた。僕は自分が除け者にされているような気がして、居間の襖の前で聞き耳を立てることにした。盗み聞きをすることは悪いと思ったが、小さな罪悪感よりも大きな好奇心の方が上回ってしまった。


「毎年のことだが、今日は『ひきつれ様』が来る日だ。幸多に何事も無いように用心すんだよ。あと、これも毎年言ってるが、『ひきつれ様』の話は幸多にしちゃあいけないよ。『ひきつれ様』を知っちまうと、魅入られっちまうからな」


「大丈夫ですよ、お義父さん。毎年なんともなかったですから」


「そうやって慣れてる時に限ってなんか起こんだ。気ぃ緩ませんなよ」


 何やら聞きなれない話をしている。『ひきつれ様』なんて、毎年来ていても初めて聞いた。それもそうか、内緒にしているのだから。


 この話を聞いたことと、盗み聞きしたことを怒られるのを恐れて、僕はそれ以上聞くのをやめて、サブロウと遊びに戻った。後で部屋から出てきたお父さんの笑顔が、少しだけ怖く感じた。


 その日、僕は夜中に目が覚めた。トイレに行きたくなったのだ。


 トイレは縁側の突き当りにある。夜中の縁側を歩くのは怖かったが、トイレを我慢するよりかはましに思えた。


 縁側をトイレに向かって歩いていると、ふと、夜中に聞こえるはずのない音が聞こえることに気付いた。


 蝉の声だ。夜なのに、蝉が鳴いている。


 蝉の声に耳を傾ける。それは徐々に誰かの呟きのような、人の声であるとわかった。声の聞こえる塀の向こうに目を向けると、思わぬものを眼にした。


 塀の上に頭がある。顔は見えない。お経のようなものが書かれた布に隠れているから。それは頭に笠をかぶっており、着物を着ていた。塀の上に肩まで見えているため、身長は軽く二メートルはあるだろう。


「あいなし、あいなし」


 言葉は聞き取れても、意味までは分からない。ただ昔の言葉で、何となく悲しそうで怒っているような声色だと感じた。


 それは塀を通り抜け、庭へと入ってくる。塀に隠れていた全身が露わになり、そこで僕は、それに四本の腕があることを知った。一組の手を胸の前で合わせ、残り一組は下に降ろしている。


「あいなし、あいなし」


 明らかな怪異を前に、僕は何故か恐怖しなかった。代わりに、安心感があった。いや、信頼感と言った方が良いのかもしれない。


 怪異は僕の前に立ち、下げていた左腕で僕の右腕を掴んだ。右腕を掴まれた途端、頭に靄がかかったような、夢見心地な気分になった。何も考えることができず、考えようとも思わない。ただこの怪異について行こう。それしか、僕の頭には浮かんでいなかった。


 すると、それの呟きとは別の音が聞こえてきた。意識が朦朧としているせいか、水の中のように聞こえていた。徐々にその音が鮮明になるにつれ、それはサブロウの吠える声だと気づいた。


 少し鮮明になった意識の中で、怪異の横で吠えるサブロウを見つけた。身の丈何倍もあるそれに向かって、サブロウは勇ましく立ち向かっている。


 怪異は、そんなサブロウに気圧されたのか、僕を掴んでいた手を離した。手が離れていくと同時に、僕の意識はさらに朦朧とした。立っていることも出来ず、僕は縁側に倒れ込んだ。


 消えゆく意識の中で最後に見たのは、眼の端で消えゆく怪異の姿だった。


 気が付くと、僕は布団の中に入っていた。もう夜は明けている。


 自分がどうやって布団に戻ってきたのか、あの後どうなったのかが、全く分からない。夢だったのかもしれない。


 そう思って体を起こしたとき、右腕に痛みが走った。見れば、右腕に握られたような痣ができていた。あれは夢じゃなかったのだと、その痣を見て分かった。


 昨日の事は誰にも言わず、朝ご飯を食べた後にサブロウを見に行った。


 サブロウには、眼に見えた異常は無かった。だが、僕が右手で撫でようとすると唸るようになっていた。


 帰りの車の中、僕は右腕の痣ばかり気になった。痛みは、とうに引いている。


 どうしてか、僕はもう一度、あの怪異に会いたいと思っていた。



 今回は、邪魔されたから。今度は二人きりで。




 ――蝉の声が、笑っているような気がした。

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蝉の声 霜桜 雪奈 @Nix-0420

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