すこしその前、すこしその後
「ねえ――君。カブトムシって見たことある?」
お姉さんは小首を傾げながら、そう僕に質問してきた。
窓の外では朝から強い雨が振り続けていた。梅雨の真っ只中で学校なんて湿気も汗もすごかったのに、お姉さん家の部屋の中はエアコンが効いていて快適だった。お姉さんは身体の具合が良くないから、いつもお姉さんにとって一番良い温度になるように調節されているらしい。
ベッドから上半身を起き上がらせて、タブレットで動画を見ているお姉さんは今のところ、僕が見ている限りは元気そうだった。様子がおかしかったら教えて、と下の階にいるおばさんには頼まれているけれど、その必要はなさそうだ。
外で寄り道もできなかったから、学校からまっすぐ帰ってきてそのままお姉さん家にお邪魔した。宿題を片付けるとお母さんには伝えていたが、お姉さんと遊びたかったのが本音だ。
お姉さんはいつも喜んで迎えてくれる。玄関でおばさんに挨拶をしていると、声を聞きつけたお姉さんが二階から階段を駆け下りてお出迎えをしてくれるのだ。そして大抵おばさんに無理しないで、と怒られている。
僕もお姉さんに会いたかった、なんて恥ずかしくて言えない。
そんなお姉さんが、宿題に苦戦している僕にタブレットの画面を向けてくる。そこにはウネウネと木の幹を動き回るカブトムシが映し出されていた。
「カブトムシ? 見たことはあるよ。飼ったことないけど。どうしたの?」
「いやね、ちょっと気になったことがあったの。――君が見たカブトムシってどこにいた?」
「どこって……夏になると売っているとこがあるから、そこだよ」
去年の出来事を思い返す。お父さんに連れられてホームセンターに行った時に、虫かごに入ったカブトムシやクワガタが並んでいるのを見かけた。細く尖った脚を削った木の幹に引っ掛けて、ゼリーに吸い付いていた記憶がある。
「そう。私は行けないからよく知らないんだけど、私たちみたいな都会っ子がカブトムシ飼いたいってなったら、態々虫取りに行かなくても買っちゃえばいいわけじゃない。カブトムシを育てて色んなところに売ってる会社が日本中にあるし、ネット通販もある」
お姉さんがタブレットを指で操作すると、色々なカブトムシが並んだインターネットのサイトが出てきた。普通のカブトムシだけじゃなく、コーカサスオオカブトやアトラスオオカブトなんていう、外国のカブトムシまで売っている。
「すごいけど、それがどうかしたの?」
「――君、本題はここからだよ。私はあることが気になってしょうがないんだ」
「そ、それって?」
木箱で育てられている何十匹ものカブトムシの動画を見ながら、いつになく神妙な顔でお姉さんが俯く。僕も釣られて真剣な顔になる。
「――こうやって養殖されたカブトムシと、野生の過酷な環境で育ったカブトムシ、どっちが強いかってことなんだ」
「……どっちでもいいんじゃない?」
「良くないよ! もし宇宙の彼方からムシ相撲星人がムシ相撲バトルを仕掛けてきたら、徹底管理されたバランス型と野性味溢れる特化型、どっちを選ぶべきか迷っちゃうじゃないか!」
力説するお姉さんの横で、僕は宿題に戻った。算数の復習が主だったけど、結構難しい。
「無視しないでよ! 私はすっごく困ってるんだよ! ベリー困ったなんだよ!」
「困っている感じに聞こえないんだけど……」
「けど、実際どっちが強いかとか長生きだとか、比べてみないと確かめられないのかな」
野生のがなー、と独りごちるお姉さんを見て、なんだか可哀想になってきた僕は、鉛筆を握る手を止めた。
「じゃあさ、今度確かめてみようよ。僕がカブトムシ取ってきてあげるからさ」
お姉さんはびっくりしたのか、目をまんまるにして僕の方を向いてきた。なんだかその顔がおかしくて、少し笑ってしまう。
「いいの? けど――君、カブトムシ取ったどころか、飼ったこともないんでしょ? 大丈夫?」
「うっ……大丈夫だよ。頑張るから。それにこのままだとお姉さんが気になってしょうがないでしょ?」
「……うん、ありがと」
お姉さんが笑顔になる。お姉さんは笑うとすごく綺麗だ。僕は気恥ずかしくなって、「さー宿題しなきゃ」と誤魔化してしまう。お姉さんはフンフンと鼻歌を歌いながら、タブレットのカレンダーに書き込んでいる。
「今年の夏の予定は決まったね。――君と会ってからは、楽しいことばっかりだよ」
僕はその言葉に何も返せない。お姉さんは僕と知り合うまでは寝たきりの日も多かった、と漏らしていたのを思い出した。
カブトムシを取ってあげよう。お姉さんの夏を、もっと楽しみにしてあげよう。僕は心の中で、そう決意した。
窓を叩く雨の音はいつの間にか弱くなり、雲は薄くなっていた。
お姉さんがいなくなったのは、梅雨が終わって、夏が来た時だった。
お葬式は静かに終わった。おばさんは目元にハンカチを当てながら「娘のためにありがとう」と言ってくれた。
僕は悲しいままだった。
カブトムシはしばらくお世話していたけれど、夏が終わる前に放してあげることにした。
カブトムシは日に当たり続けると、すぐに死んでしまうとお姉さんが教えてくれた。日が傾き始めた夕方に、つかまえた公園まで自転車を漕ぎ続ける。暑さは和らいでいたけれど、なんだかとてもしんどかった。
それでも公園にたどり着くと、虫かごからカブトムシを取り出す。頭の短い角を摘むのがいいと教えてくれたのも、お姉さんだった。
近くの樹の幹にカブトムシを押し付けると、脚を引っ掛けてモゾモゾと上へと登っていく。カブトムシと一緒に、何かが離れていってしまいそうで辛かった。
その時、風が吹いてきた。放したカブトムシが羽を広げると、空中に飛び出した。小さな黒い影が、空の彼方へあっという間に小さくなっていった。空には赤色に染まった雲が浮いていた。ゆっくりと形を変えながら、風に流されてどこかへ飛んでいく。
「……僕は、お姉さんが好きだったのかな?」
気づけばそう呟いていた。僕には分からなかった。
いつまでも僕は雲を眺めていた。お姉さんが、雲に乗ってどこまでも自由に空を旅してほしい。そう願った。
雲から、君へ 中田中 @nakataataru
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