雲から、君へ
中田中
雲から、君へ
「くそ……どこにもいない」
帽子を被った少年は、そう呻いた。
八月。突き抜けような青い空の真ん中に、ポツンと小さな雲が浮いていた。
太陽はまだ高く、気温は上昇の一途を辿っている。
街から程近い場所にある、古い団地のど真ん中にある森林公園の中で、ミンミンとセミたちが泣き喚いている。
青々と茂った木々の中にある一本。他よりも背の高い樹の陰に、少年はうずくまっていた。傍らには虫取り網と、何も入っていない籠が置かれている。
少年はもう何周も、公園の中を歩き回っていた。虫取りなんてしたことはなかった。じっとりとした熱が、公園まで自転車を飛ばしてきた少年の体力を奪っていた。シャツは汗を吸って、背中に大きな黒い跡を作っている。
手に持ったペットボトルのお茶を口に含む。ここに来るまでに自販機で買った物だったのに、既に温くなってしまっていた。こぼれたお茶が顎を伝って、無秩序に生えた青草の葉に落ちた。
「早く見つけなきゃいけないんだ……」
自分を奮い立たせるためにワザと大きな声でそう唱えながら、膝に手を付いて緩慢に立ち上がる。
「もうやめなって、――君。熱中症になっちゃうから。肌も真っ黒に焼けると痛いらしいし」
木陰に佇む女が、軽やかな声で言った。長い黒髪を頭の後ろで束ねている。白いワンピースから伸びた白い脚は、外界に晒したことがないかのように透き通っている。ニコニコと口元に微笑みを浮かべながら、樹に背を預けていた。
「カブトムシって夜の方が取りやすいんだよ。朝になると寝ちゃうから。だから夜にまた来ようよ」
女が少年に手を伸ばす。その指先が背中へ触れる前に、少年は一歩を踏み出し樹の影から離れていく。
強い日差しを浴びた少年は手で陽の光を遮りながら、等間隔に並んでいる木々の幹を注意深く見つめている。携えた虫取り網はいつでも振りかざせるように構えられている。
「今の時間じゃセミばっかりで、カブトムシなんていないよ」
セミの金切り声が絶えず響き渡る。女の声は、少年には届かない。
「――あっ」
頭上ばかりに気を取られ、足元が疎かになっていた。地面から顔を出していた石につま先を引っ掛けた少年は、つんのめるように地面に倒れた。
ぐしゃり、と雑草の葉が折れた音がする。熱した鉄板かと錯覚するほどに地面は熱を籠らせて、幼い身体に熱を流し込んでくる。
起き上がった少年の顔は、土で黒く汚れていた。
木陰の女は「あちゃー」と額を抑えた。
「ほら、そのままやってたらいつか怪我するよ。今回はもう諦めて――」
「諦めないぞ……」
放たれたか細い呟きに、女の言葉が詰まる。
「絶対にカブトムシを捕るんだ。お姉さんに見せてあげるって、約束したんだぞ。だから諦めちゃ駄目なんだぞ、僕」
自らにそう言い聞かせた少年は顔を腕で拭って、再び虫取り網を上に構えた。その目には堅い意志と、焦りが宿っていた。
「……もういいんだよ、――君。もうそんなことしても、意味ないんだよ」
そう独り言ちた女の目元には、涙が浮かんでいた。
「私、もう死んじゃったから」
女は季節を知らない。
言葉では知っている。意味も知っている。テレビでも、窓の外からの景色も見たことがある。しかし、季節の移り変わりを感覚で捉えたことはない。
自分が生まれた筈の秋を知らない。冬を知らない。春を知らない。
そして、夏を知らない。
自宅は女が過ごしやすい、一定の気候を常に保っている。女はそこから出たことがない。出ることができない。
常に大病を抱えて生きるしかなかった彼女に、外の世界は過酷すぎた。
女は常に自宅の中で過ごした。両親は裕福で、彼女に優しかった。だからある意味では幸運だったと、女は神様に感謝した。
けれど、外に出れないのは不満だった。五分も歩けば全身にガタがきてしまう、そんな機能不全の身体に、女は神を呪った。
「お姉さん、元気?」
「おう、――君。もちろん元気、バッチグーだよ!」
「あはは、なんだよそれ!」
そんな女に、心が晴れ渡るような出会いがあった。隣家に住む、ごく普通の家庭の一人息子。どこにでもいる、今どきの少年。ふとしたきっかけで、女は少年と友達になった。
「ねえ、――君の学校、何が流行ってるの? 私全然行ってないから何も分からなくてさ」
「ええ、なんだろ……んー、例えばさあ……」
女と少年は、傍から見れば他愛無い話ばかりしていた。それでも、何年も外に出ることが叶わない女からすれば、聞かされる全てが新鮮だった。
女の両親にも歓迎された少年は、色々な季節を身体に纏わせて女に会いに来た。頭桜の花びら。ズボンに紅葉の枯れ葉。手袋に雪の結晶。
指摘すれば少年は恥ずかしそうにしていたが、女は少年が運んでくれる季節の残り香が好きだった。少年と一緒に外を歩いているような気になれた。
少年と出会って初めての夏を迎えようとした矢先、女は倒れた。
病院に運ばれた時、既に意識は混濁していた。そして、病院に駆けつけた少年と話したのだ。
「……ねえ、――君。私、カブトムシ、見てみたいな」
「な、何言ってるんだよ。こんな時に……」
「私、たぶんすぐに――君と会えなくなっちゃうから……この前話してたじゃない。でっかいカブトムシ、見せてくれるって」
「け、けど……」
いつもしていた会話の中でそんなことを話した記憶が、少年の中にも薄っすらと過ぎった。それを、今まさに生死の境を彷徨っている本人から切り出されるとは考えもせず、少年は戸惑う。
「ねえ……お願いだよ……最後の」
「……っ!」
力なく微笑む女の顔を見た少年は、意を決した表情で頷き、病室を出ていった。
「見られたくなかったんだ。私が死んじゃうところ。怖がって泣いちゃう私を、――君に見せたくなかったんだよ。だってカッコ悪いじゃん? 大人なのに、そんなところ見せたら」
その通りだった。少年が姿を消した後、女は満足に動かせない身体で両親に縋り付いた。死にたくないと零しながら、ベッドの上で冷たくなった。
「けどさ、いざ諦めて死のうって瞬間に、考えちゃったんだよね」
樹々が作る影から出ることができない女は、その場から動けないまま、虫取りを続ける少年を見つめる。
「……私、――君の顔、見たいって思っちゃったんだ。自分から遠ざけたのに、ホントに我儘なヤツだよね」
少年の耳には届くことのない声で、言葉を紡ぐ。神様の気まぐれで起きた奇跡の時間。
女は神様と少年に、感謝し続けていた。
「外なんて本当に久しぶりだから、こんなに暑いなんて思ってなかったんだ。とんでもなく大変なこと頼んじゃったなあって後悔してるよ。しかも見るだけで話しかけられないし。もうやめようって言っても分からないんだから――」
「いたっ!」
唐突に発せられた鋭い声に、女が目を丸くする。少年が掲げた虫取り網の先には、長い角を突き出した大きな甲虫が暴れていた。
「やった! 早くこいつを見てもらうんだ! お姉さんに元気になってもらうんだ!」
「――おめでとう」
「――お姉さん?」
少年の耳に、女の声が聞こえた気がした。辺りを見回しても、誰もいない――いや。
「――あ」
先程自分が休んでいた樹の根元に、誰かが立っているように見えた。涙を流しているのに、笑顔で祝福されている気がした。その人は遠くにいるはずなのに、何故かはっきりとそう感じた。
額の汗が目元まで流れ落ちてくる。思わず目を瞑った少年は、シャツで汗を拭った。
もう一度目を凝らしても、そこには誰もいなかった。
視界が滲んで仕方なかった。
八月の太陽は傾き、セミはミンミンと鳴き続ける。
突き抜けるような青い空に、ポツンと浮いていた雲は、いつの間にか消えていた。
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