あの夏、山道で起きたこと【後編】


「びっくりした! 寺内くんやったんか。ねえ、いま変な声が……あれ?」

 声はもう聞こえなくっていました。

「ハチマキがないぐらいでビビりすぎ」

 寺内くんは笑いました。日に焼けた笑顔を見たら、怖くてぎゅっと縮こまっていた心が、ふっと軽くなった気がしました。

 きっと、さっきのは鳥か動物かの声を聞き間違えたのでしょう。私は自分自身にそう言い聞かせました。本当は違うんじゃないかって疑問に思う気持には、無理矢理ふたをしました。

 ――今は考えないでおいたほうがいい。だって深く考えたら、またあの歌声が聞こえてくるかもしれないから。

「俺のハチマキ貸してやるけん感謝してつけるんやぞ」

 そう言って、寺内くんは歩き出したので、私は慌てて声をかけました。

「待ってよ、それじゃあ寺内くんが猟師さんに撃たれちゃうやん」

 紫色のハチマキは、この地域の子供たちが山に入るときは必ずつけるよう大人たちから言われているもので、猟師さんにイノシシや鹿と間違われないように、人間であるということをアピールするための目印なのです。

 毎年、親が白い布で縫ったハチマキを学校で集めて、村のお年寄りたちが紫草むらさきという野草の根っこで染めてくれたものを、担任の先生から手渡されることになっています。

「俺は動物と間違われたりせんから平気」

 寺内くんは、ハチマキを返そうと腕を伸ばしている私を振り返って、丸刈りの頭を撫でてみせました。

「だって、こんな頭のイノシシや鹿なんかおらん……もん……」

「寺内くん?」

 寺内くんは、顔をこわばらせて、私がさっき何かの陰が横切るのを見たあたりをじっと見つめています。

「大丈夫? 寺内く……」

「うわああ!」

 寺内くんは、山道を外れて藪のほうへ駆け出しました。

「あっ、どうしたと?」

「そっち行ったらいけんよ、道を外れたら遭難するって」

 ほかの子たちが声をかけても、寺内くんは止まってくれません。がさがさと藪を揺らして、強引に突っ切ろうとしています。

 そのとき、川上に続く山道のほうから、お婆さんが駆けてきました。だぼっとした藤色のシャツとグレーのパンツが、手足の素早い動きに合わせてはためいています。

「あれ、川本さんやん」

 お婆ちゃんとは思えないほどの足の速さで、あっという間に寺内くんに追いつくと、寺内くんを羽交い締めにしました。川本さんは濃い紫色のハンカチを寺内くんのおでこに擦りつけながら、

「人ん子、人ん子、これは人ん子、食ったらいけん」と、叫びました。

 ジー、ジー、ジー。

 ずっと黙っていたアブラゼミが、再び鳴き始めました。



 その後、再び私たちは村への山道を歩き出しました。寺内くんはショック状態で意識がなかったので、川本のお婆ちゃんがおんぶしました。寺内くんの襟元には、さっきの紫色のハンカチが突っ込まれていました。

「やっぱり川本さんは変わりもんやね。突然妙なことを叫んだりしてさ」

 子供たちが小声でささやき合いました。

 でも、私はそうじゃないことをわかっています。川本のおばあちゃんが、あの変な歌声のやつらを追い払ってくれたのです。

「川本さん、なんで腐ったスイカを川に流すとですか」

 ある子がおそるおそる、でも好奇心を抑えられない声で尋ねました。

「腐っとらん。私が流したのは、立派な美味しいスイカばい」

「そ、そうですか」

 川に流したことを否定するかと思ったら、腐っているほうを否定されて、子供たちも面食らってしまいました。

「あの、なんで……そげんもったいないことをするとですか」

 川本さんはしばらく黙っていました。やがてぽつりと、

「息子の好物やけん」と、言いました。

「このあたりに、猩々しょうじょうっていう猿のおばけたちが住んどるのは知っとう? もとは海に住んどったのが、室町時代ぐらいに川を上ってきて、このあたりに住み着いたっていう話ばい。悪いやつらじゃなかけど、たまに人間の子供を、動物の子供と間違えて食べてしまう。だから間違えられんように、草の汁で染めた抹額まっこうを子供につける習わしが生まれたわけやね」

「まっこうって?」

 川本さんは、尋ねた子の頭に向かって、あごをしゃくってみせました。

「そのハチマキのことよ。大昔は抹額まっこうって呼ばれよったと」

「ハチマキっておばけ除けなん? 猟師さんに撃たれないためじゃないと?」

「そりゃ最近はそういうことになっとるけどね。もとは猩々にこれは人ん子よって教えるためのハチマキやったとよ。息子はそれを忘れたばかりに、もう帰ってこられんごとなった。それで、スイカを供えておるの。川に流すと、あの世に届くっていうけんね」

「スイカ、あの世じゃなくて泳いどる俺らんところに届いたんやけど」

 笑いながら冗談を言った子の頭を、隣にいた子がぺしんとはたきました。

 川本さんは頭を振って、溜息を一つつきました。

「あんたたちも、ハチマキは忘れんごとしなさいよ。ただまあ猩々も年々数が減っとるけん、そのうちハチマキせんでもいいごとなるやろうね。最近はハチマキを染める紫草むらさきも少なくなってきた。山ん中に生える紫草は、猩々が世話するからうまく育つとよ。人の手で育てたんじゃあ、ああはいかん。きっと猩々と紫草とハチマキ、消えるときは一緒なんやろうね」

 子供たちは目配せをしあいました。やっぱりおかしなお婆さんだと頷きあっているのです。その輪に私だけが入ることができませんでした。



 あれから月日は流れ、私は進学を機に村を出ました。そのまま都会の方で生活して、両親も別の街に越したのもあり、村に戻る機会がありませんでした。

 でも、ある年のお盆、まだ村に住んでいる親戚の家で集まりがあり、山奥の村に戻ることになりました。

 久しぶりに戻ったふるさとは、昔と変わらず川は綺麗で、山には緑があふれていました。でも、あの頃と違って、紫色のハチマキをしている子供はもういません。そもそも子供自体がもう村にはいないのです。過疎化が進み、小学校はずいぶん前に廃校になってしまいました。染料となる紫草むらさきという野草も、絶滅危惧種に指定されるほど数が減ってしまい、村ではもう染め物に使うこともないそうです。


 親戚の集まりが終わった後、お盆で里帰り中の幼馴染みたちで集まって食事をすることになったので、寺内くんに昔のことを聞いてみました。

「そういや川遊びの帰り道、熱中症で倒れて、川本のお婆さんにおぶってもらったことがあったなあ」

 短く刈り上げた頭を撫でながら、寺内くんは懐かしそうに、そう言いました。幼馴染みたちもみんな、「そうやった、そうやった」と、言っていました。

 猩々のことを覚えているのは私だけのようです。


 川本さんは、もう亡くなっていました。村はずれにある墓地にお参りした後、村を出てアブラゼミの大合唱をかき分けるようにして山道をのぼり、川の上流へいくと、買ってきたスイカを川に浮かべてみました。そのまま流してしまおうかとも考えましたが、川を汚してはいけないと思い直し、スイカを引き上げました。いまは環境のことも考えなければいけない時代になりました。

 しかし、ぱんと張った緑の果皮が水を弾いているのを見て、果たしてこのスイカはあの世にちゃんと届いたのだろうかと疑問に思いました。こんな短時間川に浮かべただけでよいものなのでしょうか。わからないので、あとで墓地に戻って、川本さんの家のお墓に供えようと思いました。

 ジー、ジー、ジー。

 アブラゼミがうるさいくらいに鳴いています。でも、子供の声はしません。もしもスイカを流したとしても、川下で大騒ぎする子供たちがいないのを、少し寂しく思いました。

 ふと、あのときの歌を思い出して、小さく口ずさんでみました。

「ひとんこ、ひとんこ、食ったらいけん」

 アブラゼミの声がぴたりと止んで、しんと静まりかえりました。でも、すぐにまた鳴き始めました。


 <おわり>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紫のはちまき ゴオルド @hasupalen

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説