紫のはちまき
ゴオルド
あの夏、山道で起きたこと【前編】
私は小学生の頃、福岡県の南部のほうにある、とある村に住んでおりました。山奥にひっそりと存在しているような小さな集落で、村の小学校には全校生徒が10人ちょっとしかいませんでした。
夏はよく川で遊びました。川は危険だということは、いまは一般に知られることですけれども、私の子供時代は水難事故に対する考えが甘く、子供だけで川遊びをしていました。といっても、川で遊ぶときは安全なエリアを選ばないといけないことぐらいは当時の私たちでも知っていました。
安全な水域は案外狭くて、5メートルあるかないかといったところでしょうか。あそこの木からあの大岩の手前まで、そんなふうに決まりがあるのです。こういう安全情報は、地域の子に代々受け継がれるので、子供たちはみんな川の同じところに集まることになります。
狭いし、混み合っていますから、泳ぐことも難しい。10人もの小学生が、川に肩までつかってじっとしているだけの状況というのは、ちょっと可笑しいですね。それでも、水は冷たいですし、夏の暑い日にはつかるだけでも気持ちがいいものです。
ただ、たまに白菜やダイコンの葉っぱなんかが流れてきて、べちゃあって肩にはりつくのが嫌でした。川上で野菜を洗う村人がいるのは、川の水が綺麗だからこそでしょうか。
その日、川につかって冷たさを楽しんでいたら、最悪なことにスイカの皮や赤い果肉が上流から流れてきました。子供たちは慌てて川から上がりました。川を流れるスイカというのは誰かが捨てたもの、つまり腐っているはずだから、汁が口に入ったらおなかを壊してしまうのだと親から教わっているのです。
子供たちは、岩場に腰掛け、それぞれの不満や疑問を口にします。
「上流でスイカを捨てた人、誰やろうね」
「ああもう、種が腕にひっついとる」
「腐ってるやつを流すなんて、とんでもないな。村はずれの川本さんのしわざやろか」
「あのお婆さん、変わり者なんやろ? 親がそげなこと言いよったよ」
「ふうん」
そのとき、タオルで体についたスイカの種を払っていた女の子が、「あっ」と声を上げました。と同時に、紫色のハチマキが川を流れていくのが見えました。きっとタオルや着替えと一緒に置いておいたハチマキを、うっかり川に落としてしまったのでしょう。
ハチマキは最初ゆらゆらと水面をたゆたうように流れていましたが、大岩の前を過ぎてしばらく行ったあたりで、急に川底へ引きずりこまれるように錐もみしながら沈んで見えなくなりました。その沈み方があまりに乱暴なものだから、少し怖くなったのを覚えています。
「ど、どうしよう。私のハチマキ」
女の子は、立ち上がったりしゃがんだりして、ハチマキの行方を探しています。
「もう無理ばい」
「下流まで行かんと回収できんよ」
誰かがそう言うと、女の子は眉毛を八の字にして、もう一度「どうしよう」と言いました。
その女の子、瞳ちゃんというのですが、彼女は小学3年生で、小学6年生の私はお姉さん風を吹かせたい気持ちになり、「私のハチマキを貸して上げるよ」と言って、自分の着替えのところに置いていた紫色のハチマキを差し出しました。
瞳ちゃんは、上目遣いになり、「でも……」と、遠慮します。
「いいから。だって子供たちだけじゃ下流まで行けんし、村に戻るには、山を登らんといけんのやから」
「で、でも」
まだ遠慮する瞳ちゃんに、ほかの子たちが、
「借りときぃ」
「そうそう。今日はみんなで一緒に帰れば良かよ。それならきっと大丈夫やけん」
そう説得したので、瞳ちゃんはおずおずと私のハチマキを受け取ってくれました。申しわけなさそうな、でもほっとしたような顔をした瞳ちゃんを見て、お姉さんぶりたい私は大変満足しました。そのかわり私はハチマキなしで山を登ることになりましたが平気です。だって、ハチマキをしていない子供は殺されてしまうかもしれないだなんて、そんなことがあるわけないと思っていたのです。
その後すぐ、みんな一緒に村に帰ることになりました。ふだんはもうちょっとおそくまで遊ぶのですが、今日は日が落ちる前に山道を抜けようということになったのです。
「まったくもう、川本さんのせいで」
「川本さんがスイカを流さんかったら、ハチマキだって川に落とさずに済んだのにね」
「とんでもない婆さんや」
スイカを流したのは川本さんだと勝手に決めつけて、文句を言いながら、山道をのぼります。みんな紫色のハチマキをしていました。私以外は。
なんとなく心細く、不安な気持ちでした。でもそれを顔に出したら格好悪いし、瞳ちゃんも居心地が悪いだろうと思い、私はハチマキがないことなんてちっとも気にしてないという振りをして、山道を歩きました。
そのうち川本さんの悪口も世間話も尽きて、みんな無言になりました。地面を踏むざりざりという音だけがあたりに響きます。
ふと、嫌な感じがしました。誰かに見られているような……。
足を止めて振り返りましたが、立ち並ぶ杉の木と下生えの雑草、踏み固められた茶色い山道が川下のほうに続いているのが見えるだけです。あたりはしんと静まりかえっています。誰もいません。夏の日差しは杉の枝に遮られ、根元に暗い影を落としています。いつもの見慣れた山道でした。
でも、あまりにも静かすぎました。ぞわっと腕に鳥肌が立ちました。8月だというのに、蝉の声すらしないだなんて変です。いつもはアブラゼミがうるさいぐらいなのに。
背中をひとすじの汗がつうっとつたい落ちるのを感じました。
そのとき、遠くからかすかに声が聞こえてきました。それは声というより、歌声のようでした。
<ひとんこ、ひとんこ、食ったらいけん>
奇妙な歌声でした。低い声だけれど、大人の声とも違います。瓶の口に息を吹きかけたときみたいに、ぼおっと低く響く声です。
<ひとんこ>
<ひとんこ>
<あれらは、ひとんこ、食ったらいけん>
いくつもの低い歌声が重なって、合唱しているみたいでした。でも、あたりを見回してみても、歌っている人なんて見当たりません。
ほかの子供たちには歌が聞こえないのでしょうか。みな黙々と山道をのぼっていきます。立ち止まったままの私とみんなの距離がひらいていきます。
<ひとんこ、ひとんこ、むらさきまっこう>
歌声は少しずつ近づいてきます。一瞬、黒い影のようなものが木々の間を横切ったような気がしましたが、よく見えません。視界のはしのほうで、黒っぽいものが杉の根元にいるのが見えた気がして、視線をそちらに向けたのですが、すぐに消えてしまいました。
<むらさきまっこう、ひとんこよ>
歌声がもうそこまで来ています。
<むらさきまっこう、食ったらいけん>
<そんなら、なにを食いましょか>
はあ、という吐息が聞こえました。今すぐ逃げなければいけないと思いました。でも、足がすくんでしまって動けないのです。 怖くて喉の奥のほうがぎゅっと苦しくなりました。
<
<食いましょ、食いましょ、どのこも食いましょ>
なにかに囲まれている気配と、生臭いにおいがしました。私は両手で口を押さえて、奥歯を食いしばり、悲鳴を上げないように必死で我慢しました。声を出したらおしまいだって、なぜかそう思ったのです。
<これはなんのこ>
<まっこうしとらん>
<そんなら、みんなで食いましょか>
そのとき、肩に何かが当たり、私はこらえきれず叫んでしまいました。
「ちょ、なんなん、驚きすぎやろ」
それは男の子の声でした。慌てて声がしたほうを振り返ると、私と同じ6年生の寺内くんが引き返してきており、少し呆れたような顔をして立っていました。
私の肩に乗せられたものを手に取ると、それは紫のハチマキでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます