空蝉と金熊

劉度

メタルお姉さんファイティングレイヴ

 夏はすべてがきらめいている。


 青空の中心で輝く太陽。

 陽光を受けて茂る青葉。

 冷水を湛えた池の水面。

 踏み潰された虫の体液。


 なにもかもがきらきらな山を、少年が駆ける。

 こんな大自然の中よりも、舞台の上の方がお似合いな美少年だ。

 緑色のシャツと灰色の半ズボンというわんぱくな格好をしても、見目麗しさは隠せない。


 少年は木々の間を駆け回る。

 通り抜けた後に、ガサガサと音が残る。

 伸びた草木が剥き出しの膝をくすぐる。

 汗が口の端から入り込んで、塩辛い味を残す。


 少年は虫捕りに夢中だった。

 木に虫が止まっているのを見つければ、虫取り網で捕まえて。

 土の上を虫が這いずり回っているのを見つければ、自分の指で摘み上げて。

 きらめく世界の中には、生き物がいっぱいだ。

 肩から下げた虫かごに、どんどん、どんどん、入れていく。


 虫を追う少年は、少し開けた場所に出た。

 いくつかの倒木以外は、背の短い雑草しか生えていない。

 頭上は生い茂る木の枝で覆われて、日差しを遮ってくれている。

 森の中にぽっかりと空いた陰の空間だ。


 少年が口を開く。


「お姉さん、僕に何か用?」


 さあっ、と。風が吹く。

 返事はない。

 それでも少年は確信している。この声は届いていると。


「この山に入った時から、ずっとわかってるよ?」


 ややあって。がさり、と音がした。

 少し離れた木の陰から、は現れた。


 そのひとも、きらめいていた。


 プラチナのネックレス。

 黄金色のブレスレット。

 両の指のダイヤの指輪。

 耳朶のチタンのピアス。


 ごきげんな笑顔を浮かべた、若いお姉さんだった。その笑顔も、額に打たれたピアスで輝いている。

 殴り書きのアルファベットとドクロがプリントされた黒いTシャツと、インディゴブルーのデニムパンツが、お姉さんの輝きをますます引き立てている。


 嫌だな。

 少年は眉をひそめた。

 虫をついばむ鴉が、拾った光り物で着飾っているみたいだ。


「ねえ、何か用?」


 少年が改めて問いかけても、お姉さんはニコニコと笑ったままだ。

 怪しい。こんな山の中に、あんな都会の格好をしたお姉さんがひとりでいるのは、どう考えてもおかしい。

 肩から下げた虫かごを、ぎゅっ、と掴む。


「匂いが好きなんだよね」


 冷えた鉄のような音。

 それがお姉さんの声だった。


「え?」

「だから、匂い」


 繰り返されてもわからない。少年は戸惑う。

 笑顔を浮かべたまま、お姉さんは畳み掛ける。


「少年が蹴った土の匂い。少年が揺らした草の匂い。少年がかいた汗の匂い。どれも好きだけど、少年が浴びたおひさまの匂いがやっぱり一番好きだな。

 帽子を被ってるのはラッキーだった。最近の夏は暑いからねえ。つむじから濃いのをキメられそうだ。

 それ以外にもうなじ、脇の下、おへそに腰回り、膝の裏、全身あますとこなく好きなんだ。

 もちろん、少年以外の匂いも好きだよ。生き生きとした森の匂い。よく熟れた土の匂い。川の飛沫がたてる匂い。木陰から差す日の匂い。やっぱり自然の山はいい。

 だから――」


 そこでお姉さんは言葉を切って、少年を睨め回した。


「キミから血の臭いがするのが、どうにも気に食わない」


 少年は目を見開き、それから細めた。縄張りを踏み荒らされた豹のように。


「何の話?」

「ああ、怒らないで。キミがお風呂に入ってないとか、ケガしてるとか、そういうことを言っているんじゃない。

 どんなに隠して振る舞おうとも、魂に飛び散った返り血というものは洗い落とせないものなんだ。君は若いからわからないかもだが。

 いや、科学的な証拠がある訳じゃあないよ? 君は上手くやった。書類上存在しない私生児という立場を利用して、実の父を殺してのけた。凄いぞ。本当に。褒めてあげよう。あれだったら撫でてあげようか?」


 おいでおいで、とお姉さんは手招きする。

 少年は一歩後ろに下がった。


「酷いなあ。本心だぞう?」

「だってお姉さん、怪しいもん」

「怪しい。それは私と君が初対面だから、ということを言っているのかい? それならこれから親睦を深めていくから問題ないだろう。

 それとも私の格好かい? これは仕事で必要だからね、大目に見てほしい。正直に言えば趣味も兼ねているが……。

 ああ、それとも」

「違うよ」


 お姉さんの戯言を、少年は断ち切った。


「お姉さん、ずっと笑ってるじゃない」


 少年の言う通り、お姉さんは笑っていた。

 隠れていたところを少年に見つかっても。

 少年を父殺しだと指摘しても。

 辺りが夏の真昼とは思えない薄闇に包まれても。

 粘ついた笑顔は変わらなかった。


 ただ、笑顔は無意識だったらしい。お姉さんは自分の頬を指でなぞり、唇の歪みを確かめると、おや、と声を漏らした。


「いけない、いけない」

「お姉さん、何が嬉しいの?」


 少年は笑顔の質を見抜いていた。

 お姉さんの笑顔は、楽しみや照れから生まれたものではない。喜びが元だ。

 それも、身寄りのない老婆が大金を隠し持っていることを知った時のような。


「いやあ、だってねえ」


 笑顔はそのままに、お姉さんは少年を見下ろす。胸元のドクロが歪んでいる。


「届け出のない親殺しの美少年。私が貰っちゃっても、だあれも文句は言わないでしょう?」


 遠くで蝉が哭いている。

 日照りに嘆く亡者の聲。


「お姉さん」

「なんだい、少年」

「僕のお父さん、どうやって殺されたと思う?」


 少年は、肩から提げた虫かごを持ち上げる。


「聞きたい?」

「ぜひとも」


 お姉さんの視線は、虫かごに注がれている。


「お父さんはね」


 少年の視線は、お姉さんのに注がれている。


「大きなムカデに食べられちゃったんだ」


 お姉さんの背後に、大ムカデが音もなく忍び寄っていた。

 尋常の大きさではない。胴回りは丸太ほどある。頭から尾までの長さは、人間が五人連なっても敵わない。

 大ムカデは、赤ん坊を丸呑みにできるほど巨大な口を開け、お姉さんに襲い掛かった。


 お姉さんが振り返る。少年の視線に気付いたか。それとも、ムカデの匂いを察したか。

 どちらにしろ、ムカデはもう手の届く距離に入り込んでいる。逃げるのも、避けるのも間に合わない。


 轟音。

 山に響いたのは、お姉さんが固めた握り拳で大ムカデを殴り潰した音だった。


「嘘はよくないなあ、少年」


 地面のシミには目もくれず、お姉さんは振り返る。右手の甲には、ムカデの体液と肉がこびりついている。


「九州一、いや、日本一の呪術師とか言われてたキミのお父さんが、こんなしょうもない虫に殺されるわけないでしょ」


 少年はお姉さんの言葉に耳を貸さず、人差し指と中指を立てると、鋭く息を吹きかけた。

 それに応えて地中から現れたのは、先ほどのムカデよりも巨大なミミズだ。巻き付かれれば、お姉さんの体など小枝のように潰されてしまうだろう。


「虫の式神。なるほど」


 近付いてきたミミズに、お姉さんは蹴りを繰り出した。鉄鋲を打ち込まれたスニーカーの爪先が、お姉さんの10倍は重いはずの巨大ミミズを吹き飛ばす。


「結界で山を区切り、あえて金虚木侮きんきょもくぶを作り上げ、盛んになった木勢を糧に毒虫を育てた、と。こいつは強力だ。

 これ、君だけじゃあ、術はともかくお金が足りないだろう。ひょっとしてお父さんが作ったのかい?」

「うるさいよっ!」


 少年が両手を合わせる。パァン、と鋭い音を受け取った山の羽虫たちが、お姉さんを喰らい尽くそうと殺到する。

 お姉さんはプラチナのネックレスを外すと、手に持ってぐるぐると回し始めた。十分に遠心力が乗ったそれを、黒い雲霞に叩きつける。虫の嵐は、散弾を受けたかのように四散した。


「だけどまあ、私に見つかったのが運の尽きだ。

 ――きらっきらに輝いてるだろう?」


 金剋木きんこくもく

 鎌や斧は草木を倒し、鉄や青銅に根は張らない。

 五行である。過剰に溢れた木気を餌にして育った蟲たちにとって、金気は天敵である。

 ましてや全身を金属製の宝飾品で飾り付けた、金気の塊のような女ともなれば。


「お姉さん、何者?」


 少年の頬を、一筋の汗が落ちていった。


「困ったことに、お姉さんは『お姉さん』と呼ばれているのさ」


 呪術師に姓は与えず。

 他人に名は知らせず。

 圧倒的な金気の暴力で全てを破壊するお姉さんが、名前で呼ばれることはない。

 故に出遭った者たちは、彼女の印象を叫ぶ。


 『地上戦艦』

 『嗤いドクロ』

 『地獄待ち単騎』

 『ミンチメーカー』

 『スレッジハンマー』


 それらすべてを叩き潰したのが、『お姉さん』だ。


 容易な相手ではない。少なくとも、一種類の蟲で勝てるような相手では。

 意を決した少年は、手にしていた虫かごのフタを開けた。


「食べちゃえ」


 籠の中に封じられていた虫たちが、無数の呪詛となって飛び出した。

 先陣を切ったのは巨大な蟷螂カマキリの腕。灯籠とうろうもやすやすと切り裂く一撃を、お姉さんは左手一本で止め、握り潰す。

 次いで迫るのは蜂。蝶のように舞わず、一直線にお姉さんを毒針で狙う。お姉さんは払いもしない。柔肌が針を弾き返す。

 更には鍬形虫。ノコギリよりも鋭い顎でお姉さんの喉を狙うが、右手ではたき落とされた。


「ムカデ、ミミズ、カマキリ、ハチ、クワガタ、アブ、ヤブカ、ハエ……アブラムシもいたっけか。後ろで見てたけど、いっぱい捕まえたもんだねえ」


 次々襲い来る蟲たちを、お姉さんは一歩も動かずに叩き落としていく。まるで危なげない。

 少年は虫かごを握り締めると、素早く言葉を紡いだ。


「四方を囲むは空蝉の夢。目覚めれば邯鄲は既に無し」


 お姉さんの周囲の大地が紫色に輝く。


「お?」


 お姉さんの体に重みがかかった。

 蟲に紛れて放った蝉の抜け殻による結界だ。羽化によって捨てられた命の残骸は、単なる骸より強い力を持つ。

 即席とはいえ、並の人間なら這いつくばるほどの強度だが。


「結界術か。ヌルいねえ」


 お姉さんは膝すらつかない。轟然と立ち続けている。少年はそれも織り込み済みだ。


「地に刻まれた契約に従い、我が敵を縊り殺せ! 急急如律令!」


 少年が印を組み、呪文を唱える。すると、お姉さんの足元から木の芽が姿を現した。

 木の芽は散らばる蟲の死骸から呪力を吸収し、急速に成長してお姉さんの体を覆い尽くそうとする。


カアッ!」


 お姉さんは気炎を吐き、地面を力強く踏みつけた。地面の土が巻き上げられ、呪法の木と蝉の結界が纏めて砕け散る。

 舞い散る破片を突き抜けて、虫取り網を振り被った少年が突進してきた。その網には強烈な呪力が絡みついている。


「木遁は目眩ましかい」


 お姉さんはダイヤの指輪をはめた右手を握り込んだ。強く。強く。爪が手の平に食い込むほど。骨が軋むほど。

 そして、地面を踏んだ勢いをつけて、殴る。


 導き出された結果は、虫取り網の貫通。呪力の消失。そして少年の上半身の爆散であった。


「――しまったァ!」


 そしてお姉さんは過ちに気付いた。

 力加減を誤ったとは思っていない。少年が死んだとも思っていない。過ちは、それをひとつだと思い込んだことだ。

 拳を受けて爆散した体。その破片がお姉さんに降り注ぐ。それは肉片ではない。辺りに充満したものと同じ匂い。

 蟲だ。無数の蟲が撚り合わさって、少年の空蝉を作り上げていた。


 羽化によって捨てられた命の残骸は、単なる骸より強い力を持つ。


酒殺しゅさつ毒風どくふう蟲殺ちゅうさつ叫喚きょうかん地獄じごく!」


 本物の少年が一歩も動かず、呪文の最後の一節を高らかに唱え上げたところだった。


「そんな術まで……!」


 声もろとも、お姉さんが闇に包み込まれる。

 組み上がった術式が、飛び散った無数の蟲たちを媒介として、空間を染め上げる。

 薄闇の森の降りた漆黒の帳。それは蟲たちの邪念、怨念によって編まれた猛毒の網だ。

 その中に捉えられたてきは、吹き荒れる毒の風と呪詛によって、身を焼かれると錯覚するほどの激痛に襲われながら死ぬ。


 本来ならば呪術師が複数人で、しかも十日かけて行う儀式呪術である。

 それを、この少年はたったひとりで、蟲の空蝉を使うというアドリブを加えて、一瞬で成立させた。


 呪術師は姓を名乗らず。

 父親は名を与えず。

 呪術の生贄として地下牢で飼育されていた少年が、個体名で呼ばれることはない。

 しかし少年は類稀なる才を持ち、父の言葉を一言一句余さず覚える執念があった。


 『金烏玉兎集邪法外典・百八法』

 『孔雀吐瀉虫辞典・九十九種』

 『趙庶人言行録・七十二篇』

 『太歳隠匿物・四十九点』

 『射干玉集・四十四例』


 それらすべての呪法を身に着けたのが、『少年』だ。


 縊り殺せなかった相手はいない。抵抗できた相手もごく僅か。

 それでも少年は、予感を抑えきれなかった。


「「やるじゃない」」


 結界の中と外で、違う声が同じ音を奏でた。

 収縮消滅するはずだった酒殺毒風の結界は、ガラスが叩き割られたかのように、内側から崩壊した。


 砕け散る闇の中から現れたのは、アルファベットとドクロのTシャツを着た、全身金気のお姉さん。五体満足、指の一本も失っていない。

 それでも無傷とはいかず、体の所々に傷と火傷を負っている。だが、顔は相変わらず笑っていた。


「おや、少年」


 お姉さんの笑顔の中に、驚きの色が混じった。


「キミも、いい顔をしているじゃないか」


 少年も笑っていた。十を超える呪術を叩きつけても尚、お姉さんは生きている。それが嬉しかった。


「だってお姉さん、まだまだ動けるでしょ?」


 少年が識る呪術は百を超える。だが、人を殺すだけなら大ムカデの式で十分だ。せっかく覚えた呪術のほとんどは、今まで使った事がなかった。

 遊んでみたいおもちゃはまだまだたくさん。見せたい知識は山ほど。このお姉さんなら、最後まで付き合ってくれるかもしれない。


「いいじゃないの」


 お姉さんは両手を掲げる。背筋を伸ばし、両足を肩幅に開く。

 僅かに前傾したその姿勢に、少年は『熊の顎』を視た。


「さァ――かかってきなさい」


 お姉さんに逃げる気はない。すべて受け止めるつもりだ。

 少年は喜々として呪いを編み始める。どんな呪術を使おうか。あれがいいかな、それともこれがいいかな。


 ふたりの夏は、まだ始まったばかりだ。

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空蝉と金熊 劉度 @ryudo

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