見届ける青年

 空は灰色に染まり、雨が降りしきる。ザーッと大きな音を立てながら、家や道路といったあらゆるものを濡らしていく。しかし、大雨はそれらだけではなく、ある二人の男をも濡らしていた。

 人気のない道にある石造りの階段。その階段の中腹で、仰向けに倒れている男がいた。そして、その男のそばで膝をついているのは加藤優人かとう ゆうとという大学生。彼は男に向かって必死に叫んでいた。

「しっかりしてください!もうすぐ救急車が来ますから!」

 必死に呼びかけるも、相手からの返事はない。このまま目を覚まさず、死んでしまったらどうしよう、そんな不安が頭を埋め尽くす。しかし、加藤は諦めることなく、呼びかけ続ける。

 雨脚は一向に弱まらない。加藤の身体はすでにずぶ濡れで、寒く感じる。しかし、彼にとって、それはどうでもいいことだった。

-頼む!死なないでくれ!

 加藤の頭は、その気持ちでいっぱいであったからだ。その時、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。

「やっと来たか!」

 加藤は思わず大きな声を上げた。

 サイレンの音が近づいてくる。それからしばらくして、2人の救命士がやってきた。状況を加藤から聞くと、意識がない男を担架に乗せた。そして、救急車の方へ向かって行く。加藤は彼らに付いて行き、救急車に同乗した。

 サイレンを鳴らしながら走る救急車。加藤は男の傍らで無事を祈り続けた。

-どうか、助かりますように。


 病院に搬送された後、男は救命処置を受けた。懸命な処置のおかげで、彼は一命を取り留めた。

 一夜空けた翌日、男は目を覚ました。頭に包帯を巻き、ベッドに横たわっている彼は、側にいる加藤に微笑む。

「このご恩は一生忘れません。やらなくてはいけないことをできるのは、あなたのおかげです」

 彼の笑顔と言葉に、加藤は照れる。照れる気持ちがあるものの、同時に誇らしくもあった。

-僕は、この人の命を救えたんだ。

 そう思うだけで、なんとも言えない高揚感を覚えた。




 過去の回想が終わり、加藤は絶望する。命を救ったという事実。そんな誇らしいことが、誰かにとっての不都合であったことに対してだ。

 そんな風に思っているであろう少女、羽田陽子はだ ようこは深いため息を吐いた。

「口元の大きな黒子。それに、丸縁の黒眼鏡。特徴的だったから、すぐに覚えられましたよ」

 羽田がゆっくりと立ち上がった。そして、加藤の前に立ち、こちらを見下ろしてきた。糾弾するような冷ややかな目。加藤はそれに怯え、逸らすように目線を足下に向けた。

「人の命を助けることは、素晴らしいことです。でも、

 羽田の言葉に、加藤はびくっと身体を震わせる。そして、地面に目を向けたまま呟く。

「…そんな、そんなことになるなんて」

「あなたのおかげで、奴は一命を取り留めました。終わったと思いました。万が一、意識を失う前に顔を見られてたら、捕まるのは時間の問題。だけど、1週間以上経っても警察が来ることはありませんでした。それに、どうゆうわけか、奴はさっちゃんの前に姿を見せなくなりました。私はこう思いました。「バチが当たって、怖くなったんだ」って。それなら、結果的に良かった。「これでもう、さっちゃんが苦しむことはない」、そう思っていましたから…」

 羽田の声色が暗くなり、陰鬱な雰囲気が強まっていく。

「計画の日から2週間後のことです。さっちゃんが何者かに滅多刺しにされたという話を聞きました。しかも、その時は両親もいて、彼らも殺されたんです」

「…えっ?」

 加藤は驚き、目を見開く。その時、頭の中である言葉が突然浮かび上がった。それは、彼が助けた男の言葉。


『やらなくてはいけないことをできるのは、あなたのおかげです』


-まさか、自分がされたことへの復讐?

 その瞬間、背筋が凍った。最初に聞いた時、どういう意味かは分からなかった。それに、命を助けられた安心感で気にすることはなかった。しかし、羽田の話を聞くにつれ、それが悍ましい意味だったのだと気がついた。

-まさか、そんなことになるなんて…。

 加藤はおそるおそる顔を上げる。羽田は先ほどと変わらず、冷たい目で加藤を見下ろしている。そんな彼女を見て、彼は歯を食いしばり、口元を歪める。

「そんなつもりじゃなかったんだ!」

 加藤の怒鳴り声が構内に響き渡る。辺りにいる数人の利用客が、怪訝な表情でこちらを見ている。しかし、羽田は彼らと違って、無表情でいる。

「こんなことになるなんて思いもしないだろ。まさか、そんな人だったなんて…」

「…そうですよね。分かりませんよね」

 羽田が宥めるように呟いた。そして、寂しそうに微笑んだ。そんな彼女の笑顔を見た加藤は眉根を吊り上げ、小声で尋ねる。

「憎き相手を助けた僕が憎い?」

「…」

 加藤の質問に、羽田は何も答えない。

 お互いの間に沈黙が流れ始める。先ほどから降っている雨は、一向に弱まらない。そんな光景を見て、加藤は思った。屋根を強く叩きつける雨音と激しさは、羽田の内なる怒りを表しているようだと。

 心臓を締め付けるような苦しい空気に包まれ、加藤は歯軋りをする。そして、この沈黙を壊そうと口を開く。その時だった。

 羽田が身体を右に向けた。そして、その方向へゆっくりと歩き始めた。その先には、改札口につながる小さな通路がある。彼女はその前に立ち止まると、加藤に手招きをした。

 これから何が起きるのか、そんな不安を抱きながらも、加藤は彼女の後を追った。

 彼女の元に着き、加藤は頭に浮かんでいた疑問をぶつける。

「一体、何をするつもりなんだ」

「あの人」

「えっ?」

 羽田が前を指差す。加藤は表情を曇らせながら、彼女の指差す方へ顔を向ける。向いた先の改札口に、一人の男が立っていた。

「あっ」

 加藤は呆然とする。改札口の向かいで辺りを見渡している男に、見覚えがあった。

「なんで、坂田さかたさんがここに?」

「さぁ?」

 羽田はニヒルな笑みを浮かべたまま、そう答えた。

 一体、何を考えているのか。意図が分からない彼女の言動について、加藤が尋ねようとした時だった。

「彼には、報いを受けてもらうんです」

「えっ?」

 羽田の答えに、加藤は虚をつかれた。まるでこちらの考えを見透かしているような答えに、呆然としている時だった。

 白のTシャツに青のジーンズを来た男、坂田が羽田の姿を捉えた。そして、不気味に口角を上げると、そのまま近づいてきた。その時、彼の背後に近づく者の姿を、加藤は視界に捉えた。そして、その者が誰なのかすぐに分かると、目と口を大きく開いた。

「田村さん!?」

 目を見張りながら、加藤は田村の動向を見る。彼女は坂田の背後に忍び寄ると、彼の背中にぶつかった。

 背後から突然ぶつけられ、バランスを少し崩した坂田は、前に一歩大きく踏み出す。そのままバランスを整えると、ゆっくりと振り返った。すると、彼の顔が徐々に青ざめ始めた。

 坂田がなぜそんな顔をしているのか、加藤は不思議に思う。しかし、その理由がすぐに分かると、愕然とした。

「な、なんで…」

 加藤は唇を震わせながら呟く。彼の目には、田村が坂田の腰に包丁を刺している光景が映ったからだ。

 刺し傷から血が滲み出していき、坂田のシャツを赤く染め上げていく。そして、刺さっている包丁の刃から血が滴り落ちていく。その時、一人の若い女性が駅に入ってきた。そして、目の前の状況に気がつくと、青ざめてわなわなと震え始めた。

「きゃあああ!!」

 女性が後退りながら、悲鳴を上げた。構内にいた利用客たちが悲鳴を聞いて、不思議そうな顔を浮かべる。そして、加藤と羽田が立っているところまで来ると、悲鳴をあげたり、腰を抜かし呆然としたりと様々な反応が見られた。

 白昼堂々の凶行。老婆が若い男性を刃物で刺すという状況により、その場が騒然とする。

 戸惑いの表情を浮かべる坂田に対し、田村は無表情だった。すると、田村が荒々しく包丁を引き抜いた。坂田は苦しそうに顔を歪ませると、腰に手を当てた。手の平を濡らす血を見た彼は田村に振り返り、後退っていく。

「田村さん…。どうして」

 加藤は呆然としながら呟いた。すると、隣にいる羽田が鼻で笑った。加藤は糾弾するような目で彼女を見る。

「そっか、知らないんですもんね。

「えっ?」

 羽田の返答に、加藤は驚いた。そして、ほんの20分ほど前に聞いた田村の言葉を思い出していた。


『今日は楽しみなの。孫たちのもとにいけると考えるとね。プレゼントもあるし』


「まさか、プレゼントって…」

 加藤は言葉の意味に気づき、田村たちに再び目を向けた。

 坂田は血に塗れた手を前に出し、田村に止まるように指示する。背中を壁に預け、涙ながらに制止を呼びかけている彼の姿は痛々しかった。しかし、それでも田村は止まらなかった。無表情のまま、坂田の腹に再び包丁を突き刺した。坂田は「ぐっ」とくぐもった声を上げると、膝から崩れ落ちた。

 坂田が地面に尻餅をつくと、田村は包丁を抜いた。抜かれると同時に、血が地面と田村の身体に飛び散った。そして、彼女は彼の目の前に膝をつくと、3度目の凶行に至った。

 包丁が腹に突き刺さるたびに、白シャツがどんどん赤く染まっていく。田村は息を荒くしながら、包丁を刺していく。一方の坂田は抵抗できず、なされるがままでいる。刺される度にくぐもった声を漏らすだけだ。

 刺された箇所から流れる血が、地面を赤く染め上げていく。そして、何度目かの凶刃によって、彼は動かなくなった。

 死んだのを見た田村は、両手をだらりと下げた。包丁が床にぶつかり、静寂な空間に金属音が響き渡る。

 田村は荒い息を吐きながら、坂田の死体を見つめる。そして、彼女は不適な笑みを浮かべた。憎き相手を殺せたことに、満足しているのだろうと加藤は思った。

 田村は恍惚な表情を浮かべながら、じっとしている。すると、だらりと下げた両手をゆっくりと上げた。そして、包丁の先を自分の首に向ける。それを見た途端、加藤は嫌な気配を感じ、口を大きく開ける。

「止めるんだ!!」

 加藤の叫びが構内に響き渡る。しかし、彼の制止は、田村に届くことはなかった。

 包丁はすでに、田村の首に刺さっていた。深々と刺さっていくにつれ、流れる血が増えていく。そして、刃の半分まで突き刺さると、何回も振られた炭酸飲料のように血が吹き出していく。

 田村の身体と床が血で濡らされていく。大量の血を失った彼女は、ふらふらと身体を揺らすと、前のめりに倒れた。顔を地面に埋めたまま、彼女は動かなくなった。

 加藤は目の前で起こった出来事に絶望し、膝から崩れ落ちる。

「あ、ああ…」

 加藤の口から失望の感嘆詞が漏れ出る。そんな彼に対して、羽田は相変わらずの無表情でいる。

「良かったね。仇が取れて」

「まさか…、こんなことになるなんて…」

 加藤の頭の中で負の感情が支配していく。その感情は、祖母のある言葉に向けられる。


『優しさは、誰かのためになる。だから、どんな時でも優しくしなさい。そしたら、いつか自分に返ってくるから』


「おばあちゃん…、そんなことなかったよぉ…」

 加藤は両手を地面につき、涙を流す。そして、彼はそのまま啜り泣き始める。

 加藤がその場で泣いていると、羽田が彼の肩に優しく手を置いた。そして、彼の耳元に顔を近づける。

「これが、あなたに見てほしかった結末」

 羽田の囁き声。それは、加藤をさらなる絶望の底へ落とした。

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仰向けに足掻く虫 大成 幸 @sarubobo6

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