虚蝉
双町マチノスケ
怪談:虚蝉(うつせみ)
いつの間にか、蝉が鳴いていた。
自室の机に頬杖をつき少し遅い時間の朝日を浴びながら、ぼーっとその声を聞く。情緒のかけらもない大人になってしまった今では「やかましいなぁ」としか思えなくなったわけだが、小さい子供の頃は蝉の声が聞こえ始めると胸が高鳴ったものだ。いかにも「これから夏が始まるんだ」といった雰囲気がして好きだった。あの頃から二十年近くが経ってしまって、子供の夏休みの記憶なんて大部分を忘れてしまい断片的にしか思い出せない。田舎の実家。その周りの青々と茂った山々。川のせせらぎ。ふと目を向けると、そこかしこにある蝉の抜け殻。
……蝉の抜け殻。
そうだ。ひとつだけ、今でもはっきりと覚えていることがある。
ある年の夏に起きた、奇妙で怖くて。
そして何より気色の悪い、忘れてしまいたい出来事。
子供の頃の私は、蝉の抜け殻がとにかく好きだった。夏休みになれば外に出掛けるたびに蝉の抜け殻を拾ってきて、自分の部屋に飾って眺めることが好きだった。蝉に関する詳しい知識は持っていなかったけれど、拾った蝉の抜け殻を並べては造形や個体ごとや種類ごとの違いを自分なりに見つけて楽しんでいた。別にそこからどうするというわけでもなく、ただ眺めては満足していた。虫嫌いの両親は気味悪がって「汚いから捨てなさい」なんて言ってきたが、気にも留めずに蝉の抜け殻を集めていた。
ある夏休みの始め、たぶん小学校の二年生か三年生あたりの年だったと思う。私はいつものように蝉の抜け殻を探しに森へと向かった。私の実家は田舎だったから、探す場所には困らなかった。家から少し歩いた所にある森に入り、ある程度の大きさと太さの木に目をやれば、今朝に羽化したものであろう抜け殻がいっぱい付いていた。当時の私にとっては宝の山だ。その中から形がいいと感じるものや、なにか珍しいものがないかをじっくりと品定めしている時だった。
奇妙な抜け殻を見つけた。
抜け殻自体は普通なのだけれど、中に何か入っている。近づいて見てみると、真っ白くて粒々したものが抜け殻の中に詰まっていた。一粒一粒はイクラぐらいの大きさだったと思う。少しつやっとしたそれは触ってみると弾力があって、水分を含んで濡れており、何かの卵のようだった。なんの卵なのか全く見当がつかないけれど、とにかく今までこんなものは見たことがない。興味を惹かれた私は、その何かが詰まった蝉の抜け殻を持って帰ることにした。家に帰ると母親が「また馬鹿の一つ覚えみたいに」とでも言いたげな目で見てきたが、かまわず階段を駆け上がり自分の部屋に入った。変なものが入った蝉の抜け殻を持って帰ってきたとは思わなかったのだろう。いつも通りその辺のものを拾ってきたに違いないと、だから何を拾ってきたのか根掘り葉掘り聞かれることはなかった。
部屋の机にそれを置き、改めてじっくりと眺めてみる。見れば見るほど、奇妙な感じがした。食い入るように見ながら、色んな想像を膨らませた。この卵は何が産みつけて行ったのだろうか?もしかしたら誰かが違うところから持ってきて、抜け殻の中に入れたのかもしれない。蝉の抜け殻を探しに行ったはずが気付いたら、その中に入っていたよく分からない卵に、私は好奇心の全てを奪われていた。
そこから数日間、私はその抜け殻に詰まった卵に釘付けになった。気がつけばそれに視線がいっていて、他の何事にも手がつかなくなっていた。朝起きてから夜寝るまで、ごはんやお風呂の時以外は自分の部屋に籠り、ひたすらそれを見つめるようになった。我ながら、頭がどうかしていた。でも……それだけ魅了させるようなものを、あの卵は持っていた。側から見ればなんと空虚な行為なのだと思われそうだが、当の本人である子供の私は言いようのない満足感に包まれていた。その時の私は一体どんな顔をしながらそれを見ていたのか。もちろん自分の顔をわざわざ鏡で映したりなんてしていないから分からないのだけれど、恐らくは「恍惚」という言葉がぴったりな表情だったろう。
そうやって眺め続けて日数が過ぎていくうち、私は少しおかしな事に気がついた。
この卵、ずっと濡れたままだ。
普通こんなものを冷房が効いて乾燥した部屋に放ったらかしにすれば干からびるか、そうでなくとも徐々に水分は失われていくものだろう。だがその卵は奇妙なことに、何日経とうがまるで今産み落とされたかのような瑞々しさを保っていた。おかしな事は、私自身にも起きていた。最初は眺めるだけで満足していた卵に、次第に別の変な感情を持つようになっていった。自分でもよく分からないが、ただ眺めているだけじゃなくて、もっと何かどうにかしてやりたい。そんな、とにかく強い欲求。でもそれがどんな欲求だったのかは、その時の私には分からなかった。
そうやって五日ほどが経った日。私はついに、その欲求を行動に移してしまった。今まではもやもやしながらも見ていただけだったのに、その日は何故か急に我慢が出来なくなった。
今すぐにでも、この卵を……と。
馬鹿げた想像だが、あの卵が私を操っていたんではないかと思うほどだった。そうして自分でも何がしたいのか分からないまま、私は吸い寄せられるようにして、卵が入った蝉の抜け殻へと手を伸ばした──
子供というのは、変な生き物だ。
なんてことないものを怖がったり。
かと思えば、危ないことを平気でやってのけたり。
無邪気で純粋だからこそ。分別がついてないからこそ。
常識に縛られずに。自らの感情と好奇心のままに。
大人が考えつきもしないことが、奇を衒わずとも出来るのだろう。
それが子供にとっての常識であり、日常であって。
子供というのは、そういうものだ。
……だとしても。
だとしても、あの時の私は狂っていたと今でも思う。
どうして私は、あれを見るだけに止めておけなかったのだろう?
どうして、潰してみるとか他の選択肢が浮かばなかったのだろう?
どうして私は、あの得体の知れない卵が詰まった蝉の抜け殻を
──飲み込んでしまったのだろう?
抜け殻ごと口の中に放り投げ、舌を使って口の中で転がした。
そうやって表面の感触を存分に味わったあと、少し噛んで。
ごくりと、そのまま飲んだ。
見た目よりずっと弾力のある、ぬるりとした卵が喉を通っていった。
自分がやってしまったことの異常さに気がついたのは、それから間もなくのことだった。飲み込んだ途端、催眠が解けたかのように我に返った。そして「絶対に飲み込んではいけないものを飲み込んでしまった」という感覚と、猛烈な吐き気が全身を駆け巡った。すぐさまトイレへと駆け込み、思いっきり嘔吐した。ぶちまけられたものの中に、今朝食べたものがちらほら見えた。飲み込んでしまった卵は見当たらなかったけど、飲み込んでからすぐ吐いたから他のものに紛れて一緒に出ているだろう。そう願いながら、ひたすら吐いた。幸いにも両親は出かけていたから、騒ぎになることはなかった。
ひとしきり吐いて尚、気分が悪かった私は気晴らしに庭に出ることにした。うだるような暑さだったが、このまま部屋の中にいるよりはマシな気がした。家の縁側に腰掛け、うつむき肩を落とす。なんであんな事をしてしまったのだろうと、答えなんて出やしないことを後悔の念に苛まれながら考え込んでいると
何かの視線を感じた。
はっとして、その方向に顔を向ける。自分のすぐ目の前にある、庭に生えた欅の木。その上の方から、何かの強烈な視線を感じる。でも、何もいない。何もいないのに、木の上に「何か」が止まっていて自分をじっと見ているんだという感覚だけが押し寄せてくる。まるで透明な生き物に見つめられているような、不気味な感覚。けれど、いくら目を凝らしてもそこには何もいない。何も見えない。私は余計に気分が悪くなった。気のせいだ、今日はもう何をしてもダメなんだと、諦めて家の中に戻ろうと背を向けた時だった。
背後で羽音がした。何かが飛び去った。
虫の羽音……だったと思う。少なくとも鳥ではなかった。ただ虫にしてはあまりにも大きく、そして重く低い羽音だった。慌てて木の方を振り返るも、何もいない。そしてあれだけ強烈に感じていた視線も、いつの間にか消えてしまっていた。やっぱり、何かがいたんだろうか。それとも変なものを飲み込んで錯乱したゆえの、幻覚と幻聴だったのだろうか。今でも分からない。
しばらくして、出かけていた両親が帰ってきた。何かの卵を飲み込んでしまったこと、さっきあった事は言わなかった。言えなかった。明らかに顔色の悪くなった私を見て母親が色々と聞いてきたが、暑さのせいで体調を崩したのだというと、それ以上は何も聞いてこなかった。気分が悪いのは、そのうち治った。しかし自分の行動の異常さと、その後に体験したことの不気味さがいつまでも後を引き、他に何もする気が起きないまま私はだらだらとその年の夏休みを終えたのだった。
それから私は普通に学校に通い、成長し、気がつけば大人になっていた。当然と言えば当然だが、あの出来事があってから蝉の抜け殻とは次第に距離を置くようになり、今ではすっかり興味を無くしてしまった。
結局、あの卵は何だったのだろうか。何が産みつけて行ったのだろうか。あの時、自分が吐き出せていなかったらどうなっていたのだろうか。吐いたあとに感じた視線と聞こえた羽音は、現実だったのだろうか。そしてあの卵は、今もどこかの蝉の抜け殻に産みつけられているのだろうか。蝉の声を聞くたびに、蝉の抜け殻を見かけるたびに、そんな考えても仕方のないようなことばかり妄想してしまい、何事も捗らない。あれから十七、八年か。そういえば蝉の中には、そのくらいの年月を幼虫として土の中で過ごす種類もいるんだとか。周期ゼミとか言ったかな。なんともまぁ、ご苦労なことだ。
ふいに、背中に痛みが走る。顔をしかめて目を閉じ、体を丸めて下を向く。あぁ、まただ。最近、背中に出来物ができてしまって時々痛む。放っておけば治ると思っていたが、さすがに病院に行くべきだろうか。少し痛みが引いた。顔を上げ、目を開ける。
辺りが真っ暗になっていた。何も見えない。
蝉の声も聞こえない。
あれ?さっきまで朝だったのに。
いつの間にか寝てしまっていたのか?
それにしては、あまりにも時間がたった感覚がなさすぎる。
でも、夢が覚めたような感覚もあった。
それに、なんだか周りの空気もおかしい。蒸し暑い。
外みたいだ。部屋の中にいるはずなのに。
部屋……そう、机に肘をついて……
机に……机……
そこまで考えたところで、言葉が出てこなくなった。
徐々に感覚がはっきりしてきて、自分が感じている違和感がなんなのか、そして今の自分がどういう状態なのかが分かってしまった。
私が体重を預けていたのは、一本の大木だった。
しゃがみ込んで背中を丸め、しがみつくように寄りかかっていた。
身体を動かそうと思っても、指一本動かなかった。
私は知らない森の中にいた。
私は服を着ていなかった。
私の身体は、搾り取られたように痩せ細っていた。
私が出来物だと思っていた背中の「それ」は。
背中を覆い尽し、痩せた私の胴体よりも重く大きな腫瘍で。
──中で何かが、もぞもぞと蠢いていた。
……なんで。
かろうじて絞り出せたのは、その一言だけだった。
背中のそれは、私の身体と一体化していた。いやむしろ、私がそれに一体化していた。中の何かが動くたび、私の身体のどこかが引っ張られて酷く痛む感覚があった。この状況を受け入れて理解することを脳が拒絶しているからか、それとも単純に私の身体が限界を迎えているのか、今度は意識が朦朧としはじめた。いや、今のこの状況が夢なのかもしれない。いや、きっとそうだ。気持ちの悪いことを思い出したから、気持ちの悪い夢を見てるんだろう。今頃私は、自室の机に突っ伏しているんだろう。直ぐに目が覚めてくれるだろう。
しかし、薄れゆく意識の中で逆にはっきりとしてくる感覚があった。
それは、背中から感じる鈍い痛みと。
中で蠢いている何かが、出てこようとしている感覚だった。
嘘だ。
そんなわけない。
早く、覚めてくれ。
……いやだ。
皮膚が引っ張られ、裂けはじめる音が聞こえた。
みしっ……
痛い。
びりっ……
痛い痛い。
痛い痛い、痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいた
──ぐちゃっ。
いつの間にか、蝉が鳴いていた。
大きな大きな、蝉が鳴いていた。
虚蝉 双町マチノスケ @machi52310
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