1-23(終)
次の日、風邪を引いてしまった僕は、家族の制止を振り切って登校していた。
昨日からの弱い雨が、今日も降り続いている。僕は傘を差しながら、月桂樹の並木の木陰で、彼女が来るのを待ち構えていた。
やがて、校門前にセンチュリーが停車したのが見えた。門柱の陰から二つの人影が現れると、傘を差して車内の人物を迎えている。あのときと同じように、周りの生徒たちの白眼視に晒されながら、三人組がこちらに歩み寄ってくるのを、僕は目で追った。
五メートルほどの距離まで近づいたところで、ようやく向こうもこちらに気が付いたようだ。羽生田先輩がニコニコしながら手を振ってくる。僕は意を決して、彼女たちに歩み寄った。
「どうしたんだ?」
老川先輩が訝しそうに聞いてくる。
「やあ。行一くん、なんだか顔色が優れないようですが?」
「ちょっと風邪をひいてしまって……」
「それはいけないですね。無理しない方がいいんじゃないかな?」
僕は大丈夫だと伝えると、今日は老川先輩の差す傘の下にいた松永先輩に向き直って切り出した。
「松永先輩に話したいことがあって、ここで待っていたんです」
「話ならもう終わったはずだが……」
松永先輩がそう言うと、残りの二人の先輩は互いに目配せをしながら、何やら意味ありげな笑みを浮かべ合っている。
「具合が悪いのにわざわざ部長に会いに登校して来たってことか」
「ふーん」
僕は二人の反応を気にせず、話を続ける。
「松永先輩、やっぱりあなたは嫌な人ですね……」
「ふふふ、それはお互い様だろう」
この人もそんなことを言うのか……
「……先輩は気付いていたんでしょう? でも黙っていた」
「きみが知るべきなのは藤村が話したところまでだ。違うかな?」
「確かにそうかもしれませんが……」
「言えよ千羽。何か気付いたことがあるんだろう?」
老川先輩の言葉に僕は頷くと、言った。
「川井先生には隠していることがありました。クラスメイトにも、藤村にも……」
僕はもう一度松永先輩の様子を伺った。
「聞かせてもらおうじゃないか」
静かに目を閉じながら、彼女は言った。その言葉に促されて、僕は続きを話し始めた。
「心のどこかで、ずっとおかしいと感じていたんです。記憶喪失という荒唐無稽な嘘をつくことを、どうして川井先生は承諾したのだろうと。いくら渡辺恵人からの告白をなかったことにしたかったからといって、流石に無理があるし、何より、そんなのは生徒の思いを無視していることになる……先生が本当に生徒想いな人なら、そんなことはせずに、ちゃんと正面から向き合うべきだった。それに、みんなの評判通りなら、きっと先生はそうしていたに違いない。よほど冷静を欠いていない限りは……」
僅かな風に揺られて、月桂樹の葉に支えられていた水滴が、パタパタと僕たちの傘を打った。
「きっと川井先生は、記憶喪失の嘘が渡辺に通用しなかったことを知っていたんです。だからこそ、あの問題を追加した。それは、場合の数と数列の複合問題で、しかも高校の範囲を超えていました。このことから読み取れる意味が二つあります。一つは、大学に進学するようにとのメッセージ。もう一つは、自分が嘘をついたことを認めた上での、その謝罪です……ただ、あの問題にどんな意味があったのかということは、それほど重要ではありません」
登校してくる生徒たちの視線が、次第に僕に注がれていく。それも、今は不思議と気にならない。
「もっと重要な、そして、もっと初めに考えておくべきだった根本的なことが、ここには隠されていました……渡辺が川井先生に〝うそつき〟とメッセージを送ったのも、記憶喪失についてのことなんかじゃない。もし仮にそうだったとしても、藤村が最初に記憶喪失の嘘を渡辺に告げたときだって、わざわざあんな回りくどいやり方で川井先生にメッセージを送るなんて、おかしな話なんです。すぐにその話が嘘だと気づいたのだとしても、ふつうは藤村自身に直接指摘するだろうし、それに、本当に川井先生が藤村と一緒になって嘘をついているなんて、その場では分からないはずですから。つまり、あのメッセージは、別の事柄に対して送られたものだったんです。先生も早かれ遅かれそのことに気づいた。おそらくは、渡辺が自殺を図ったときに、その行為の意味するところを、つまりは渡辺が川井先生に本当に伝えたかったメッセージを、先生は悟ったんです。だから先生は辞職した。彼女からはもう逃げられないと知ったから……」
僕は、松永先輩に問うような口調ではなく、断言するように、きっぱりと言い放った。
「川井先生は、渡辺恵人に告白されたとき、それを受け入れていたんですね」
僕が言い終えると、松永先輩は目を開いた。きれいな顔の、霧のかかったような大きな目が二つ、僕を見つめている。その眼には、今何が映っているのだろうか。
彼女が小さな口を開く。僕はあの氷の中から響いてくるような冷たい声が発せられるまでの一瞬間を、待った。
「御明察……と言いたいところだが、気付くのが遅いな」
ふんと鼻を鳴らしながら、どこか満足げに松永先輩は言った。そんな彼女の横で、羽生田先輩は目を輝かせている。
「すごいですよ行一くん! やっぱり部長が目を付けただけのことはあるなあ」
「私を誰だと思っているんだ」
松永先輩は胸を張りながら、得意げな表情を浮かべた。何だか妙に上機嫌だ。事態を飲み込めない僕は、置いてけぼりを食った気分になる。
「ときに、きみ、あれから入部する部は決めたのかな?」
こほんと小さく咳払いをしてから、松永先輩がそう問うてきた。
「いいえ、まだですが……」
「やった! じゃあ、今度こそ行一くんの入部決定ですね。部長もその気なんですよね?」
「仕方なくだ、仕方なく……」
そう言いながら、松永先輩は僕の傘に入ってくると、僕の身体にぶつかって止まった。そしていつもの不満げな表情で、僕の顔を真下から見上げるような仕草をとると、早く歩けと顎で指示してきた。
「何はともあれ、今日からよろしくお願いしますね。行一くん」
松永先輩と一緒に、羽生田先輩もふんふん言いながら僕を引っ張っていこうとする。
「え……普通に嫌ですけど……」
僕はいきなりどうしてそんな話になったのか分からず、素直にそう言葉を漏らしてしまった。羽生田先輩は、まるでキツネにつままれたような表情を浮かべている。どうしてそんな顔ができるんだ。
「え……なんでですか、いま完全に入部する流れだったでしょ! ほら、部長もびっくりして固まっちゃったじゃないですか。あ、よしよし、いい子ですから泣かないでください……」
そんなやり取りを眺めながら、老川先輩は面白そうに笑っている。
「おお、こりゃすげえ。やっぱおまえは只者じゃないな」
この場でまともに話が通じるのは、もしかしたら彼だけかもしれない。
僕にはまだ確かめたいことが一つだけ残っていた。やいやい言っている二人の先輩女子を横目に、老川先輩に話してみる。
「でも、まだひとつだけ、どうしても分からないことがあるんです……」
「なんだよ?」
老川先輩は首をかしげた。他のふたりもいったん静かになって、僕の言葉に耳を傾けているようだ。
「どうして藤村は、俺を部活に誘ったり、懇親会を開くようなことをしたんでしょうか……」
聞くと老川先輩はまた笑いだした。
「だめだこいつ」
羽生田先輩も笑いながら言う。
「まあ、行一くんらしいっちゃらしいんですけどねえ」
一人だけ笑っていないのは松永先輩だった。
彼女は怒りを込めた声を絞り出すようにして言った。
「それが知りたかったら我が部に入ってもらう……」
「え、なんですか?」
僕は聞き返す。
「それが知りたかったら我が部に入ってもらうと言ったんだ! 私に恥をかかせた罰だー!」
松永先輩の声が校舎中に響き渡った。気にならないはずでいた周りの視線が、急に鋭く痛み出して、僕は泣きそうになった。
その日、僕は風邪を理由に午前で早退したが、次の日には風邪をこじらせてしまい、その週は学校を休むことになった。
翌週の月曜日、登校した僕はクラスメイト全員から再び注目を浴びた。だが、それはあのときとは違う種類の注目だった。
このクラスに溶け込むのはまだしばらくは難しそうだと、僕はため息をついた。
昼休みになると、ボッチ飯を覚悟していた僕の席に、藤村がやってきた。彼は持参した弁当箱を僕に見せると、少し照れくさそうな笑みを浮かべた。
「今日は弁当を持ってきたんだ……」
彼の笑顔には、自然と自分も笑顔になってしまうような不思議な魅力がある。
僕たちは、この前二人で昼食をとったのと同じ場所、一棟校舎と二棟校舎の間にある庭のベンチに腰を下ろし、弁当を広げた。
あの日と同じように、複数の男女のペアが和やかに談笑している。そんな彼らを眺める藤村の表情も、心なしか晴れやかだ。自分自身との心理戦とかいうやつに、彼は勝利したのだろうか? そんなことを、僕はふと思った。でも、それを聞くことは今の僕にはまだできなかったし、聞く必要もないことなのだろう。
遠くから、またあのユーフォニアムの音色が微かに響いてきた。この距離だ、この前より少し上達しているように聞こえるのは、きっと気のせいに違いない。
「そういえば、千羽は部活は決まったのか?」
藤村は箸を置くと、ふと思い出したようにそう尋ねてきた。
僕は苦笑いを浮かべながら答えた。
「ああ、決まったよ」
******
第一章 Bogus 完
カインの光学【Bogus】 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto
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