1-22


 次の日の放課後、下校するそのままの足で、僕は渡辺の家へと向かった。

 学校では僕は何事もなかったかのように過ごしたが、藤村とはどこか気まずく、言葉を交わすことはできなかった。志村さんとだけは、帰り際に少しだけ会話をした。僕が例の問題が大学で学ぶものであることを伝えると、彼女はどこか腑に落ちたような表情を浮かべ、僕にひと言礼を言うだけだった。

 渡辺の家は、僕の家の最寄駅から一駅離れた場所にある工業団地沿いの住宅街にあった。駅から歩くことおよそ十分、なだらかな坂道を登っていくと、対面に手入れのされた小さな雑木林を望む二階建ての一軒家があって、それが渡辺の家だった。

 外門のインターフォンを鳴らしても、何の返答もなかった。しかし、二階の部屋のカーテンが揺れるのが分かったので、僕はそのまま誰かが出てくるのを待った。


「あなたが、千羽くん?」

 そう言って出てきたのは、僕と同い年くらいの眼鏡をかけたボブヘアーの少女だった。彼女は扉の陰から、僕の様子を注意深く伺っているようだった。

「はじめまして。とても疲れたよ……」

「さっそく苦情?」

「そりゃ、苦情の一つや二つ言いたくもなるさ」

 聞くと、彼女は邪気なく笑いながら、裸足のままこちらに近付いてきた。彼女のベージュのパステルカラーの部屋着が、雑木林を抜けてきたそよ風に揺れた。

「ねえ、千羽くん、あなた、どこまで知っているの?」

「藤村が知っていることなら……」

「ふーん。そっか」

 言うと彼女は僕の鞄に目を落とした。その意図を察した僕は、問題集を取り出すために鞄のファスナーを開けた。

「でも、どうして俺がこれを受け取ったことをきみが知っていたのかは、よく分からない」

 僕は問題集を手に取ると、それを彼女に示しながら言った。

「そんなの簡単よ。健吾の考えることなんて何でもお見通し」

「本当に?」

「なんてね、半分は本当だけど、半分は嘘。私と入れ替わりで転入してきたのがどんな人なのか、ちょっと気になっていただけ。だから、あのメールは口実みたいなものだったのよ。私の予想が外れても、その時はその時で改めて問題集の行方を聞くこともできたでしょう。それに、転入生のあなたなら、私に嘘をつくようなこともないだろうしね」

 そうか、と言うと、僕は問題集を手渡した。

 受け取った彼女は、さっそくぺらぺらとページを捲りながら、その中に目を走らせた。そして、最後のページにたどり着くと、しばらくの間そこに視線を留めた。

 例の追加された問題のある箇所だ。

「ねえ、この問題、あなたは解けた?」

 僕が既に中身を見ていることを見抜いたのだろう。彼女は少し意地悪な笑みを浮かべて、そう尋ねてきた。

「いいや、解けなかった。今はまだ……」

「そうね、今はまだ、解けない……でも、私、分かるの。これはきっと、先生の諦念のあかし」

「どういう意味だ?」

「だって、問題を出したなら、答え合わせもしなければならないでしょう?」

「それだけ?」

「うん、それだけ」

 僕は彼女の顔をじっと見た。まだあどけなさの多分に残るその顔立ちには、しかし女の抜け目ないしたたかな表情がすでに備わっているような気がして、僕は少し怖気だった。僕はなぜだか、そんな彼女と、松永先輩を、心の中で比べていた。

「どうしたの?」

 そんな僕の視線に気づいたのか、彼女がそう問いかけてくる。

「その、なんと言うか……自殺をしようとした人には見えないから」

 僕はどぎまぎしながら、そう言った。

「当り前じゃない、わたし、死ぬ気なんて初めから無かったんだもの。でも、その必要があるなら、本当に死んでしまってもかまわない……絶対に、逃がさない」

 すると彼女は妖しく微笑んだ。

「分からない……いったいきみは何を……」

「分からなくていいの。私たちの秘密も、嘘も、私たちだけのものだから……」

 そして彼女は、礼を言うこともなく家の中へ戻ろうとした。

「おい、ちょっと……」

 そんな彼女を、僕は呼び止めた。彼女は振り返ると首を傾げた。

「学校には、もう行かないつもりなのか?」

「そうね、別に高校なんて行かなくても、私なら何とでもなるもの。でも、どうしてあなたがそんなことを気にかけるの?」

「確かに俺には関係ない、でも、藤村が……藤村とはもう会わないのか?」

 僕の問いに、彼女は無表情を作ると、冷ややかな声音で言い放った。その声は、松永先輩のものとはまた違った冷たさを孕んでいた。

「別に、会わないってことはないんじゃない? 近所だしね。でも、私、ああいう単純な男って、あんまり好きじゃないの」

 そんな返事を受けて、僕も冷たい声を作ると、言い返した。

「きみって嫌な奴だな……」

「そうかしら? まあ、どうだっていいけど、それを言うならあなたもそうじゃない? なんだか同じにおいがするわよ、私たち……」

「そんなわけがあるか。僕は藤村みたいな男、嫌いじゃないしな」

 僕の言葉に、彼女は声を上げて笑った。

「あなたって面白い、きっとお友達になれるわね、私たち」

 僕は何も答えず、わざと不機嫌な表情を浮かべると、彼女をそのままにしてその場を立ち去った。


 電車を使わずに歩いて帰路についた僕の脳裏には、いまだ冷めきらない思考の疼きのようなものがくすぶり続けていた。いつしか、空は雲に覆われていた。幹線道路沿いの道を、自宅の方角へと歩みを進める僕の横を、何台もの車が追い越していく。東京とは違い、この町では一駅の距離がかなり長い。僕はその道すがら、ずっと考え続けていた。

 僕は何か重要なことを見落としているかもしれない……


  ふと我に返ると、いつか立ち寄った橋の上に辿り着いていた。あのときとは違い、まだ辺りは明るいため、そこから川の様子がよく見渡せた。

 暗闇の中では、その音と、わずかに耀う鱗のような川面のために、ひどく不気味に感じられたこの流れも、その正体が明らかになれば、何てことはない。

 藤村の胸に秘められていた真実も、僕にとっては同じようなものだったのかもしれない。そんな秘密は、暴いてやらなくてもよかったのだ。僕と彼が友達になれるかどうかなんて、そのこととは全く関係がないはずだった。ただ僕が臆病すぎたのだ。誰かを信頼するためには、自分の心を無防備にさらさなければならない。ひねくれ者の僕にはそれができなかった。

 渡辺の言うとおりだ。僕は彼女と似て嫌な奴だ。藤村と友達になる資格なんて、はじめからありはしなかった……


 ぽつぽつと小雨が降り始めた。傘は持ってきていない。天気予報をよく確認しなかったツケだ。早く帰らなければ……それでも僕は急ぐ気にはなれなかった。なんだか今は濡れていたい気分だ。

「そういえば、部活はどうしよう……」

 僕がそう独り言をつぶやいたときだった。携帯が鳴った。菅原からのメールだ。


〈件名:(no title)

本文:その後どうなった?〉


 いったい何の話だろう? 菅原からのメールに、僕は思い出すようにしばし考え込んだ。

 ああ、そういえば、松永先輩の協力を仰ぐ気になったのも、電話でこいつに背中を押されたことがきっかけだったんだ。しかし、あのときこいつは何て言っていたんだっけか……?

 確か、人間関係の定義について何やら語っていたような……


 そのときだった。僕はあることに想到して唖然とした。

「そういうことだったのか……」

 雨に打たれながら一人佇む僕の横を、傘を差した人が不思議そうな目で通り過ぎていく。


〈件名:Re

本文:ありがとう〉


〈件名:Re Re

本文:なにが?〉


 こんなことは、最初の段階で勘定に入れておくべきことだったんだ……

 本当に今更過ぎる。もっと早く気づいていれば、あんなことを藤村に語らせる必要もなかったかもしれないのに……いや、それどころか……


「ああ、くそっ」

 僕は雨の中、理由もなく家とは反対の方角へと走り出していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る