1-21


 窓の外は、もはや夜の帳に包まれていた。

 藤村は両手をポケットに突っ込むと、扉に寄りかかったまま、俯いて誰とも視線を合わせまいとした。それから、ちょっと自棄気味な笑みをこぼすと、ぽつりと呟いた。

「確かに、千羽の立場はもうすこし考えてやるべきだったな……」

 松永先輩は、机に頬杖をついたまま眠ったように目を閉じている。

「でも、まさかここまで追い込まれるとは思わなかった……真実を知っても、笑わないでください」

 そして、一呼吸置くと、藤村は語りだした。


「渡辺が川井先生に告白したこと、そしてそれが原因で渡辺が不登校になったというのは紛れもない事実です。当時、事情を知らなかった俺は、部活終わりに川井先生を問い詰めました。そこで、初めてそのことを聞かされたんです」

 彼が話始めると、僕たちは誰にも知られてはならない秘密の話を聞くように、息を潜めてその声に耳を傾けた。

「驚きはしませんでした。渡辺が先生を好いていたことは、俺も感づいていましたから。ただ、先生が記憶喪失のことを持ちかけてきたときは、さすがに何かの冗談かと思いましたが」

 川井先生が言い出したのか……僕は心の中で確かめるように呟いた。

「でも、先生の様子は真剣そのものでした。だから、俺たちは部活中の事故を考えて、それを口実に先生は休職したんです。手続き上は自己都合休職とのことでしたが、これほどまでに嘘にこだわる先生の姿を見て、俺は彼の本気を確信しました」


 重たい扉を少しずつ開いていくように、真実が少しずつ明らかになってくるのを感じた。藤村の言葉は、その重さに息切れするように、時折途切れるのだった。

「先生が休職してから、俺はすぐに渡辺の家に行って、その話をしました。あいつは聞くなり部屋にこもってしまったんです。そして、また出てくるなり問題集を押し付けてきて、これを川井先生に渡してくれと言ってきました……その問題集の中には例のメッセージがありました……俺はしてやったりと思いました。はじめから俺は、あいつに嘘が悟られるように話していたからです。事件が起きたのはその直後でした……」

 と、彼は心構えをするように深く息を吸い込んだ。

「俺は夜中に親にたたき起こされました。渡辺が自殺未遂をして病院に運ばれたと聞かされたんです……幸い大事には至りませんでしたが、直前にあいつに会っていた俺は大人たちから色々と問い質されました」

 僕は先輩たちと思わず顔を見合わせた。松永先輩だけは、藤村の話を聞いても何の感慨もないかのように、どこか退屈そうに頬杖をついたままだった。

「次の日の放課後、俺は校長室に呼ばれました。そこには川井先生もいました。先生は校長と教頭に全ての事情を話したようでした。先生の退職が決定したのもそのときだったんです。自主退職と聞きましたが、俺には信じられません。とにかく校長は、俺に口止めをしたんです。渡辺の両親からの頼みだと言って」

 そこまで話すと、藤村の言葉には、人がただ事実を淡々と諳んじて話すときの、ある種の軽快な淀み無さが表れてきた。


「クラスメイトたちは突然の出来事に、皆戸惑っていました。そんな悶々とした状態で、夏休みを迎えたんです。学校は当初、先生が実家の都合で辞めることになったと説明しました。先生が休職した時も、クラスにはそう伝えられていたんです。でも、中にはそれに疑問を抱く者もいました。渡辺の自殺未遂の件が、どういう経緯かは知りませんが、クラス内に漏れ伝わってしまったのが原因です。夏休み中ではありましたが、一部の生徒の親が学校に問い合わせたようでした。俺はすぐさま、臨時担任を務めていた教頭に呼び出されました。そこで俺は、川井先生とした記憶喪失の嘘の計画のことを話したんです。そして、その嘘を真実として通すために、先生の退職理由をでっち上げる芝居を提案しました」


「俺はそれから、川井先生にもその話をしました。川井先生は承諾してくれました。そして、夏休みの登校日、俺はその嘘をクラスメイトに話しました。最初は疑わしげな目で見ていた彼らですが、席替えの細工の考えを伝えたあたりから、何人かは信じ始めたようでした。それでも、もちろん全員ではありません」


「夏休みが明けると、渡辺の自殺未遂の件は川井先生の退職とは別の次元で、徐々にクラス内に広まり始めていました。そんな中、教頭と、当時臨時担任を務めていた西村先生は、カウンセリングと称して、クラスメイト一人一人から事情聴取を行ったんです。しかし、これが逆効果でした。疑念が疑念を呼び、噂はクラスの中に徐々に広がっていきました。クラス外にあまり友達のいなかった渡辺のことといえども、このままでは噂は学校全体にまで及んでしまう。それを恐れた校長と教頭はついに、渡辺の自殺未遂の事実を1年Ⅰ組の俺たちの前でだけ認めて、クラスに箝口令をしいたんです。この件は絶対に外に漏らしてはならないと、内申の不利を脅しとしてちらつかせながら、俺たちは命じられました。そのうえ、そのころ千羽が転入してくることが決まっていたので、俺たちに相互監視までさせて、外部から来る転入生に対して絶対に何も言わないように、一人ひとり個別に強く言い聞かせていました。学校がどうしてそこまでするのか、俺にはわかりませんでしたが……」


「でも、そのときの俺には別の焦りが出てきていたんです……」

 ここで、藤村の言葉に再び淀みが生じた。

「もはや川井先生の記憶喪失の話を信じる者はいなくなっていました。俺は、これ以上みんなに嘘をつき続けるのは無意味だと思ったんです。でも、このままでは、せっかく席替えの細工までしてお膳立てした例の芝居の件が水の泡になってしまう……そうなれば、渡辺に、先生のことを諦めさせることができない……それでは、困る……」

 なぜ困るのかまでは、あえて聞くまでもない。そのことまでは追及しないでくれと言わんばかりに、藤村は許しを請うように、歪んだ表情で僕たちを見上げた。

 それからまたすぐに目を伏せると、彼は続きを話し始めた。


「俺は無理にでもあの芝居を断行することに決めました……実は、千羽があの日に登校してくることが決まったとき、直後に控えていた川井先生の別れの挨拶は中止されそうになったんです。もしそうなってしまえば全て水の泡です。俺は何とか千羽を利用できないかと考えました……」

 その言葉に、僕は息を呑んだ。そして、藤村の言葉の真偽ではなく、その真意を見抜こうと、より注意深く耳を傾けた。

「まず俺は、千羽が転入してくる当日に、教頭にみんなを集めさせるように仕向けました。川井先生の挨拶について、学校は直前まで中止する意向を示していましたから、それについて最後に話し合いたいという口実で、教頭を通してあの日皆を集めさせたんです。ただ、千羽はすでに学校にいましたから、俺は皆に、俺たちがこの件で集合することが彼にばれたら、説得はより困難になると忠告したんです」

「もちろん不安はありましたが、結果はうまくいきました。最初に千羽が自己紹介をしたときは、皆は千羽に話しかけていましたが、俺の忠告の甲斐もあって、それ以外のときは個人的に話しかけることにみな躊躇っていたのです。これは俺のもう一つの狙いでもありました……」

「それから俺たちは、昼休みに多目的室に集まりました。そこで俺はこう提案しました。今日のクラスの千羽への接し方を教頭に伝えて、このままでは余計な疑念を彼に抱かせてしまう……それくらいだったら、最初に考えていた例の芝居を実施して、彼にだけはあの嘘を信じ込ませよう。そして、もう川井先生についての話題はクラスの中では口にしないようにしよう。これが、みんなのためになる、と……一つには、先生に挨拶に来てもらうための口実として、もう一つには、例の芝居を行う口実として、俺はそう提案したんです。少し無理はありましたが、俺は何とかそれを通すことができました。どんな形であれ、川井先生と最後に会えるのなら、と、皆が賛同してくれたことが大きかった……」

 藤村はため息のような息を吐くと、視線を少し上げて、僕たちの方をちらりと見渡した。しかし、僕は彼と目を合わせることができなかった。

「そして、あの芝居は無事に行われた……そのことが渡辺の耳に入れば、それこそ一度は看破された嘘をつき続ける間抜けで甲斐性なしな男がそこに完成するんです。そうすれば、渡辺も……恵人もきっと、彼のことを諦めるだろうと……」


 そして、最後に彼は扉にもたれていた背中を離して、ポケットから手を出すと、その手をすこし握りこみながら言い切った。

「これが全てです。嘘偽りのない真実です」

 少しの間、暗闇のような沈黙があった。

 それから、いつの間にか頬杖をつくのをやめて、その手を机の上に小さく重ねていた松永先輩が口を開いた。

「どうだ? 千羽……今ので納得したかね?」

「……はい」

 僕は小さく頷きながら言った。松永先輩がこれ以上追及しないのを見ると、おそらく藤村はもう嘘をついてはいないのだろう……しかし。

「そうか、きみがそう思うのならそれでいい」

 松永先輩が言うと、最終下校時間を告げる校内放送が鳴り響いた。

 どこか無機質に響いてくる校内放送を空耳のように聞きながら、僕の胸には複雑な感情が渦巻いていた。藤村がいいやつに思えたのも、彼の演技ゆえのことなのだろうか?

「じゃあ、俺はこれで失礼します」

 放送が鳴りやむと、藤村はそう言って踵を返した。

「おい、藤村……」

 僕はとっさに彼を呼び止めていた。しかし、自分でも何を言おうとしたのか分からず、言葉に詰まってしまった。

 そんな僕に、藤村は振り向くと、やっと僕に目を合わせて、それから笑いながら言った。

「千羽、悪かったな。でも、まさかここまで話してしまうとは思わなかったよ……なんでだろうな」

 そんなことを言う彼に、僕はどこか自責の念に駆られ、余計に何も言えなくなってしまった。

「そうだ、その問題集、おまえの手で渡しておいてくれないか? きっとあいつも、おまえにそう頼んだんだろう?」

「……それでいいのか?」

 僕はいったい彼に何を確認したのか、自分でもよくわからなかったが、彼の方は妙に得心したような表情で頷くと、言った。

「いいんだ、やっぱり俺じゃ駄目だったんだ……」

 そう言い残すと、彼は軽く会釈をしてから、その場を去っていった。

 僕はその姿を黙って見送った。


「追いかけなくていいんですか?」

 そう問うてきたのは羽生田先輩だった。

「はい、いいんです。それじゃあまるで友達じゃないですか……」

 そんな僕に、羽生田先輩は何か言いかけたが、松永先輩の声がそれを遮った。

「だからといっていつまでもここに留まるわけにもいかないだろう。きみも早く帰り給え」

「ちょっと部長! あなた人の心とか無いんですか!?」

「逆にあると思っていたのかよ」

 僕は思わず笑ってしまいそうになる。なんだか、すべてがどうでもいいような気がしてきた。

「いいんです……皆さん、ありがとうございました」

「私も、ちょうどいい暇つぶしになったよ……」

 松永先輩の冷ややかな声が、僕の耳の奥に注がれるように響いた。

 それから僕は机の上に広げたままだった問題集を鞄にしまうと、マイコン部の部室を後にした。


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