1-20
僕は藤村と目を合わせるのを躊躇った。彼に対する言い知れぬ後ろめたさを僕はまだ払しょくできずにいた。
「おどろいた、自分からカチコミにくるなんてな」
そう言ったのは老川先輩だった。
「そんな物騒なもんじゃないですよ。ただ、川井先生のことについて、こそこそ嗅ぎまわるのをやめて欲しいだけです」
「それならそこの転入生にお願いすることだな」
藤村の視線を感じ、僕は思わず目を伏せた。
「千羽、帰ろう。何もおまえが心配するようなことはないんだから」
彼の僕にかけた言葉の調子は存外穏やかだった。それだけに、これまで僕が心中に育ててきた彼に対する不確かな疑念は、その正体も定かならぬままに、確かな質量のみを備えて、僕の心を押さえつけるのだった。
「なあ、藤村、俺たち友達になれるか……?」
どうしてそんな言葉が口をついて出たのか、僕にもわからない。ただ、押さえつけられた心から漏れるようにして出た音がそれだった。
「なに言ってるんだ。もう友達だろ……」
僕は彼の言葉から勇気を得た。ぐずぐずしていても仕方がない。余計な誤魔化しなどせずに、率直に彼に問うてみよう。
「なら、友達として教えて欲しい。これは俺のわがままかもしれないが、どうしても聞いておきたい。なんで藤村は俺に嘘をついたんだ? 川井先生の記憶喪失の話、あれは嘘だろう?」
「なんだ、気付いていたのか」
彼はあっさりとそれを認めた。
僕は少し面食らい、次に言うべき言葉が見つからなかった。藤村は気にする様子もなく、話を続けた。
「でも、あれは俺一人の嘘じゃない。俺と川井先生の共謀なんだ。千羽を巻き込んですまなかったとは思ってる。だが、渡辺にもう一度学校に来てもらうには、それしか方法がなかったんだ……」
「……どういうかとか、詳しく説明してくれないか?」
藤村はちらりと松永先輩の方を見やり、それから再び僕に目を向け、頷いた。
「川井先生の記憶喪失の話だけど、確かにあれは嘘だ。志村から聞いたんだろう? 渡辺と川井先生のこと……つまりそういうことだよ」
「全部なかったことにしたかった……って話か?」
彼は返事をする代わりに、ちょっと目を伏「でも、本当にそれだけが理由なのか? それに、そんな嘘をついたところで……」
「ああ、そんな嘘はすぐにばれてしまう。渡辺は馬鹿じゃない。だからこそ、お前にも協力してもらったんだ。先生がお前に問題集を渡せば、記憶喪失の話もきっと信じてもらえる。クラス全員が証人になれるからな」
「でも、まさか……」
僕はこれまでの出来事を思い返しながら考えを巡らせた。本当にそれだけで全てを説明できるのか?
「きみ、この期に及んでまだ嘘を重ねるつもりかね」
そう声を上げたのは松永先輩だった。
「いったい何のことでしょうか……そんな、言いがかりです」
「言いがかりだと? 私が何の根拠もなくそんなことを言うと思うのか? それは私への許し難い侮辱だ」
そう言い放つと彼女は立ち上がった。それから、片方の指先で机の角をなぞりながら、それに沿ってその周り半周すると、彼女は僕の横に立った。
「そこまで言うのなら、私の質問に答えてもらおうか。これに応じるというなら、君の侮辱も許してやらないこともない」
松永先輩の挑戦的な態度に、藤村の顔が強張るのが分かった。
「……わかりました」
藤村が要求を呑んだのを聞くと、松永先輩は満足げに鼻を鳴らして言った。
「聞きたいことは幾つかある。ひとつずついこう」
真横に立つ松永先輩の様子を、僕は恐る恐る横目で窺った。彼女はその白い瞳で藤村の方を見据えていた。しかし、その焦点は対象物に結ばれることはなく、この明るい室内にいながら、幽暗な霧深い夜の森を映したような双眸は、藤村の顔へ向けられながら、しかしどこか別の遠くの場所を見つめているようだった。
「最初に聞きたいのは川井の退職理由についてだ。記憶喪失の話が嘘なら、川井が退職した本当の理由は何なのだね?」
「あれは先生なりの贖罪ですよ。責任感の強い人でしたから、恋愛がらみのトラブルで生徒を不登校にしてしまうなんてことは到底許容できなかったんだと思います。それが例え自分自身の問題だったとしても。いや、それだからこそ……」
「川井の離任式が行われなかったことも、それと関連しているのか?」
「はい、恐らくそうだと思います。二人の間の問題は、校長や教頭も把握していたみたいですから」
「そうか」
彼女は聞くと、胸元に垂れていた長い髪をかき上げて背中へ流した。花の香りを抱いた春風のようなものがかすかに僕の鼻先を掠めた。
「次に、席替えの件についてだが、あれを準備したのはいつだ?」
「出席番号順に並び変えたあの席替えのことですか? それなら、夏休み中の登校日にクラスのみんなで話し合って、夏休み明け最初の登校日に座る席だけ入れ替えたんです」
「つまり、クラスメイトと話し合ったその時点で既に、川井が退職することや、千羽が転入してくることを、きみは知っていたのだな?」
「……はい」
「おい、千羽。今の話に時期的な矛盾はないか?」
「はい、ありません。俺の転入は夏休みの始まる前には決まっていましたから」
「よろしい」
すると、松永先輩はその場からまた半歩前へ踏み出して、質問をつづけた。
「最後に、渡辺の問題集を川井に提出したのはきみか?」
「そうです」
「なら、あの問題の答えを書き換えたのも、きみだな?」
「それは……」
藤村は何かを言いかけてから黙った。
「それとも、あの状況で、きみ以外に問題集を書き換えることのできる人間がいたというのか? 物理的にもそれが可能で、かつ、そのようなことをする動機のあるものが?」
「……はい、俺が書き換えました」
すこしの躊躇いを見せた後で、藤村は認めた。
「どうしてきみがそんなことをしたのか、いくつか想像してみることができる。もしかして、渡辺は問題へ回答をする代わりに、何かメッセージを残していたのではないか? しかもそれは、きみにとって川井に知られたくない内容だった……元の解答にはいったい何と書かれていたんだ?」
「数字で、12、9、1、18と書かれていました。あいつにはありえない誤答の仕方だったので、すぐに何か別の意味があることを悟りました」
「置換暗号ですね?」
羽生田先輩がハッとしたように呟いた。
「はい。これらの数字をアルファベットの順番に対応させると、LIARになります。ライアー、つまり〝うそつき〟です」
なるほど、これが渡辺がメールで話していた頓珍漢な解答か……しかし、妙だな。
首をかしげる僕の横で、松永先輩は話を進めていく。
「〝うそつき〟というのは、記憶喪失の嘘のことか?」
「はい、そうだと思います。ちょうど俺が渡辺から問題集を受け取った直前に、俺はあいつに川井先生の記憶喪失の話をしていましたから……最初から看破されていたんですよ」
「なるほど。私が聞きたかったことはこれで以上だが……まだ釈然としない点がいくつかある。これからは今きみがした回答を踏まえて、追加で質問をさせてもらおうか」
松永先輩の相手に拒否権を与えない物言いに、藤村は少し圧倒されているようで、段々と彼女がこの場の主導権を掌握しつつあるのが分かった。彼はほとんど自分の意にそぐわぬまま、彼女の言葉に否応なく首肯しているようにすら見えた。
「いまここにある渡辺の問題集についてだが、きみはホームルームで挨拶に来た川井から返却されたこの問題集の中身を、そのあと確認したのか?」
「……していません」
「ならば、君が渡辺のメッセージを隠した理由は、ただ川井にそれを見せたくなかったから、ということになるが、どうしてそんなことをしたのだね?」
「もし渡辺が嘘を見抜いていたことを先生に知られてしまえば、もう彼はその嘘を貫き通すことをやめてしまうかもしれない。無理のある嘘だということは最初から分かっていましたから、そうなった後では、私にはもう先生を説得することはできなかったでしょう」
「なぜ君はそこまでして記憶喪失の嘘に執着したのだね。一度見破られた嘘をそれでも続けるなど、川井でなくとも憚るはずだが」
「はじめに俺が渡辺にその話をしたときは、まだ突拍子もないものに過ぎませんでしたから。なんでもいい。根拠さえあれば、まだ渡辺に嘘を信じさせることができるかもしれない。俺はその可能性にかけたんです」
「それで、あのホームルームでの芝居を思いついたと?」
「そうです」
「席替えとそれを利用した芝居の計画を提案したのは誰だ?」
「俺と川井先生のふたりで考えました」
「その計画が立てられたということは、そのときには既に川井の退職は決まっていたということになるが、それでもきみたちは嘘を続けようとしたのか?」
「はい……これは渡辺の心情の問題なんです。川井先生が学校に残るか残らないか、という話と、渡辺が再び学校に通えるようになるかという話は、別の問題なんです。とにかく、あの告白をなかったことにするというのが俺たちの最大の目的でしたから」
「やはりまだ不可解だな……」
そう言うと松永先輩は、今度は大きく一歩前に踏み出した。それに反応して藤村は後ずさり、扉に背中をぶつけてがしゃんと大きな音を立てた。
老川先輩も羽生田先輩も、このどこか張り詰めた空気に飲み込まれるようにして、じっと息をひそめるように沈黙している。
「きみたちの芝居が効果を発揮するとしたら、それは問題集が返却されたときだろう。そのためには、問題集が千羽の手に一度渡ったという事実を渡辺が知る必要がある。もし志村が嘘を信じていたなら、その事情を話すかもしれないが、確実ではない。志村に問題集を渡すように頼んだのはきみだということだが、これもまた不自然な手落ちだ」
「しかし、それを期待したとしても、十分に妥当な判断だったと思います……」
「フン……ところで、川井は渡辺が不登校になった後、休職した際に既に退職する意向を固めていたのかね?」
「はい、そのようです……」
「つまり、きみの話が真実なら、渡辺の心情がどうのこうのというのは、当初からのきみたちの行動原理だったわけだ。そして、一度目の嘘をつき、それでは不十分だったので、クラスメイトを巻き込んであんな芝居まで打った」
「……はい」
「それなのに、きみは問題集の改ざんをその後隠ぺいすることもなく、それをそのまま渡辺のもとに返すことを見過ごした。メッセージを隠したことがバレてしまっては、それはもう自分たちが嘘をついていることを遠回しに認めているも同然だ……」
藤村は何も言い返すことができずに、ただ手の汗を制服のズボンで拭い取った。
「問題集は生徒一人ひとりの理解度に合わせて、別々のものが配られていたというが、とはいえ、改ざんしたページを後から差し替えるというやり方も、その気になればできないことではない。クラスメイトを巻き込んでまで、あれだけ大掛かりなことを計画しておきながら、しかし、きみにはそれができなかった。いや、やらなかったのだ。その必要がなかったから……」
段々と追い詰められていく藤村は、明らかに焦燥の色を濃くしている。それでも、松永先輩は追及の調子をより強くさせながら続けた。
「ここから分かることがひとつある。きみの目的は、記憶喪失の嘘を渡辺に信じ込ませることではなかったということだ。川井に嘘をつき通させること、あるいはその姿を渡辺に見せることによって何らかの利益を得ることが、きみの真の目的だった。違うか?」
「そんなのは……ただの邪推ですよ……」
藤村は声を絞り出すように言い返した。
「なら、邪推ついでに私の憶測を聞いてもらおうか」
松永先輩は怪しく微笑みながら言った。
「これまでの話を整理して、得られる仮説は次の通りだ……」
そう切り出すと、松永先輩は振り返り、手探りで机のある場所まで戻ると、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「きみは渡辺に嘘をつくことを、少なくともあの問題集の誤答を書き換えた時点で、もう諦めていた。となると、クラスメイトを利用して、その嘘の信憑性を高めようとしたという話も怪しくなってくる。それに、きみは渡辺があのような嘘をすぐに見抜いてしまうと言ったが、それを言うならほかのクラスメイトだって同じことだ。あんな荒唐無稽な嘘を信じ切ってしまうとんまな生徒と同じ学校に通っているだなんて、私も信じたくはないからな。それに、渡辺に嘘を信じ込ませることが目的なら、わざわざクラスメイトにまで同じ嘘をつく必要はない。私が思うに、最初からクラスメイトは記憶喪失の件が嘘だと知っていたのだ。どうかな?」
藤村は何も答えない。
「翻って考えてみれば、こういうことになる。クラスメイトは記憶喪失のほかに、川井が退職する真の理由を知っていた。それを承知の上で、彼らは記憶喪失の芝居に加担した。一体何のために? とにもかくにも嘘をついたということは、その嘘を信じさせたい相手が当然その場所にいたということになる。そして、今までの話野中で、記憶喪失の嘘をつかれたことが確定している人間が一人だけいる。それは千羽だ」
突然自分の名前を呼ばれたので、僕は声を出しそうになった。
「あの芝居は千羽に嘘をつくために行われたのだ。それはなぜか? 普通に考えれば、それは、記憶喪失の嘘によって、千羽に対してある事実を隠蔽したかったからだ。おそらくそれは、川井が退職になった本当の理由とも関係しているのだろう。川井の離任式が行われなかったことと、栗林教頭が臨時の担任を務めたことも、それと無関係ではあるまい。だとしたら、川井は本当に最初から退職するつもりでいたのか? きみが川井に渡辺からのメッセージを隠した本当の意図は何だったのか……」
松永先輩は一度言葉を切ると、僕たちに考える時間を与えるかのように、しばし沈黙した。やがて、彼女は目を閉じ、腕を組んで耳を澄ますような仕草を取りながら、再び口を開いた。
「きみが嘘をつくことを諦めるようなこと。そして、川井が退職を決意するようなこと。それは千羽に知られてはならない事柄であり、校長と教頭が外部に漏らしたくなかった事実でもあって、芝居はそれらを隠蔽するために行われた。ここには一つの嘘が多層的な構造をもって現れている。もしあの芝居が千羽に嘘をつくことを目的にしていたのなら、きみが先ほど早々にその嘘を認めてしまったのには違和感がある。志村は嘘のつき方が拙かったが、それでも千羽の前では嘘を貫いていた……クラスメイトには嘘をつく理由があり、きみや川井にも嘘をつく理由があった。各々の動機は一部重なるものの、一部は異なる。きみのしたあの手落ちのちぐはぐさを説明することのできる理由がここには隠されている」
松永先輩は閉じた目を再び開けると、虚空を見つめながら言った。
「その理由とは何か? あらゆる不可解が無矛盾に折れ合う真実を想像してみれば、自ずとそれは浮かび上がってくる……校長や教頭は、千羽に知られたくない事実があり、千羽以外のクラスメイトを招集した、しかも、折もあろうに千羽が転入してきたその直後に。そのために、クラスメイトは千羽に個人的に話しかけることができず、嘘をつかざるを得なかった。藤村はクラスメイトと同様に嘘をついたが、一つ違うのは、その嘘を誰かに信じ込ませる必要がなかったという点だ。もちろんここには、渡辺の存在と、彼女の不登校、そしてきみが彼女に嘘をつくことをあきらめざるを得なかった何らかの事情が深く関与している。校長や教頭がそこまで恐れる事情など推して知るべしだ。いずれにせよ、きみは、一度は看破された嘘を、懲りずに続ける間抜けな男を作り出せればそれでよかった……そして、きみたちは結果として、みな同じ嘘をついたのだ」
言い切ると、彼女は組んだ腕を解いて机の上に置き、心持ち背もたれに深く身を預けるように伸びをした。
「まだ続けるか? 私はかまわないが……」
それから彼女は頬杖をつくと、小さくあくびをした。
「なるほど、これがあの松永先輩か……」
藤村はそうつぶやいた。彼の声には疲労と諦念が滲んでいた。
「わかりました。本当のことを全部話します。もう、嘘はつきません」
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