1-19


 マイコン部の部室に戻ると、松永先輩は照明も点けずにパソコンの前の席に座って僕たちを待っていた。部屋の西側半分を占拠する音楽室の楽器たちやケース類は、薄暮の窓外から射す仄々しい光を受けて、怪しい影の一塊になっている。こうした景色を背にしながら、松永先輩の長い髪の黒さはなお黒く、白い肌はより際立って、この小さな領地内の物々を(僕たちでさえ)容易く支配下に置く貴さを放っていた。

 羽生田先輩が照明のスイッチを入れた。数回の明滅の後、部屋を包む白い光に、僕たちは思わず目を細めた。松永先輩だけは、まつ毛さえ微動もせずに、ただこちら側へじっと顔を向けていた。


「ご苦労」

 松永先輩の体裁だけの労いの言葉に、老川先輩はため息を漏らした。

「会話の内容は聞いていた。さあ、問題集を確認しようか」

 僕は松永先輩に言われるがまま、鞄から渡辺の問題集を取り出すと、それを松永先輩の座る向かいの机の上に置いた。それから、僕はそれを開こうとして差し出した指先を、ちょっとの罪悪感に躊躇って迷い迷いさせてから、表紙をやっと捲った。

「ちょっと気が引けますよね」

 そんな僕の様子を察してか、羽生田先輩がすこし微笑みながら言った。

「今更いい子ぶるなって。それこそいやしいじゃないか」

「確かにそうですね」

 僕は遠慮を捨てて、次々ページを繰っていく。模範的な回答が並ぶばかりで、それ以外は特になんてことはない。

 ある程度進んだあたりで、ようやく僕の手は止まった。渡辺のメールで触れられていた、例の〝「場合の数」の章の最後の問〟である。

 念のため、前後のページをもう一度確認してから、僕は言った。

「これですね」

「うーん」

 羽生田先輩がのぞき込んでくる。老川先輩は少し離れたところでそんな僕たちの様子を眺めているだけだ。

「正解していますね」

 僕は頷く。

「はい、頓珍漢な解答なんてどこにもありません」

「ちょっと貸してみろ」

 問題集を置いたあたりに、探るように延ばされた松永先輩の手がパタパタと這う。僕は問題集を取って彼女に渡してやる。すると、彼女はその開かれた紙の上の全体を、指の腹でやさしく撫で始めた。

「なるほど、筆圧も筆跡も違う字が一か所だけある。恐らく別人の手によるものだろう」

「誰かが書き換えたってことですか?」

「うむ、しかも、元の字の痕跡は消されているな。何か硬いもので後から擦っているようだ」

「そこまでして……」


 松永先輩の手から僕に問題集が返される。

「で、追加の問題って方はどうなんだ?」

 と、今まで眺めているだけだった老川先輩が聞いてきた。

「はい、見てみます」

 僕は最後のページを開くと、そこに未回答の問題があるのを見つけたので、そのままそれが見えるように机の上に置いた。

「数列の問題のようですね。確かに一年生の範囲ではありません」

 僕はなんとなしにそう呟く。

「ちょっと待って、この問題、さっきの場合の数の問題の発展ですよ。導出の過程で、任意の個数の要素を並び替えたときの、場合の数の一般解を求めるように誘導されています」

「つまり、あの大げさな確率の話も顔を出すわけですね。でも、これどうやって解くんだろう……」

 僕はすこし考えてみる。僕の隣で羽生田先輩も同じように問題文を読みながらフンフン唸っている。

「解けそうか?」

 しばらく考え込んでいた僕たちに、老川先輩が聞いてくる。

「もしかしてこれ、一年生の範囲どころか、高校の範囲も超えているんじゃないですか? 級数展開の知識がないと解けない、大学数学の最初に習うやつですよ。すぐには解けないかな」

 そう答える羽生田先輩に、どうして大学数学のことなんて知っているのか聞いてみたくもなったが、話がそれるのでやめておいた。


「とりあえず、問題集を通して新たに分かったことはこのくらいですかね」

 そう言いながら、僕は問題集を閉じ、松永先輩に視線を向けた。

「何か見えてきそうですか?」

「……重要な情報はほとんど揃いかけている」

「本当ですか!」

 僕は思わず前のめりになる。

「後は、川合の退職にまつわる話、とくに離任式が行われなかった理由がわかれば、真相はほぼ明らかになったといってよいだろう」

「うーん、でも、どうやって確かめますか? なかなか難しいですよ。それこそ、校長先生か教頭先生に直接聞くくらいしないと分からないんじゃないかな?」

 そう言いながら、羽生田先輩は顎に指をあてて考えるような仕草をとった。

「なら聞きに行くか? あいつらも部長がいれば話さざるを得ないだろ」

 老川先輩が意地悪そうに言う。

「そんな脅すようなこと……」

 羽生田先輩の顔に少しく陰りが差したのが分かった。

 そうだ、この件についてもちゃんと聞いておくべきかもしれない。

「そういえば松永先輩、昼休みに言っていましたよね? この学校の体質がどうのとか……もしかして、そのことと今回の件は、何か関係がありそうなんですか?」

「フン、関係があるかどうか、か。どうだろうな……なに、つまらない話だよ」

 そう吐き捨てると、松永先輩は細い足を机の下で組んでから、つづけた。

「……この学校はつい数年前に自殺者を出している。篠崎の次兄、マイコン部の元部長だ」

 意外な事実に僕は面を喰らってしまう。

「そんなことが……それに、篠崎って、まさか?」

「ああ、あのバカの兄貴だ」

 老川先輩が渋面を作って言った。

 一方で羽生田先輩は、どことなく俯きがちで、何かを思い悩んでいるようだった。彼女のそんな様子は気がかりではあったが、僕は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にすることにした。

「その……動機は、何だったんですか?」

「全くの謎だ。少なくとも僕たち生徒には一切知らされていない」

「それに、私たちにとっては入学する前の話ですからね……余計に何も分かりませんよ」

 なるほど、そういうことか。と、僕は合点した。

「つまり、それがこの学校の体質ということなんですね。その隠ぺい体質が」

「まあ、どこの学校も似たようなものだろうがな。しかし、この件については他所とは少し事情が違っている。自殺の件を隠ぺいしようとしたのは学校だけではない、篠崎の家もそれに加担したのさ。自殺者なんて出してしまえばお家の沽券にかかわるからな」

 松永先輩が付け加えるように言った。

「じゃあ、学校の公式見解でも自殺としては扱われなかったってことですか」

「そうだな。まあ、司法上は自殺ということにはなっているだろうが……ただ、そうした事情も含めて何も公に出ていないというのは事実だ」

「当時の責任者は?」

「校長も教頭も当時のままだ。事件からまだ二年しか経っていなからな。担任教諭は転勤になったようだが……」

「そうですか……」

 いろいろと込み入った事情があるようだ。


「この話はもうその辺にしておきましょうよ……」

 羽生田先輩がそう言ったので、僕もこれ以上詳しくは聞かないでおいた。先ほどからの様子を見るに、どういうわけか、彼女はこの話題を避けたがっているようだ。その思いを無みするのもかわいそうだし、確かにすすんで話すような話題でもない。それに、今回の件とも関係はなさそうだ……

「とにかく、離任式の件はどうやって調べるんだ?」

「あまり難しく考える必要はない。全ての事象は繋がっているんだ。我々は既に多くの手掛かりを持っている。糸口ならどこにでもあるさ。何もかも知らなければならない、なんてことはないのだよ」

「随分と簡単に言うな。それができたら初めから苦労なんてしないじゃないか」

「別に私は苦労などしていないが……?」

 松永先輩のそんな言葉に、老川先輩はなんとも言えない小腹が立ったような表情をした。


 と、そのときだった。

「静かに……!」

 松永先輩が緊張したような声を上げた。

 僕も思わず身体を強張らせてしまう。

「誰か来る……」

「何も聞こえませんよ?」

 羽生田先輩がささやくように言った。

「いいや、確かに聞こえる。足音だ……なんだか様子がおかしいぞ……」

 それから少しして、廊下から響いてくる足音のようなものが、ようやく僕の耳にも届き始めた。だが、僕にはその足音に特に不審な点は感じられなかった……

 足音が部室の扉の前あたりで止まった。扉の窓ガラスには防音用の段ボールが張られているため、向こう側の様子はうかがい知れない。僕たちは顔を見合わせた。

「……ああ、そうか。老川、開けてやれ」

 ふと、急に力が抜けたように松永先輩がそう言った。

「なんで俺が」

「もし相手が暴漢だったら大事だろう? だからきみに頼んだのさ。鈍いやつめ」

「おい、それ答えになってるのか」

 僕と羽生田先輩は思わず苦笑いをする。

 舌打ちを一つすると、老川先輩は扉に近づき、それを開けた。扉の向こうにいた人物は、少し驚いたように一歩後ずさったが、すぐに我に返ったように前に踏み出し、「失礼します」と一言告げてから、部室へと這入ってきた。

「藤村、どうして……」

 僕は思わず目を丸くして言った。

「例の子ですか?」

 羽生田先輩が僕に耳打ちするように問いかけてくる。僕はそっとうなずいた。

「なんだ、部活の見学にでも来たのか? ちょうど今そこの転入生に見学させていたところなんだが……」

 意地の悪い含み笑いをしながら、老川先輩は僕と目を合わせてきた。

 当然藤村はかぶりを振ると、言った。

「志村がお世話になったようですね」

 その表情は緊張しているようにも見えたし、憤っているようにも見えた。

 いずれにしても、彼自らからここに来るだなんて、ただ事ではなさそうだ。


「手間が省けたな……嘘で誤魔化される心配も、もうないだろう」

 松永先輩は足を組み直すと、不敵に笑った。

「さて、この暇つぶしも、そろそろ終わりにしようか」


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