1-18


「とりあえず外で話そう」

 不安げに発せられた志村さんからの問いを一旦聞き流すと、僕は逃げるように歩き出した。

 こんな形で、他の演劇部員たちに見守られながら志村さんを連れ出すというのは、僕としてもとても具合の悪いことだ。

 体育館の出口へ向かう四人の中で、自然に僕は先頭を歩いた。一足先に鉄扉まで来た僕が、それを開けてから振り返ってみると、三人は目方で五、六メートル遅れた地点をやっと着いてきているところだった。無自覚の内に気持ちが急いているみたいだ。もっと落ち着かなければ。


 体育館を出ると、僕は先頭を老川先輩に譲った。目的地は決めていなかったはずだが、迷いなく進む彼に僕は聞いた。

「何処に向かっているんですか?」

「別に、何処というわけでもないが、なるべく人目につかない方がいいか……」

 老川先輩がどことなく不穏なことを言うので、僕は志村さんのことが心配になる。彼女は羽生田先輩と二人並んで、僕の少し後方をを着いてきている。

「志村さんだよね。あんまり身構えなくてもいいですよ。下の名前はなんていうのかな?」

「……朱里です」

「朱里ちゃんかあ。かわいい名前ですね。演劇部では何を?」

 と、こんな感じで、志村さんを怯えさせないようにするためか、羽生田先輩が気を利かせて当たり障りの無い話を振ってくれている。

 そうこうしているうちに、自然と僕たちの足は校舎の裏口から校舎裏へと向かっていた。僕も一度来たことのある金網越しに住宅街の見える場所だ。ただ、老川先輩に倣うがままに上靴で出てきてしまっていたので、二重の意味で居心地が悪い。


 程よい位置まで来ると、僕たちは足を止めた。

「ハハハ、なんだかカツアゲみたいだな」

 老川先輩がそんな冗談を言っても、羽生田先輩がちょっと困った顔をしただけで誰も笑わない。

「あの、その……いったい何の用ですか?」

 志村さんは言うと、僕たち三人を警戒するように見比べた。

「用があるのはこいつだ」

「千羽っちが?」

「そうだ、千羽っちが、だ。僕たちはわけあって着いてきただけ。まあ、子守りみたいなもんだよ」

 なんだか気になる言い方だが、とにかく僕はうまい話の切り出し方を探る。

「その、大した話じゃないんだけどさ。ちょっと確認したいことがあるというか……まあ、なんで俺がそんなこと気にするのか変に思うかもしれないんだけど……」

「ったく、じれったいな。問題集について聞きたいことがあるんだよ」

 と、老川先輩が早々に割り込んでくる。

「問題集?」

「その……川井先生の問題集のことだよ。ほら、このあいだ俺が受け取って、そのあと志村さんに渡した……」

「恵人の問題集こと?」

 僕は頷く。

「その問題集って今どうしてる?」

「それなら、この間話した通りちゃんと恵人に返しておいたけど……」

 すると老川先輩がまた割り込んでくる。

「なあ、その渡辺ってやつのメアドってこれで合ってるか? ほら、千羽、見せてやれ」

 僕は松永先輩との通話が途切れないように注意して操作しつつ、携帯で渡辺恵人のメールアドレスを表示してそれを志村さんに見せた。

「はい、確かにこれは恵人のメアドです。でも、どうして千羽っちが……?」

 志村さんの言葉には不安が色濃く滲んでいた。それを聞いた老川先輩は、にやりと意味ありげな笑みを浮かべた。

「だそうだ」

 そう言うと、彼は僕の肩を叩いてつづきを促した。彼女の逃げ場を塞ぎつつ、強引に話を進めるつもりだろう。そんなやり方に僕は賛同しかねたが、今は仕方なく彼に追従することにする。

「メールが来たんだ、渡辺恵人から。問題集を返して欲しいって。まだ彼女の手許に無いということは……」

「え、え、でも……」

「まだ志村さんが持っているんだね?」

 すると、それまで不安と困惑が入り混じっていた彼女の顔から、次第に血の気が引いていくのが分かった。まるで仮面をかぶったかのように表情が強張っている。

「あなたには、関係ない……」

 その声音には、強いて無情を装う嘘臭さがあった。意識的に相手を拒絶するときの、金属質の冷たい響きだ。

 それでも僕は負けじと言葉を返した。

「本人に頼まれたんだ。問題集を返して欲しいって……だから、全くの無関係ってわけじゃない」

 志村さんは黙り込んでしまった。もう一押しする必要がありそうだ。

「それに、俺はこの訳の分からない状況に巻き込まれている。俺だって、入学初日から、様子がおかしいことに気が付いていなかったわけじゃない。渡辺恵人からのメールの件もそうだけど、このまま訳も分からず振り回されるのは嫌なんだ」

 僕は少し誇張して言った。それが効いたのかもしれない。渋い表情を浮かべながらも、志村さんはゆっくりと口を開いた。

「たしかに、私は嘘を吐いたよ。でも、しかたないでしょ……」

 言うと彼女は俯いてしまった。

「しかたない?」

 僕は思わず聞き返す。

「ねえ、千羽っちはどこまで知っているの?

私たちや、川井先生のこと……」

 と、志村さんも上目遣いで問い返してくる。

「俺は、先生の記憶喪失の話くらいしか……」

 すると、彼女の硬い表情は一瞬ほぐれて、安堵の色が顔をよぎった。

「うん、そうか、そうだよね……」


 そのときだった、老川先輩と羽生田先輩の携帯に同時にメール着信が入った。先に内容を確認した老川先輩が、僕にその文面を見せてきた。それは松永先輩からのメールだった。

『志村に、川井の記憶喪失の話を信じているのか、千羽の口から聞いてみろ』

 僕は顔をあげると羽生田先輩にも軽く目くばせをしてから、指示されたとおりに志村さんに質問した。

「志村さんは、川井先生の記憶喪失の話を信じているの?」

「どうしてそんなこと聞くの? あたりまえじゃん……」

 彼女の声音から、明らかに動揺している様子が伝わってきた。ひょっとして、彼女は記憶喪失のことが嘘だと知っているのだろか?

「志村さんは、誰から川井先生の記憶喪失の話を聞いたの?」

「健吾からだよ。部活中の事故の話と一緒にね……ねえ、千羽っちはもしかして疑っているの?」

 どう返答するのが正しいのか、少し考えてから僕は口を開く。

「こんな言い方はおかしいかもしれないけど、信じたいと思っているよ。でも、まだ難しい。みんな俺に何かを隠しているみたいだから……」

「私を呼び出したのはそれを聞くためってこと?」

 僕は頷いて見せる。

「そんなに、気になるの? でも、どうして?」

「それは……藤村と、友達になりたいからだよ。もちろん、志村さんとも。これじゃ、理由にならないかな?」

 志村さんの表情に、わずかに笑みが戻ってきた。ただ、それは自嘲的でもあり、諦めを感じさせるものでもあった。

「そうなんだ。だったら、しかたないね……」

 それから、彼女は訥々と語りだした。


「私が知っていることはあまり多くないけど、話せることは話すね。まず、恵人のことだけど……恵人ってさ、川井先生のことが好きだったんだ。まあ、これは恵人に限った話じゃないけどね。でも、多分恵人が川井先生のことを一番強く想ってたんだと思う。体操部だったし、それに……」

 志村さんは言い淀む。僕たちは急かすことはせずに、黙って次の言葉を待った。

「……恵人ね、告白したんだ、先生に。確か、事故の起こる一ト月くらい前だったかな。でね、多分先生はそれで困っちゃったんだろうね、先生、恵人のことを少し避けるようになったの。それでももちろん先生だからさ、無視してたってわけじゃないよ? でも、なんていうか、明らかにぎこちない感じになっちゃったっていうか……私は近くで見ていたから気付いたんだ。それから何日かして、恵人は学校に来なくなっちゃったの……」

「つまり、彼女の不登校はそれが原因ってこと? 先生の事故はその後すぐに?」

 僕が聞くと、志村さんは思い出そうとするように、ちょっと上を見ながら言った。

「うん、たしか、恵人が学校に来なくなってから二週間経ったくらいの頃かな。そしたらね、健吾がそのことを利用しようって言ったの」

「利用、ですか?」

 ここまで無言だった羽生田先輩が、思わずという感じで声を発した。

 志村さんは頷くと続けた。

「はい。恵人が不登校になったのは、きっとあの告白のせいで先生と気まずい関係になったことが原因だから、先生が記憶喪失になったのなら、そのこともうやむやにできるって、健吾はそう考えたみたいです。まだそのときは先生の退職の話も聞いていなかったし……」

「なるほど」

 老川先輩が唸るように声を漏らした。

「で、そのことは実際に渡辺恵人に伝えたんだね?」

「うん、初めに私がメールで伝えたよ。そのあと健吾も直接伝えに行ったみたい」

「不登校になった後も、藤村は彼女と会っていたの?」

「うん、そうだよ。でも、今は喧嘩してて会っていないみたいだけど」

「そうなんだ……」

 少しの間、僕たち三人は考え込むように沈黙した。

 と、僕は重要な話をまだ聞けていないことに気付いて口を開いた。

「じゃあ、どうして志村さんは問題集を彼女に返すことを躊躇しているんだ? 俺がそれを川井先生から受け取ったってことが伝われば、先生の記憶喪失の話はより信憑性が高まるじゃないか」

「そうだね。健吾もそう考えていたみたいだし……でも、なんだか嫌な予感がしたから……」

「嫌な予感?」

 志村さんは再び俯くと、言った。

「問題があったの。問題集に」

「……そりゃ、あるだろ」

 老川先輩がちょっと間抜けな声でつっこみをいれた。

「それって、もしかしてこの間の?」

「うん、この間の問題……」

「ああ、あの問題のことですね? 川べりで朱里ちゃんが行一くんに見せたって言う」

「ええと、はい、それのことです。でも、どうして先輩がそんなこと知っているんですか?」

「あー、ちょっと小耳に挟んだだけだよ。気にしないでね」

 言いながら、羽生田先輩は誤魔化すように舌をペロッと出して見せた。そんな言い訳をされたら、僕が酷くおしゃべりな男みたいになるじゃないか。

「はあ、そうですか……」

 案の定、志村さんは不審げに僕のことを見ている。

「で、どうしてその問題に嫌な予感を?」

 このままでは話が逸れるので、僕は気を取り直して再び志村さんに水を向けた。

「上手くは言えないんだけど……でも、私のには追加の問題なんてなかったから。他の子に聞いてもそうだった。これだけじゃ理由にならないってのは分かっているけど、でも……ごめんなさい、やっぱり上手く説明できそうにない」

「そうなんだ……」

 志村さんが何を考えて問題集を渡辺に返すことを躊躇ったのか、正直よくわからない。でも、とにかく今は松永先輩の指示通り、彼女から問題集を受け取らないといけないだろう。実際に問題集を見れば、彼女の逡巡の理由にも見当がつくかもしれない。

 しかし、持ち主本人にすら渡すことを渋っている彼女から、どうやって問題集を取り戻せばよいのだろうか。

 こんなことを僕が考えあぐねていると、早くしろとでも言いたげに、老川先輩がまたまた口を挟んできた。

「まあ、いずれにしても、その問題集は千羽に渡してもらおうか。すくなくとも、今それは志村の手にあるべきじゃないだろう? 持ち主からの頼みなんだからな、問題集を千羽の手で返すってのは」

「ちょっと翔琉くん。あなたはいつも言い方がガサツなんだから」

「いえ、いいんです。確かにこのまま私が持っていていいものじゃありませんから……鞄の中に入っているので、一度体育館にとりに戻ってもいいですか?」

「うん、お願いするよ」

 僕が言うと、先輩二人も一緒に頷いた。


 こんな具合に話がまとまり、その場から引き揚げようとしたときだった。再び二人の携帯にメール着信があった。

 今度は羽生田先輩が先にそれを確認すると、そのまま次のように志村さんに問いかけた。

「そういえば、渡辺さんの問題集ですが、いつだれが川井先生に提出したんですか?」

 確かにそれは気になる。もし問題集の提出日が、渡辺が登校拒否を始めた後の日付だったら、渡辺以外の誰かがそれを提出したことになる

「それなら健吾のはずですよ。本人が話してたのを覚えてますから。たしか事故の少し後のことだったと思うんですけど……そのころに恵人と先生の両方と顔を合わせてたのは健吾だけだったので」

「事故の後にも、藤村くんは先生と会っていたんですか?」

「はい、そうみたいです。あの、それが何か?」

「いえいえ、ちょっと気になっただけです。ありがとうございました」


 今度こそ僕たちはその場を引き上げた。

 復路は志村さんを先頭にして体育館へ向かった。

 体育館の鉄扉の前まで来ると、志村さんと一緒に中へ這入って行こうとする羽生田先輩を、僕と老川先輩は無理やり引き留めた。そんな僕たちの様子を楽し気に見遣ると、「少し待っていてください」と言って、志村さんはひとり問題集を取りに向かった。普段の彼女に戻りつつあるようで、僕は少し安心した。

「朱里ちゃん、かわいい子ですね。ちょっと悪いことしちゃったかな」

「はい、そうですね……」

「何だ千羽、おまえああいうのが好みか?」

「いやいや、俺が同意したのは〝悪いことしちゃった〟、の方ですよ……」

 この人に弱みを見せるわけにはいかない。僕は努めて平静を装う。

「そういえば千羽、おまえどうして川井の記憶喪失の話、きっぱりと嘘だって言ってやらなかったんだ? だって、あの様子じゃ志村もきっと……」

「はい、僕も悩んだんですが……でも、もしあそこで嘘を指摘していたら、多分志村さんはさっきのようには答えてくれなかったと思います」

「そうかぁ?」

「はい、多分……」

 そんな感じで僕たち二人が話し込んでいると、横で何かをうんうん唸っていた羽生田先輩が急に口を開いた。

「うーん、朱里ちゃん、今度うちの部に勧誘してみようかな。翔琉くんはどう思います?」

「無理だろ」


 しばらくすると、問題集を手にした志村さんが戻ってきた。彼女から差し出された問題集を、僕は無言で受け取った。

「ねえ、千羽っち、この間言っていたよね。問題解くの手伝ってくれるって」

「うん、確かにそう言ったね」

「追加されてた問題だけどさ、もし解けたら私にも教えてね」

「分かった……約束するよ」

 僕はそれを鞄に仕舞うと体育館棟を後にした。今日はまだやらなければならないことがある。


「ねえ!」

 声に振り返ると志村さんはまだそこにいた。

「今日私が話したこと、誰にも言わないでね」

 そんな言葉に、僕はちょっと驚いたが、黙って頷くと、マイコン部の部室へ向けて再び歩き出した。


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