第一章 Bogus(下)

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第一章 Bogus(下)


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 帰りのホームルームが終わると、さっそく志村さんが僕に近づいてきた。要件は明白だ。

 僕は頷くと先に言った。

「体育館に行けばいいんだよね? 何時ごろまでに着けばいい?」

「もう来ても大丈夫だよ。一緒に行こうと思ったんだけど」

「ごめん、その前にちょっと野暮用があって……それがすんだらすぐに体育館に行くからさ」

 それじゃ、と、僕は志村さんを残してすぐに下駄箱に向かった。


 着くと、既に老川先輩がそこにいた。羽生田先輩も間もなく来るだろうが、待ち合わせ場所としてここは不適当だったかもしれない。こんな有名人と二人並んで立っているところを、下校する多くの生徒に見られるのは具合が悪い。特にクラスメイトに見られるのは……

 と、こちらへ歩いてくる瀬戸と不意に目が合った。

 彼は気が付くと胡乱な目をしながら訊いてきた。

「あれ、二人揃ってどうしたんですか?」

「なんだ、瀬戸じゃねえか。本当にうちの生徒だったんだな」

 答えたのは老川先輩だった。

「いや、酷いっすよ、先輩。何度かすれ違ったことあるでしょ?」

「はあ? なら挨拶ぐらいしろよ」

 と、軽く肩にパンチをしようとする老川先輩の拳を瀬戸はよける。

「えっと、すんません……」

 言いながら彼は横目で僕を見てくる。説明を求めているのだろうが、僕自身何と答えてよいのかわからず、困った表情を作って見せることしかできない。何となくでいいので、察してくれればよいのだが……

 瀬戸は納得がいかないという感じで依然胡乱な表情をしていたが、そのとき丁度羽生田先輩も到着した。


「やあ! って、あれ、お友達ですか?」

「こいつがあの瀬戸だよ。僕の中学の後輩で、家も近所なんだ。な?」

 と、肩に置こうと差し出された老川先輩の手をまたも避けると、「自分、用事があるんで」と、雑な感じで笑って誤魔化しながら、瀬戸は去って行った。

「あれ、行っちゃいましたね」

「何か分かんねえけど、あいつ昔から僕のこと避けてるんだ。昔はよく遊んでやったのにさ」

「ああ、つまり彼も翔琉くんの被害者だったわけですか。かわいそうに!」

「人聞きの悪いことを言うな」

 いったい瀬戸は何をされたのだろうか。松永先輩と羽生田先輩のキャラの濃さの見せる錯覚のせいで幾分か個性が薄いように感じられてくるが、老川先輩も十分謎の多い人物だ。


「じゃあ行きましょう。さっき例の演劇部の女子と話したんですが、いつ来ても良いそうです」

 はあ、と老川先輩が大げさにため息を吐く。

「やっぱり気乗りしないなあ……」

「例の篠崎っていう先輩のことですか? いったいどんな人なんですか?」

「私たちと同じ二年生で、翔琉くんの天敵みたいな人ですよ。でも面白い人です。私は嫌いじゃないな。篠崎さん。ちょっと怖いけど、多分根は優しい人ですよ」

 羽生田先輩が答える。

「いや、とんでもない男だ。まあ、会えばわかるさ……」

 と、僕は不図あることを思い出す。

「そういえば、松永先輩も前にその人について何か言っていました。確か……篠崎の馬鹿末弟がどうのこうの、と……多分それって今話してる篠崎って人のとこですよね? 二人はどんな関係なんですか?」

「ああ、そういえば行一くん、部長の御家のこと、よく知らないんでしたね」

「まあ、いいところのお嬢さんっていうのはなんとなく想像できますが……」

「フン、大して面白い話でもないさ」

 と言うと、老川先輩は体育館の方へ歩き出した。僕たちもそれに続く。


「おい千羽、おまえがり勉っぽいから分かるだろ? 部長の家はお察しの通り、名のある家柄で、所謂元勲功華族ってやつだ。戦前に時めいた旧松永伯爵家の足末なんだよ。とはいっても、戦後の華族令廃止で落ちぶれて、詳しい成り行きは知らんが、部長だけ今は篠崎の別邸に居候しているらしい」

 ほお、まさかそこまで貴顕縉紳とした家柄の人だったとは……僕はちょっとの驚きとともに好奇心を催してしまう。

「へえ、そうだったんですか……でも、どうして篠崎先輩の家に?」

「篠崎家は松永家の奉公人分家なんだ。戦前の当主の爵位は男爵だ。豪商岩田八家って聞いたことないか? 岩田財閥のことだよ。戦前の松永は家柄に箔をつけるために閨閥にこだわったが、その一環で財閥との繋がりにも力を入れたんだ。勲功華族だからな。とにかく力を欲したのさ。ただ、さっきも言ったように松永は没落したから、財閥解体後もなんとか持ちこたえた篠崎との力関係は今や逆転しているみたいだが……しかし、落ちぶれたと言っても一般庶民との格差は歴然だよ。おまえも知っているだろ? 毎朝来る黒塗りのセダン、あれは部長の家が手配したものだ」

「なるほど。でも、わざわざハイヤーなんて外注しなくても、そんなにすごい家ならお抱えの運転手くらいいるんじゃないですか? 松永家にも篠崎家にも。確か、緑ナンバーでしたよね? あの車」

 ほお、と、老川先輩が感嘆の吐息を洩らす。

「よく気が付いたな。確かにその通りだ。まあ、それくらい微妙な関係なんだよ……」

「ちょっと翔琉くん。あんまり他人の家の事情をぺらぺら話すのはいただけませんよ?」

 と、今まで黙っていた羽生田先輩が、そこらへんで、と言った感じに注意してくる。

「なに? ウィキにも載ってる情報だろうが。庶民にとっての知る権利、ってやつだ」

「部長のプライベートのこともですか?」

「なんなら僕が記事に追記しておいてもいいくらいだ……」

「訴権の乱用です!」


 羽生田先輩の言う通り、これ以上松永先輩のプライベートな事情に立ち入りすぎるのも不埒なことだが、こうなるとしかしどうしても納得のいかない点が出てくる……僕は最後に一つだけ質問をするつもりで聞いてみる。

「でも、どうしてそんな二人がこんな庶民的な県立高校なんかに通っているんですか?」

「さあな、〝やんごとなき方の考えはワシにはわからん〟ってやつだ……」

 言いながら老川先輩が羽生田先輩に一瞬目くばせしたのを、僕は見逃さなかった。思えば二人がマイコン部の部員であることだって十分訝しい事態なのだ。しかもそこの部長が松永先輩とあっては……こちらもこちらで何か裏がありそうだが、僕が今気にするべき事柄はそれじゃない。



 下駄箱から体育館まではそれほど距離はない。こんなことを話しているうちに、僕たちは目的地に到着していた。

「おい、千羽」

 と、老川先輩が僕に携帯を見せてくる。

「いま部長にメールで合図をしたから、多分そろそろ電話がかかってくるはずだ」

 と、言った通り、僕の携帯電話が鳴った。

「もしもし」

『千羽か? 聞こえるか?』

「はい、聞こえます」

『二人もちゃんといるな? そのまま何か話させてみろ』

「分かりました……えっと、羽生田先輩、何か話してみてください」

「えっ、何ですか急に?」

『もういい、今のはテストだ。十分よく聞こえる。機種によっては外音を遮断してしまうものもあるからな』

「ああ、なるほど。じゃあ、このまま胸ポケットに入れて通話状態にしておきます。何かあったときは……」

『そのときは私から老川か羽生田の携帯に別途連絡する』

「分かりました……」

「えっと、いったい何だったんですか?」

 羽生田先輩はきょとんとしている。

「あ、もう大丈夫です、大したことじゃないので気にしないでください」

「それ一番気になるやつですよ!」

 しかし、わざわざ松永先輩から着信を入れてくるなんて、通話料金を気にしてくれているのだろうか? なんだか悪い気もするが、あれだけ家が太いのならここはノブレス・オブリージュってことで甘えてしまってもバチは当たらないか……


 僕たちは体育館の重たい鉄扉を開けると中に入った。恐らく演劇部の部員たちだろう、十余名の生徒たちが何かの準備を進めていた。彼らは入口と反対側にある舞台の付近におり、今しがた入ってきたばかりの僕たち三人には未だ気付かず、せっせと芝居道具の運搬なんかをしている。運動部系の生徒の姿は見えない。今日は彼らの貸し切りのようだ。志村さんがこの日を選んだのもうなずける。恐らくは彼らはこの日舞台の通し稽古か何かをするつもりなのだろう。


「すみませーん……」

 僕の頼りない声は体育館内の広い空間に虚しく吸い込まれていく。

「やあ! みんなー!」

 と、それを見かねたのか羽生田先輩が大声でそう叫ぶと、手を振りながら歩み出て行った。

 僕と老川先輩も彼女の後に続く。

 演劇部員たちの視線が一斉にこちらに注がれる。招かれざる闖入者に皆明らかに狼狽している様子だったが、幾人かの女子部員は目を輝かせて羽生田先輩に詰め寄ってきた。

「緋乃輪さん! 今日は見学者が来るって聞いていましたが、ついに入部を決めてくれたんですね!」

 そのうちの女子部員の一人がそう言った。

「ああ、ごめんねえ、今日演劇部に用事があるのは私じゃないんだ」

「どういうことですか? え、じゃあ、まさか……」

 と、ドブネズミを見るような目で女子部員たちが老川先輩へと視線を移す。

「なに見てんだよ……」

 老川先輩も眉を潜めて答える。

 はっきり言うと、老川先輩は清潔感という言葉からは対極の存在だ。女子が最も毛嫌いしそうな人種である。しわくちゃのシャツを雑に着崩した姿はルンペン風というには本格すぎるし(粋な着崩しと言うのでも全くない)、髪もクシャクシャで手も油で真っ黒。汚れの目立たないはずの黒い制服も、彼の場合はなんだかひどく穢れて見える。高圧洗浄機の通販番組なんかで丸洗いの見本にするのが相応しいくらいだ。

 舞台映えしそうな羽生田先輩の隣にこんなものが置いてあったら悪目立ちしてしかたがないだろう。ノートルダムのせむし男かなにかなら彼でも適役かもしれないが……


 そうこうしているあいだに、僕は志村さんの姿を探したがなかなか見つけられない。今日の目的は二つある。志村さん向けの目的と、僕向けの目的だ。問題集の件は重要だが、とは言え、志村さんとの約束を反故にするわけにもいかない。その日僕はしっかりと部活の見学もしつつ、折を見て志村さんを捕まえようと目論んでいた。

 と、その時だった。如何にも役者らしい格好をした大柄の男子生徒が舞台の袖幕から出てくると、どこか嘲弄の感じを帯びた薄笑いを浮かべながらこちらへ歩み寄ってきたのである。彼がこちらへ近づいてくるごとに、僕の頭一つ分は抜けているであろう背丈の放つ威もその度を増していくように思われた。

 彼は真黒なホンブルグ帽に同じく真黒なマントを羽織り、左手にはステッキという貴人然としたいで立ちなのだが……まさか普段からの装いではないはずだ、いったい何の役だろうか? 想像もつかないが、誇張して表現された英国紳士のようにも見えるし、マジシャンか、そうでなければ胡散臭い詐術師のようにも見える。

 彼は僕たちの目の前に立ち止まると、銀の持ち手のステッキを軽く振ってマントを翻して見せた。マントの緋の裏地が、晦冥の間隙から束の間ほの見える焔のように暗く閃いて、その幽かな燈火を反射するかのように暗く輝く手杖の柄のシルバーが、威嚇の眼光になって僕を牽制した。その柄には、ペスト医師のマスクを髣髴とさせる嘴の長い鷹の頭が意匠されており、猛禽の瞳には深緑の宝石のようなものが嵌められていた。

 それらの品々は見るからに上等で、学生が演技に用いる衣装や小道具には不相応に立派だった。実際に、他の演者の着こんでいる衣装や小道具と比してみても、それこそ木に竹を接ぐと言った具合で、水際立つと言えば聞こえも良いが、正直なところ彼だけ(あまり良くない意味で)浮いていた。

 彼は数歩の距離を隔てて僕たちと対面し、そこに堂々と直立しながら、マントの裏地が僅かに覗くようにステッキを斜めに突くと、一方の手で軽く帽子を上げて会釈をした。そのとき一瞬ちらと見えた彼のコームオーバーのラインが印象深く目に焼き付いた。


「見学者がくるとセリカから聞いていたが、まさかきみたちのことではあるまい? オイルくんにハニワくん……ふうむ、となると」

 言うと彼は、二人のやや後方に佇んでいた僕の顔を、ブリムの陰影から凝望する人のようにやや目を細めて見つめてきた。そのとき、これまで維持されていた嘲弄を示す口角の歪みが一瞬解け、代わりに妖しい双眸だけが残ったので、その何処か荘重ささえ感じさせる雰囲気に僕の身体は少しく強張った。

 この距離で見ると、彼の身体の逞しさは更に際立った。大柄なのは彼の体躯だけではない。彼の顔もまた、彼の図体に相応な面積を持っており、鼻や口も大きかった。しかし、彼は不思議と醜男な印象を与えなかった(寧ろその逆でさえある)。背丈や肩幅、手や足、鼻や口も大きいが、それらはただだらしなく大きいのではなく、彼の放つ異様な眼光の鋭さが、その身体の外界へせり出たある種放逸な存在感を一点で引き締めているために、恰もピラミッド型の黄金比のような人工美がその造形を妥当させていると言った観すらあった。端的に言えば、彼にはオーラがあった。彼の持つどこか只者ではないという感じは、決して彼のこの奇態ないで立ちだけがそう思わせたのではない。しかし、このオーラが、彼の生来のものか、或いは後天的に獲得された(それこそ人工的な)ものであるのかは、最早判断が付かなかった。


「ちょっと篠崎さん。そのハニワって呼び方やめてくださいよ。かわいくないじゃないですか……」

 なるほど、この人が篠崎先輩か……僕は色々なものが一度に腑に落ちる気がした。

 さしもの羽生田先輩と雖も、彼のオーラの前にはどこか委縮しているように見えた。

「オイルと言うのもやめろ、そもそも由来が謎だ」

 一方、老川先輩はおめず臆せずといった具合で、いつもの調子を崩さない。(由来はそこまで謎ではない)

 と、篠崎先輩はまたせせら笑うような表情に戻ると、言った。

「従者の名は本名で呼ばぬのが篠崎の慣わしなのだ。よもや私の与えた名が気に入らないなどとは申すまい?」

「だからそう申しているんでございますよ、お坊ちゃまくん」

 と、老川先輩が挑発的に言い返す。

「やはり松永は飼い犬のしつけがなっていないな。篠崎ならこうはならないのだが……」

「本当にそうか? だったら貴様のような男が生きているはずはないんだがなあ。それともそれは自虐風のギャグかな? 僕を笑わせたいにしても、その道化じみた衣装じゃ些か中途半端だぜ。いっそのことピエロの格好でもしてみたらどうだ? まるで風刺画みたいで気が利いているじゃないか。道化師の格好をした篠崎のバカ倅……教科書に載せたいくらいだ」

「ふん。相変わらずよく吠える駄犬だな。きみの口を縫い合わすことが叶うのなら、我が篠崎の事業の内でも最も生産的な実績として計上されることに違いない。そうなれば、きみもまたその悪舌の濫費が己の人生をいかにみすぼらしくしているか、その身をもって知ることになるだろう。つまりは誰も損をしなくなるのだ。誰も損をしなくなるというのはそれだけで恵み深いことだ。実に素晴らしい。しかし、法だけがそれを許さない。つまり、きみの口を縫い合わすという素晴らしい全的幸福の事業をこの国は許さないのだよ。それこそ真に風刺するべき愚かなる図式ではないかね?」

 言うと彼はステッキの柄を顔の前に持っていき、例の嘴の部分で一文字を描くように口許をなぞって見せた。

「だったら自分の口で試してみたらどうだ? それなら誰の許しもいらないだろう? 決算書にも忘れず書いておけよ」

「おお! 本当に、どうしてこんな男が生きているんだ!」

 と、篠崎先輩は叫ぶと両手を揚げながら身をひるがえした。同時にマントの裏地の緋が鮮やかに中を舞った。

 彼は横顔だけをこちらに向けると、更に言い募る。

「天下の法でさえ我らの眷属が統馭していたという昔日に思い馳せるたびに、私には君の忌々しさがより際立って見えるよ……しかし、こればかりはよくよく心得ておくことだ。今や松永に仕えるは篠崎に仕えると同義であると……私には余り楯突かぬようにするのが賢明だぞ」

 老川先輩は肩をすくめるとこう応酬した。

「何のことを言っているのか僕にはさっぱりだ。それに、成金男爵風情が今更貴族ぶるなよ? 常識知らずのお坊ちゃまに今年が西暦何年か教えてやろうか?」

 聞くと篠崎先輩は今のばかりは看過できぬと言った具合にステッキで床を強く突くと、それを軸にもう一度身をひるがえして再度僕たちと対面する格好を取った。今度は彼は仁王立ちで、手杖の柄に両手を添えている。そのためか、彼の威風堂々とした佇まいは弥増して見えた。


「口を慎め、平民。それに忘れたか? きみの妹君、カローラは既に我が掌中にあるということを」

 老川先輩の眉尻が少し戦慄くのが分かった。

「なら都合がいい。松永よりも犬の躾がうまいというなら、篠崎流に、あの雌犬も躾てやってくれ。あいつの噛み癖を矯正できたのならそれだけでも大したもんだ」

 聞くと、篠崎先輩は詰め寄って来て、老川先輩の目の前に立つと、ステッキの柄を彼の胸に押し当てながら言った。

「きみたちは兄妹そろって嘘を吐くのが下手だな」

 老川先輩はそれを片手で払いのけた。

「そういう貴様は貴族のふりが様になっているじゃないか。さすがは演劇部の似非部長だな。似非貴族に似非部長、その衣装だって、全部が偽物だ。貴様の正体はいったいどこにある? でかい図体のわりにまるで透明人間みたいだ」

 篠崎先輩は目を見開くと、ステッキを逆手に持ち両手を広げ、台詞を朗読するような調子で大仰に語りはじめた。

「消えろ消えろ、束の間の燈火……所詮人生など移ろう影の見せる一場の演劇に過ぎない。本物を入用としないのが舞台というものだ。ここでは王ですら喜んで奴隷の役を演じる。ここにはただ、正体の無い大きな燈火の作る影と、同じように正体の無い小さな燈火の作る影との交錯があるだけだ。今の私ときみのように、な。しかしその影、その蝋燭の燈火の正体は、決してその蝋や灯芯草にあるのではないのだよ? 火の本髄とは、物質の見せる幻影なのだ。しかし、物質は火の本髄たり得ない。舞台上の影もまた然り……一度火の潰えた蝋燭は自ずから再燃する術を持たないのだ。さながら今の松永のようにな……」

「それでも貴様は松永の血を欲するのか? 或いは、それだからこそ? 何れにしても執念の深さだけは貴族並みに一流だな」

「如何にも俗らしい邪推はよせ。あれには下賤の血が混じりすぎている。今更我々があのような血を欲することなどあり得ない」

 二人は睨み合う。

 僕たちだけではない、気が付くと他の演劇部員たちもその様子を固唾をのんで見守っていた。その中にはいつの間にか志村さんの姿もあった。どうしてこんな状況になっているのかと、困惑の表情を浮かべながら僕の方をちらちらと見てくる。


「ちょっと二人とも、そのへんで……」

 と、羽生田先輩がおずおずと二人の間に割って入った。

 それまで睨み合っていた二人は同時に目を逸らした。

「ああ、私としたことが……すまなかったな、ハニワくん。きみが我が部に来てくれるのなら大歓迎なのだが。ところで宇都宮さんのご様子はいかがかな?」

「ええと、まあ、この間会いましたが、いつもどおりでしたよ。元気そうでした……」

「そうか。マイコン部になどいるくらいなら、今すぐ彼のところに戻ってやることを私は勧めるが……まあ良い」

 と、今度は篠崎先輩は僕の方を見た。

「きみだろう? セリカ……志村くんが話していた見学者と言うのは?」

 いきなり話しかけられたので僕はつい身構えてしまう。

「はい、そうです」

「私は演劇部の部長をしている篠崎隆市しのさきたかしだ、ここでだけはバルサモと呼ぶことも許そう。きみのクラスと名前はなんだね?」

「一年Ⅰ組の千羽です」

「ああ、一年Ⅰ組と言えば、川井教諭の……で、千羽くん、下の名前は?」

「えっと、行一です。千羽行一」

 なるほど……と呟くと、彼はちょっと考えるように顎に手をやる。

「そうだな、ならきみはハチコウだ。いいね? ハチコウくん?」

 いや、良くない。

「なんですかそれは?」

「ここでの君の名だよ。いい名前じゃないか。ハチコウ。いかにも忠を重んずる者の名だ。気に入らないかね? きみに拒否権はないよ。嫌なら去ることだ」

 僕は思わず老川先輩と羽生田先輩の方を見た。

 老川先輩は目を逸らしたままだ。羽生田先輩は憐れむように微笑んでいる。


「自己紹介もほどほどに、さっそく本題に入ろうか」

 と、篠崎先輩が杖を鳴らすと言った。

「この通り、今日は通し稽古の予定でね。見学というのならちょうどいい。観客がいなければ我々も張り合いがないからな。演目は『カインの光学』。我が演劇部に代々伝わる伝統的戯曲だ。とくとご覧に入れよう」

 言うと彼は、カツカツと足音を立てながら舞台の側へ去って行こうとした。

「悪いがそんな暇はないんだ」

 と、老川先輩がだしぬけに言い放った。

「僕たちは志村と言う女子に話があってきた」

 僕は思わず顔を引きつらせる。突然名指された志村さんも動揺を隠せない様子なのが、遠目でも見て取れる。

 僕の当初の予定は狂ってしまったが、松永先輩が僕に二人を同伴させた真の思惑もなんだか分かってきたような気がする……


「なに?」

 と、篠崎先輩は立ち止まると訝し気な表情を作り振り向いた。が、すぐにあの嘲笑的な笑みを口許に宿すと、何かに合点がいったという風にため息を一つ吐いた。

「なるほど。そういうわけか。詳しい事情は分からないが……芽理亞めりあ嬢! どこかで聞いているのでしょう? 先ほどまでの非礼は詫びます。しかし、撤回はしませんよ。今や篠崎と松永の関係は……いや、ただ、まあ、いいでしょう……詫びのしるしと言うわけではないが」

 と、篠崎先輩は志村さんに頤指しながら言った。

「セリカ。芽理亞嬢からお呼びがかかった。もっとも、直接の相手はあの三人のようだが……行って話を聞いてやれ。詳しい事情について私は関知しないが、きみには何か心当たりがあるのであろう?」

「ええと……」

 志村さんは口ごもる。彼女の心中を推し量るに少々忍びない気もする。たぶん彼女は状況を飲み込めていないだろう。

「まあ良い、とにかく行っこい。練習には差し支えないように私の方でうまくやっておく」

「分かりました……」

 言われると、志村さんは依然困惑の表情を浮かべながら、僕たちの方へ歩み寄ってきた。

「少し強引じゃないですかね?」

 と、そんな彼女の様子を不憫に思ったのか、羽生田先輩がそう囁いた。

「演劇部の練習なんてぐだぐだ見ていられるかよ」

 まだ篠崎先輩とのやり取りで溜まった鬱憤が拭いきれていないのか、老川先輩はぶっきらぼうにそう言った。


 志村さんは僕たちの目の前まで来ると、不安げな表情を湛えながら問うてきた。

「ええと、なんの用でしょうか……?」

 言いながら彼女が横目で僕をちらと見てくる。こんなとき僕はいったいどんな顔をすればよいのだろうか?


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