メッセージ)
『クオリア』は倫理の構造によく似ている。
合理的に考えれば、自ら好んで不幸になる道を選ぶ人はいない。雨が降ることを知っていながら、傘を用意しないように。
『クオリア』の推奨する道を選んだ時、わたしはその状況に満足し、幸せになるはずだ。なにせわたしの人生における幸福の上限値も、有り得たかもしれない別の未来も『クオリア』しか知らない。どんなに酷い未来だったとしても、わたしは「これより酷い今にならなくてよかった」と思うだろう。それが「最適解」なのだから。
幸福も不幸も相対的なもの。きっと現状は他の選択を選んだ場合よりも幸せだ、と信じることで幸せになる。不幸の場合には逆のことが言える。不幸になると言われたから、不幸になるのだ。
『クオリア』は実際に優秀でとても論理的に見えるから、うっかり騙されてしまう。それは論理の問題ではないというのに。
それでも、『クオリア』の提案に従えば、とりあえずうまく行く。強いて、やり方を変える必要はない。
幸せになれる方法を選べるのなら、当然そうすべき。
……という「べきこと」は「である」ことではないのだ。そう一般に信じられていること。いつだって信仰の問題が付きまとう。
では、わたしは何を信じるべきだろう……こんなところにも「べき」が出てくる。こうなると、わたしが信じられるものを信じるしかない。
「我思う故に、我有り」という言葉はあまりに有名だが、実はこれには論理的な飛躍があるそうだ。正しくは「我思う故に、我有り、と思う」でなければならないのだとか。思うだけのことは、そう思うだけのこと。
けれど、それと同時に、わたしがそう思い、感じたという事実がある。それだけは、誰にも否定できない確かな真実だ。
だから、わたしは自分のしたいようにすることにした。
そんな結論に落ち着くなら、あんなに悩んだのはなんだったのかと思わないでもない。でも、今度はちゃんと考えて決めたこと。それがなにかしらの成長に繋がるのだと『クオリア』なら採点してくれるはずだ。社交的な能力も穏やかな人格も、衝動的な暴力に走ってしまった今となっては、だいぶ怪しい……。
翌朝、わたしとユイは駅で待ち合わせて学校に向かった。ユイと並んで歩く学校への道のりはいつもより短く感じた。
左手首のウェアラブルデバイスから警告音は聴こえない。音声を切っておいたから。今頃、液晶に浮かんでいるであろうメッセージは、どうせ教えてもらうまでもないこと。
二律背反の葛藤は悲劇的で、わたしたちは悲劇の主人公。そんな仮定が成り立つなら、もしかしたらその決断は人の心を動かすかもしれない。それはいつだって論理的でなくて、そして、わたしたちが必要としているのは論理以上のものだ。ただ、そう願うだけのこと。たとえ主人公が悲惨な結末を迎えるにしても。
なんて大仰な理由を挙げてみるほどではないけれど……たまには『クオリア』がわたしたちの提案を聞き入れるべきだと思う。
教室に辿り着き、その入口でどちらともなく立ち止まる。既に覚悟は決まっていたけれど、確認するようにお互いに視線を交わす。そして、わたしたちは手を繋いだ。
この経験と一緒に、この想いが伝わればいいのに。絡みのないクラスメイト、仲違いした元友達、過保護な親みたいに口うるさいユイとわたしの『クオリア』。そして、いつかの誰かへと。
クオリア 焦げ雑巾 @kogezoukin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます