姉妹の漁火

ぽたみおん

第1話

 砂が靴を包んで、そっと沈めてしまう。その不安定さに唇を軽く噛んだ。

 ゆっくりと砂の上を歩く。スカートの裾が風に煽られては脚を叩いてくる。口も開けないで鼻とおでこの内側だけで歌い始めた。

 

「ふーぅ……う〜……」

 

 調子が出てくると今度は瞼を閉じてしまう。途端に浜に打ちつける波の音が耳を鋭く貫き、心までも脅かしてきた。

 

「……っ」

 

 声のボリュームを上げて、波の音に負けないように歌う。今度は鼻ではなく口を開いて。すぅと透き通った音が、彼女の中から溢れるように早朝の海に広がって溶けていく。すっかり元気になった手足が勢いよく動くようになるが瞼は閉じたままで、ちょっと危ない。

 

「あっ」

 

 短い叫び声とともに彼女が倒れる。案の定、砂に足をとられたらしい。それを近くの堤防から見ていた人物が、やはりとばかりに、慌てた様子で駆け寄ってくる。

 

「あの、大丈夫ですか……紫陽しはるさん?」

 

 仰向けに倒れた彼女の視界に、丁度逆さまから少女の顔がぬっと入ってきた。

 

「…………あら?」 

 

 と惚けてみせる。内心、舌打ちして。倒れた拍子に舞い上がった砂が髪に塗れて、唇にまで付着した不快感など決して見せることはせずに。

 

「ふふ、どうかしたの、白帆しほ?」

 

 砂がついたまま、唇を三日月のように歪め、自分と同じ黒色の制服を纏うその少女の名を呼ぶときには、その声はやはり透き通っていて、さらに柔らかかった。

 そんないかにも余裕ぶったふりなどお見通しであるかのようにその少女の方は、

 

「どうかしたって? もう……お怪我の無いようでしたら早く立ち上がってください……紫陽さん」

 

 呆れたような顔をして彼女に片手を差し伸べた。紫陽がその手を掴んだとき思わず声が出そうなほど、手の力はやさしく、柔らかかった。彼女はそのまま砂に塗れた体を引き起こしてくれる。

 

「ありがとう白帆、頼りになります」

 

 素直な感謝の言葉。しかし続けて放たれたのは、

 

「けれどやっぱり、わたくしのことをお姉さまとは呼んでくれないのね……」

 

 という、わざとらしいため息混じりの嘆きだった。まだ繋がったままだった手が解かれる

 

「……し、紫陽さんは、やっぱり紫陽さんです、から」

 

 キュッと、自分の制服の上着の裾を握りしめると、白帆は俯いた。

 

「もう姉妹の契りを正式に交わしたんだから、恥ずかしがることなんてないのよ、白帆?」

 

「別に恥ずかしくないですけど、ただちょっと、ほんのちょっとだけ拗ねてるんです……不公平だから」

 

「不公平?」

 

「ええ」

 

 水平線へと目を逸らした白帆に眉間を少し寄せて一歩詰め寄った途端。

 

「あ」

 

 ちょっと勢いがついて蹴飛ばした足元の砂が白帆のお気に入りの靴にかかる。彼女は気づかない。

 

「ん?」

 

 こちらに振り向いた白帆の顎の先に人差し指を伸ばし、再び海へとそっと導く。ちょっと強引になってしまったことを軽く悔やんだ。

 

「……いえ、綺麗ね」

 

「はっはい……」

 

 紅く頬を染める白帆を他所に、平静を装い紫陽もまた遠く水平線を眺めることにした。

 薄暗かった空も陽が昇るにつれて白みを帯び、穏やかな波の上を鳥たちが渡っていく。砂浜には依然少女が二人いるのみだった。

 

「それで……何が不公平なのかしら白帆は」

 

 悩むように、ただ海を見ていた少女はしばらくすると思い切って、叫んだ。

 

「だって、だって私たち同学年だし! それに私は早生まれで紫陽さんより年上です!」

 

 勢いよく始まった必死の叫びは。しかし、隣でそれをむっつりと聞いていた紫陽の長い髪が徐々に怒気を帯び始め、そのヒステリックな形相が嫌でも横目に入ってくるようになると。

 

「し、姉妹になったのなら……そ、その、私が……姉になるのがほんとうじゃぁ……ないでしょうか……」

 

 あっけなく尻すぼみとなって、儚くも、美しい海上に散っていった。

 

「……うっ、うっ」

 

「ちょっと白帆、まさかあなた泣いてるんじゃないでしょうね?」

 

 海に向かってうずくまる白帆。彼女は両手で顔を覆うと恨めしそうに語りはじめた。

 

「だって、姉妹契約の儀の時には、紫陽さんのこと上級生だと思っていたのに」

 

 まさか同級とは。

 憧れの姉妹制度のあるお嬢様学校に苦労して入り、その夢の場所で、まさに自分の理想のお姉さまともいえるような令嬢である紫陽と出会ったこと、そして彼女が自分に好意を持ったことで柄にもなく舞い上がってしまった間抜けな自分を彼女は海に呪っているのだった。

 

「それに紫陽さんがこんな厳しい人だとは……」

 

「あなたも結構いい性格してるじゃないのかしら……あのねえ、元はあなたから姉妹契約を申し込んできたのでしょう。まだ覚えてるといいけど、私に姉になって欲しいってあなたが言ったのよ?」

 

「そ、それは……そうですけど」


 頼りなく細い肩と腰に手を回し、今度は紫陽が白帆を立ち上がらせる。

 

「まあいいわ、今日はもう帰りましょう白帆」

 

 白帆がしゃがんでいた時にスカートのプリーツについてしまった砂を叩き落とした。

 

「それとその靴もうちで洗いますから、ついてきなさい」

 

 そう言って踵を返すと紫陽は、一人悠然と去っていく。目元を拭った白帆が、靴と言われて下を覗いてあっと口を開いた。それから慌てて、紫陽の背中を追いかける。

 

 (ほんと頼もしさだけはある人……けど)

 

 白帆はその不安をそっと胸のうちに隠して走りだした。

 そうして朝の海には誰もいなくなった。

 

 

 *****

 


 闇の中で風が心地よく肌を撫でていく。海の向こうへと次々と流れていく雲たちの群れを、啜り泣く少女の肩を抱きながら、堤防に腰掛け呆然と見送っていたのは白帆だった。

 

「ああ悔しい……」

 

 その白帆に肩を預けて浜を涙で濡らしている少女とは紫陽である。暗い夜空の下、泣いて泣いて、まだ泣いて、どれだけ滴を溢してもその顔は夜の帳がそっと隠して決して見せない。

 

「その……残念でした、ね。私たち姉妹。認められないって。同学年だと、やっぱり」

 

 白帆は歯切れも悪く、言葉を紡いで。雲が流れていく先の、遠くの海をずっと眺めている。そこでは、無数の白い光が、花が咲くようにまばらに広がっていて、そのおかげで、闇に溶けていた海と空との繋ぎ目を、ぼんやり白帆の瞳の中に浮かび上がらせているのだった。

 

「ほら漁船の漁火いさりびですかね? ちょっと面白いですよ紫陽さん」

 

「あなた帰ってもいいのよ」

 

「いやですよ。私、海見るの好きですから」

 

「じゃ、お好きにしたら」

 

「ええそうするつもりです」

 

 二人はしばらく黙っていたが、やがて涙を流すのにも飽きたらしい紫陽がやにわに堤防の上に立ち上がった。同級生にしてはやはり背の高い彼女は暗がりの中でも、その存在感を一際感じさせた。と、

 

「わぷっ……きゃ」

 

「あら? ごめんなさ……」

 

 座っていた白帆の顔に白い布がパサと当たって驚かせる。紫陽が立ち上がったせいで彼女の着ているワンピースの裾が風に吹かれて大きく広がったのだった。

 顔に纏わりつく布の柔らかい感触が、突然のことで、より一層不気味に感じてしまう。実はかなり怖がりである白帆は、ちょっと自分でも後で恥ずかしくなるほどに狼狽えて、小さい悲鳴と共に堤防から飛び降りてしまった。その勢いのまま暗い砂の上を駆けてさらに逃げまわる。

 紫陽は呆気に取られていたが、やがて思い出したように手を口元に添えると少し声を張って。

 

「またお気に入りの靴が砂で汚れるわよ」

 

「いいですよ、もう」

 

 また洗ってもらいますから、とどこかやけになったような声が暗い砂浜から聞こえてきて、それが紫陽には小気味良く感じられた。

 穏やかな闇が統べる浜に少女の軽やかな笑い声が響いた。やがて不審に思った白帆が恐る恐る堤防の近くまで戻ってくると、紫陽のやさしい声が堤防の上から彼女にかけられる。

 

「ねえ、やっぱり私、白帆が好きみたいね」

 

「それで私を妹にできないでいて泣いていたのですよね?」

 

 ちょっとぶっきらぼうだったかなと白帆は言ってから心配になったが、返ってきた声はより軽やかだった。

 

「そう。いもうと、ね。けれど、そうするとあなたは今後は別の人の妹になるかもしれないわね」

 

 白帆は心の中だけで頷いた。

 

「それって。なんだかとても恐ろしいように私には思えるの」

 

 そう言われてくすぐったいのは体ではなく心だった。気を紛らすように白帆は前から考えていた仮定の話をここで持ち出す。

 

「最初に別の形であなたと一緒になっていたら……例えば私が紫陽さんとお友だちになっていたら、また違ったのかな」

 

 ちょっと間があいてから紫陽は返事をした。

 

「私たちって、そういった関係ではきっと上手くいかないのよ……きっと単純にお互いが満足できないから。我が儘に聞こえるかもしれないけれど、構わないのでしょう? だって、あなたの方が私を欲しているのだから」

 

 正しいことを言われてしまったと白帆は困った。彼女は考えて、それから仕方なく正直にそれを認めた。

 

「もし白帆が別の方と姉妹になりたいというなら私も今日であなたを諦めます。けれどそれなら私も……」

 

 別の人を妹に、という紫陽の言葉に白帆は思いがけずショックを受けていた。というよりはかえって腹を立てていることに自分で気づいて密かに驚いている。

 と、突然視界が真っ白になった。

 

「ふふ、ようやく白帆の顔が見えた、たしかに漁火も悪くないわね、食いつきが良くなったわ」

 

「携帯のライトじゃないですか」

 

「ふふ、あなたが遠く、そこばかり見てたのがあまりにも憎らしかったから」

 

「いいから消してください」

 

「こっちにきて、白帆」

 

 差し出されたやさしい餌に、まんまとのせられてやろう。白帆は伸びてきた手を掴んだ。

 瞬間、

 

「えい」

 

「えっ」

 

 引き上げられる、そう思った時には、彼女の白いワンピースが視界いっぱいに広がって、逆にこちらへと降ってきた。

 二人はもつれるように砂の上に転がって。髪も服も砂と共に互いに絡みあってぐちゃぐちゃに。あられもないとはこのことかと、どこか白帆はひと事のように身を任せている。

 月も出ていない暗い夜に、沖の船は未だ戻らず、ここには彼女たちしかいない。

 

「ねえ、驚いた?」

 

「ええ、とても」

  

 もうやらないでくださいね。とは言えないほど白帆と紫陽は接近しすぎていた。楽しそうな紫陽の瞳だけ輝いてよく見える。

 

「ねえ」

 

「はい?」

 

 鼻先が擦れ合う。

 

「ところであなた妹は欲しいの?」

 

「喉から手が出るほどには」

 

 四肢に紫陽の重さを感じる。覆い被さるように重なっているのだ。

 

「妹となにがしたい?」

 

 耳元に直に吹き込まれる息は危険だった。おでこの辺りが熱くなるのを感じながら、気がつけば白帆は口を動かしていた。

 

「卒業が近づく頃、私の妹に、妹をつくるように言うんです」

 

 妹はとても悲しんで、何度も涙を流しながら嫌だって。それでも、あるとき自分の前に、恥ずかしそうな顔で素敵な女の子と一緒に訪れる。二人で初めて一緒に作った焼き菓子と一緒に。 

 緊張している二人にお茶を淹れてあげる。最初は緊張していた二人は、次第ににこやかに微笑みあって、最後は互いに片手を繋ぎ合わせて帰っていく。

 窓辺から二人の背中をそっと見送った後、冷めた紅茶と妹たちの作ったお菓子を口にしながら、

 

「静かに涙を落として……」


 こんなこと誰にも言うつもりなかった。が、吐いてしまった。飲みすぎて酔っ払った情けなく愚かで、醜い大人のように。

 自分を笑いも蔑みもしないで、彼女は横向きに抱き合ったまま、やさしく背を叩いてくれた。涙が溢れているのをそっと拭われる。

 

「気の毒だけど、それは多分無理ね。私、あなた以外に妹はいらないもの」

 

「え?」

 

「だって姉一人に妹は一人だけしかできないでしょう? 姉の私が白帆の妹にもなれば、お互いにもう他に姉妹はできないもの」

 

「……残酷ですね紫陽さんは」

 

「ええ、とても。とても、とてもとても、愛しているのですもの……」

 

「困るなあ」

 

 とりあえず予定していた姉妹でやりたいことリストの半分ほどは白紙に戻ってしまった。

 

「けれど嬉しいでしょ、白帆」

 

 新しく作られたこの人とのやりたいことリストは、今のところ一つのみで、それは現在進行形で達成しつつあるように感じる。

 

「そりゃあ妹、と姉。どちらも念願でしたから」

 

「ほんとよく拗ねる子ねえ」

 

「紫陽さんは、そういうところがお好きなのでしょう?」

 

「流石、私のお姉様ね、とっても可愛いわ」

 

「妹に撫でられる姉なんて、さっそく面目丸潰れですよ……」

 

「ちょっと忘れないでね。あなたは私の妹でもあるんですから」

 

 そう言って悪びれずに微笑む紫陽に、白帆がどんな顔をしていたのかは、暗くて誰にも分からなかった。

 

「白帆、帰りましょう。近くに車を呼んであるから」

 

「今日は紫陽さんのお家に泊めてください。寮には外出届けを出してしまっているので」

 

「あら、強引」

 

「あなたの姉ですから」

 

「ふふ、それでよろしくてよ。さあ」

 

「待ってください、ほら……」

 

「ああ」

 

 二人が最後に海を見たとき、彼方の水平線上は、咲き乱れるような漁火の白い花に満ちていた。それは夜の海の、深い闇の中にただ力強く、歪なほど力強く輝いて、悠然と存在していた。

 

「あの漁火はちょっと強すぎるわね。そのせいでせっかくの夜空の星が隠れてしまって」

 

「ええ、でも私は好きです。紫陽さんみたいで」

 

「あら今ごろ気づいたの。あなただけの漁火なのよ私」

 

 ちょんと鼻先をつつかれた。

 

「釣りあげられたからには、絶対喰らいついて離しませんから紫陽さん」

 

「まあ」

 

 紫陽をぎゅっと掴んだ白帆の手はやはり驚くほどにやさしくて、柔らかくて、ただ怖いぐらいに力強かった。

 

「愉しみね」

 

 二人揃って足を踏み出す。依然として暗く不安定な道だが、構わなかった。

 二人でようやく歩み始める。遠くに煌々と咲き誇る白の花たちだけが彼女たちの背中を見送っていた。

 しばらくすると、夜の海にはまた誰もいなくなって、漁火も、やがて全て消えた。

 

 

 

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姉妹の漁火 ぽたみおん @potamion

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