本と学者と彼の事情 後編


 結局、ユーリはそのまま猫目イシカの『夢千夜』を手にして自室に戻った。シキが「面白かった」と言ったから選んだのか、たまたま息抜きに物語小説を読みたくなったからなのか、その判別は難しかった。


 深緑色の表紙に箔押しされた金の文字を指でなぞりながら、ユーリは興味深げに著者名を見つめる。


 ——猫目イシカ、か。


 物語小説をあまり読まないユーリでも名前を知っている、有名な作家だ。


 たしかもう、二百年も生きていると言われる猫目一族の作家だ。元々猫目一族は『グリ従者モール』の直系の末裔で、普通の人間とは違って長命な種族である。


 その長命を羨むかどうかは人次第だが、猫目一族の持つ特権的な暮らしぶりを羨む者は少なくない。


 グリモールの血族ということは、その昔『金の時代』に天界に住む神々にじかに仕えていたという栄誉がある。それはこの『銀の時代』になってもなお続き、初めから大地に暮らしていた人間とは一線を画している。


 ——とはいえ、今や数少ない種族だ。


 ユーリはその一族の行く末についての記述を思い出していた。大陸の都市で手に入れた、古代から現代までの猫目一族について調べた学術書にそれは書いてあった。


 純血を守る為に血族婚を繰り返した一族は、その歪んだ血統意識によって滅びに向かっている——。


 およそ三百年あった寿命は半分ほどに減り、高貴な一族の証である虎縞の紋様も無くなり、異界を見る猫の瞳も持たざる者が増え、人と変わらぬ猫目の者がその大半を占めると記されていた。人と変わらぬのであれば自然と猫目一族から追いやられて一族は衰退へ向かう。


 その中で、猫目イシカは百年に一度現れるかどうかという程に猫目のしるしを持って生まれたのである。故に彼は猫目一族の棟梁として目されているのだ。


 ——二百年もの間、一族の期待を背負い過ごしているなんて、さぞかし大変だろうな。


 自分も故郷の村の期待を背負って研究の旅に出ているので、その辺は少し同情的になるユーリである。


「とはいえ、イシカは小説家として成功を収めているわけで、僕なんかとは比べ物にはならないんだよなぁ」


 軽いため息と共に頁を開くと、千の物語が始まる。たちまちユーリは幻想の世界に引き込まれ、物語に酔いしれた。


 ——ああ、シキさんがこの本を気に入った理由が僕にはわかる。きっと……。


 きっと彼女はこの物語に流れる、淡い恋のせせらぎを感じ取ったのだ。


 一見、不思議に満ちた物語。怪しい夢のような話があったかと思えば、次には蒼海を渡る冒険譚が来る、かと思えば日常を綴った掌編が挟まり、読者を飽きさせない。そしてユーリが感じ取ったのはその全編に誰かへの密やかな想いが込められていたことである。


 届かぬ誰かへの想い——。


 決して本流にならぬひとすじのか細い恋の流れを、彼女は汲み取って口に運んだに違いない。


 彼女は恋をしている。


 自分ユーリではない相手に。


 恋をした者しかわからない甘くて苦い味。


 それがわかる自分もまた恋をしているのだ。


 ユーリは甘い痛みと共に本を閉じた。





 本と学者と彼の事情〜大陸から来た少年〜完

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