本と学者と彼の事情〜大陸から来た少年〜

青樹春夜(あおきはるや:旧halhal-

本と学者と彼の事情 前編


 ユーリがこの島に来る時に持って来た荷物の中はほとんどが書物である。


 日用品を入れた旅行鞄を一つと、防水紙で包んだ本を一抱えもある箱に入れた物を二つ、中央島へ向かう定期船に乗せてもらってやって来た。


 本当は三箱あったのだが、田舎の山村から広い平野を越えて海に出るまでに失われてしまった。


 路銀にするために手放したこともあったし、目を離したすきに盗まれたこともあった。結局、最後にはひと箱まるごと持ち去られてしまって、ユーリは酷く落ち込んだものだった。


 なにしろ簡単には手に入らない本が多かった。彼が持つのは、古くから村に伝わる神話の本や、各地の伝承と『金の時代』を繋ぐ論文だとかである。数多く出回るものではない上に、再販も少ない。


 なぜそんな貴重な物を持ち出したのかと言うと、村に保存されるそれらの本を欲しがったのは村ではユーリだけで、そのユーリは中央島アルカ・ディアの伝承を確かめたくて研究の為に村を出たからである。


 村の人々はそんな彼を応援して送り出してくれた。たとえ数少ない若者が二度と村に帰ってこないとしても、それを承知で送り出したのだった。


 つまり彼の持てる財産全てが鞄一つの日用品と本なのである。




「——しかし、この家の蔵書もなかなかのものですよ」


 シキの持つ丘の上の家はこじんまりとしているが、その居間に壁一面を埋め尽くす蔵書があり、初めてこの部屋を訪れたユーリを圧倒したものだった。


「褒めてくれるのは嬉しいけど、半分は小説よ。あなたの研究の役に立つかどうかわからないけど」


 シキのその言葉通り、書棚の半分は小説で埋められており、大半が猫目イシカの本である。


「母が集めたの。珍しい珍しいってよく言っていたわね」


 何が珍しいのかわからなかったが、シキの母は街へ出ては宝飾品の材料の他に本を求めることがよくあった。


「デザイン画も多いかな。仕事の参考にしていたから」


「なるほど」


「どうぞ、好きに使ってちょうだい」


 シキは「さあどうぞ」というように両手で書棚を指し示した。


 ユーリは目の高さにある一冊を手に取る。


 グリーンの表紙には金字で『夢千夜』と題名が箔押しされていた。著者は先ほど話題に出た猫目イシカである。


 ページをめくると、最初に『敬愛する春夜はるや殿に』と書いてあった。


「短編集ね。幻想的な話がたくさんあって、面白かったわ」


 ユーリの手元を覗き込みながら、シキが教えてくれる。彼女の亜麻色の髪がハラリとこぼれて、若い学者はどきりとする。


「あ、えーと、そう——これは想念そうねんインクで印刷されてる。知ってますか? この技術のおかげで、人々の視野が格段に開かれたんですよ」


 想念インク——。


 大陸に生育する多年草・コル草を大都市の発明家がインクに利用した物である。このインクを使えば、この世界のあらゆる言語の文字が、自分が知っている言語文字に置き換わるのだ。


 しかも極めて自然に置き換えられ、文章の内容を損なう事なく伝えられるとあって今やあらゆる印刷物に使用され、また筆記用のインクとして広まっていた。


 自分の想い描く文章を、文化の壁を超えて伝えられるとして名付けられたのがこの『想念インク』なのである。


「知ってるわ。この本も本当は猫目一族の文字で書かれているんでしょう? それでも、猫目文字を知らない私にも読めるんだから不思議な気持ちになるわ」


 シキは軽やかに笑うと、白いワンピースの裾を翻して居間を出ていった。




 つづく

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