菖蒲

浦出卓郎

菖蒲

 金泥を塗ったような色合いの衣笠菊が風で横に揺れてわらった。


 あつみは抓もうとして、しばらくたゆたった。


 花もられる間際には痛みを覚ゆると云える話を聞いておりしが、はたして本当なりや否や。


 真とすれば己の一抓みは土耳古とるこの刑場で首を刎ねる湾刀と同じ暴戻を伴ったのではないかとあつみは思った。


「それではあまりにもかわいそう」


 六月の若き陽炎は惨酷なりき。暑さはまだ夏のさかりほどにも到らねど、灼かるる頬の痛さ痒さこそ耐え難けれ。


 しかし、しかし、苧環おだまきの茎を結び合わせてがあらんどを作る菖蒲あやめはいとも嬉々たる面差しで鋏を振るっているのだった。


「菖蒲さん、なんて非道いことをなさるの!」


 思わず知らずのうちにあつみは叫んだ。


「わたくしたちは、花を抓みに来たのでしょう。何が悪くて?」


 怜悧な剃刀のような表情で菖蒲は答える。


「でも、もし抓まれるとき花が苦しく感じるならって思うと」


「ふふふ、あつみったら、そんなこと。気にしても仕方ないわ」


 翠玉のごとく見えたる眸を光らせ、婉然と笑む菖蒲は花の名前を与えられたるにも拘わらず、一片ひとひらも、一片たりともしんぱしいを持ち合わせておらぬがごとく見えたり。


 嗚呼、いと冷たき美姫なるかなとあつみは友禅の振袖のうちに秘めたる拳を固め、心の裡で思い詰めしが、その底知れなさこそかえって密かに菖蒲を慕う理由ともなりき。


「でも、でも、わたくしにはとても出来ませぬ」


「仕方ないわね。あたくしが全部抓んで差しあげてよ」


 かく云いて白魚のごとき指の先で衣笠菊を手折って掌に包み込み、握りつぶした。


 何枚かの花弁が指の間から溢れる。


「嗚呼」


 思わずあつみの喉から吐息が漏れた。


「なんて悲しいことをなさるの」


「悲しくなんかないわ。すべての生き物は死ぬもの。花だって同じよ」


 冷淡無情のその言葉よ! あつみは胸の内にこみ上がる熱情を感じながら、菖蒲の作りし苧環のがあらんどを天窓あたまに受けたり。


 菖蒲は行燈袴を品なくからげて、草花の上に跼蹐し、再び鋏をふるってあたりの薫衣草らべんだあや立葵を次々に虐殺していった。


 あつみは恐ろしさのあまり花冠を頂きながらそのを駈け歩いた。檜で作られた木造校舎の壁に添いてめぐり、玄関まで到る。


「菖蒲さん! 菖蒲さん! わたくし怖くって怖くって離れてしまったわ。ごめんなさい!」


 息急き切りておもい人の名を繰り返せしが、呼ぶ声に答うる色なし。


「何をしているの。あつみさん。昼休みはそろそろ終わり。授業ですよ」


 洋装の級長が顔を顰めて近付いてきた。


「すみません。でも、菖蒲さんが……嗚呼、とても、とても、わたくし口では云えませんわ!」


「菖蒲さんはそう云う方なのよ。さあ、早く呼んでちょうだい」


 級長は振り返って歩き去った。授業の鐘が鳴る。


 あつみは恐る恐る最前までいた場所ヘと引き返したり。


 ひっそり閑。


 菖蒲の姿はなかった。いずこへ行きたまいきやと、あつみは四囲あたりを見廻した。


「あつみ……あつみ……」


 絶息せんばかりなる声があつみのおりたる草叢の中ほどより上がりき。


「菖蒲さん」


 急いで掻き分けて手探りせしが、指に染む淋漓たる血潮にうち驚きて、あつみは腰を抜かしたり。


「あつみ……あたくしね……」


 菖蒲の長くしろき喉首からは青く蚊細き茎が生えたり。血は其処許より流れ来たりき。


 植物事典を読み込んでいたあつみはそれはまさに菖蒲と同じ名を持つ花を咲かせるものだと判っていた。


「菖蒲さん。大丈夫?」


 あつみは何度も何度も聞いた。


「やっぱりぜんぶあたくしが悪かったの……あんなに勢いよく引き毟ったり、鋏で剪るから、いまさっきお花の王様に裁きをくだされてしまったのよ」


 震える声で答うる菖蒲。


 あつみは真っ白いはんかちいふにて菖蒲の喉を拭いた。血は思いのほか多かったが、三十分あまりも経つと乾いて流れなくなった。


「もう授業は遅刻ね」


 菖蒲は云った。


「そんな授業なんて。今日は家へ帰りましょう」


 菖蒲を担いであつみは学校のうちに入りたり。


 驚き呆れた先生たちが周りに駈け寄ってきた。他の生徒たちまでそれに陸続と連なりて姿を顕わにす。


「菖蒲さん、あつみさん、どうしたんですか」


「先生、菖蒲さんの様子が変なんです」


 あつみは答えたり。


「お医者さまを、お医者さまを」


 とりあえず保健室へ連れていかれることになりにけり。


 白き敷布の掛けられたる寝台に横たわる菖蒲が喉元を、改めて仔細に眺むれば、茎は更に太くなりて、根元が桜の花弁の如き色合いへ変じていることが相分かりき。


「お体は大丈夫なの?」


 あつみが問えば、


「わからない。でも喉が引き裂かれるように痛いの」


 と菖蒲は返す。


 お医者先生が黒き診療鞄を腋に挟みて部屋の中へと入りにけり。


 あつみは心配に思いながら一度教室へ戻りて、授業を受けしも心はここにあらず。


 菖蒲さん、菖蒲さん。


 と想いは募るばかり。鉛筆を握る手も自然と疎かになりしかな。


 放課後に保健室に戻るとすでに先生は帰られていて、ただ菖蒲が顔蒼褪めたまま横たわり続けていた。


 嗚呼、あれほど元気だった菖蒲さんが何たる変わり様なりや。その手を見ると若干痩せたと感ぜられ、中指の骨がひときわ突き出して見えたり。


「どうしてそんなことになったの?」


 改めて聞いてみるに、


「わからないの。花を剪り続けていたら、とつぜん耳元でお花の王様に囁き掛けられて、首が痛くなって天罰を受けたの」


 と曖昧なる返事。


 あつみは言葉に詰まりたり。花の如き菖蒲の君が、まさにその名と同じ花の種を首元に差し入れられる時の痛みを、己がもののように感じて斉しき部位が疼きつ。


「辛かったでしょう」


 あつみは続けた。


「当然の罰よ。嗚呼、手が顫えるし熱もある。あたくしわかるの。この花きっとわらうわ。あたくしの命をい尽くすでしょうね。お医者でもね、お手上げだって。手術で切開することも出来ないらしいわ。菖蒲はね、頸動脈に深く根を張っていてね、若し剥がそうものなら血が抜けちゃうんだって。すぐに処置しても無駄なそうよ。あたくしは死ぬの」


「そんな」


 あつみは叫んでいた。


 大事な、大事な菖蒲さん。


 あなたがまさか早晩にこの世から消えてしまうなんて。


 信じられない。


 思わぬうちに菖蒲の手を握りしめたり。未だかつてあつみはそのようなはしたなきことをしたためしなく、己の惑乱ぶりがしみじみと感ぜらるる。


「もし、菖蒲さんが逝くのなら、わたくしはきっと最期まで傍に寄り添って、短刀で咽を突いてでも死ぬでしょう」


 あつみは云った。


「駄目、駄目。あなたは未だ未だ先がある生命いのちだもの。非道いことばかりしてお花の神さまの怨みを買ったあたくしとは違うわ。死んではいけません。あたくしはここで死ぬだけという話よ。すべての生き物は死ぬもの」


 菖蒲は繰り返したりけり。


 あつみは菖蒲が寝入るまで傍に立ち掛け、手を握り続けた。


 目が覚めた菖蒲は軈て担架にて家まで戻されたりき。


 夕暮れ迫るなか校舎を背にして歩くあつみの心は重し。褄の先に砂が着くも気にならぬ体なりき。菖蒲と出会いしよりこのかたを繰り返し思い泛かべながら、今日のこの日に到りしことを悲しみつ。


「菖蒲さん、菖蒲さん、なぜあのようなことになってしまわれたのかしら。わたくしがずっと傍にいてあげたら違ったかも知れない。一時でも離れてしまったのが悪かったのだわ。すべてわたくしのせいよ」


 己を責むるも、已に起こりしことを今更変えるわけにもいくまじ。


 家に帰り夜を迎えてもまんじりとも出来ず、文机に向かいて、蝋燭が脚付盆に滴り落つるのをみまもりながら、あつみは物思いに耽りぬ。


 嗚呼、嗚呼、菖蒲さんの美しい横顔。そのどこまでも人を寄せ付けない、冷たい性格。わたくしはいつもそれを真っ正面から見ることが難しかった。


 それが、いきなり向こうから声を掛けてくれたのだ。


 自分のような呉服商の末娘の味噌っかすが級一の美人と誼を結ぶことができるなぞ考えてもみなかったことで、大いなる幸いだった。


 得がたき時間を過ごせると思っていたのに。


 それなのに、なぜ、なぜ。


 あつみは千々に乱れるる思いを押さうることが出来ず、ひしと文机の角を握り締めたり。


 丸窓障子の奥の庭で、石燈籠の影が寂として揺蕩した。


 朝が来たる後、再び学校に向かうと廊下ですれ違った級長が、


「あつみさん、目の下に隈ができているじゃない。ちゃんと寝たの?」


 と心配そうに訊いてくる。


 あつみはそれから眼を背けいたりき。


「菖蒲さんのこと、わたしもほんとに悲しいわ」


 級長は気の毒そうに口にした。


「黙っていて! 何も菖蒲さんのことなんてわからないくせに」


 あつみはなぜか腹が立って、軽く叫んでいた。内気な己がかくばかりに大音声を発せたちょう事実に羞じ入る思いとなりつ。


 級長は驚き呆れてあつみをみつめたまま、言葉を失っている。


「わたくしにとって、菖蒲さんはかけがえのない人なんです。あなたが識った口を利かないでください」


 あつみは少し語気を和らげ、級長へと云いにけり。


 されど、たちまち級長は顔を悲しげに変じて、


「あつみさん……わたしがどんなにあなたのことを好きか……気付いてくださらないのね」


 と告げたり。


 あつみは思わず級長を見しが、三つ編み髪を分けた額の下で泪を滂沱と湛えた両の眸とぶつかりぬ。


「級長……」


 今まで全く気付いてもいなかった。日頃よりお節介な級長だとばかり思っていた。


「何を考えてるか知らないけど、もしあなたが死んでしまうようなことがあれば、わたし……きっと」


 でも、まさかこんなにまで熱い想いを胸に秘めていたなんて。


 ことの大きさに気付き、足の下の地面がゆり動かさるるがごとき心地して教室に入り、己が席へ坐りたり。


 すみません。級長。わたくしは一人のお方しか愛せないのです。菖蒲さんです。二人は宿世の縁により定められた比翼連理の一対なのです。少なくともわたくしのなかではそうなのです。


 窓外の風に揺れたる紫陽花の嫩葉が飛んでいくのを見て、自分の身体もああいう風に空高くへ舞い上がれれば佳いのにと思っていた。


 級長は悲しげな面持ちを作りながら一人のおとに向かいけり。


 まさか、こんな葛藤が身近にあったなんて。


 菖蒲さん、級長。


 菖蒲さんが死んで、わたくしが死ねば級長も死んでしまうかも知れない。学校で一番優等生と云われるあの級長が、まさかそんな。


 それは大きな損失だわ。


 生きなくてはならない気がしてきた。ならば、菖蒲さんも生きなくてはならないのか。


 それは叶わざることなりき。


 授業が終わるとすぐ、勢いよくあつみは立ち上がりたり。


「級長、一緒に菖蒲さんの家に参りましょう」


「え」


 級長は吃驚してあつみを見た。


「あなたの仰る通りわたくし、菖蒲さんに殉じて自分も死ぬって決めていたんです。でも、級長の想いを訊いて考えが変わりました。もし死ぬことが無理ならば、最期まで菖蒲さんの傍にいようって。だとすれば、級長、あなたも一緒にいなければなりません。菖蒲さんを慕うわたくし、そのわたくしを畏れ多くも慕ってくださる級長。二人が死にゆく菖蒲さんの傍にいなければならないと思うのです」


 深い感銘を受けたように級長は押し黙っていたが軈て、


「わかりました。伴に行きましょう」


 と告げたり。


 二人は菖蒲の家へ到りて、枝折戸を前に佇みぬ。


 板葺屋根の軒端を目にしながら、なおしばしあつみはたゆたえり。


「あつみさん、入らないの」


 級長は已に意を決したように見えた。


「はい。もちろん」


 三和土を越えて、薄暗い土間に入ると丸髷を結った菖蒲の母親が出迎えた。二人は会うのは初めてだった。


「どちらさまでしょうか?」


 その顔は窶れ、翠にも見える不思議な色合い――娘に受け継がれた色合いの眸が入った眼窩は深く窪んでいる。たった一人の娘があのような病気になって、懊悩の淵にあることが明らかだった。


「菖蒲さんの……友達です」


 あつみは話した。


「ありがたいことです。今まで誰もうちに寄りつこうとしませんでしたので。菖蒲は暗く冷たい子供でしたから、友達も少なく……」


「そんなことありません。わたくしにとってかけがえのない方ですわ」


 あつみは思わず喋っていた。級長の己を淋しげに瞻る眸を感じながら。


 母親に案内され、二人は寝間へ入った。


 白き浴衣を身に纏いて、蒲団の上に寝そべりし菖蒲。


 あつみと級長は音もなく端座したり。


「来たのね……あつみ。それに級長まで」


 その咽からは丈高い菖蒲がすっくと伸びて山吹色の点が混じる紫色のはなびらを鮮やかなまでに咲かせておりけり。


 悉皆すべて養分を啜い尽くされし菖蒲は、髪の色に白が混じり、頬が痩け、手の皮は薄くなりて荊がごとき静脈の筋が幾条も走りたるさまは見るも哀れなりき。


「こんな花! 今すぐにでも抜いてしまいたい」


 いつもは見せぬ激情を籠めて級長は菖蒲の花を睨み付けしも、それと同じ名を持ちたる麗人は優しくんで、


「いいの。いいの。そのままにして置いてちょうだい」


 と静かに云いぬ。


「でも……」


「あたくしはね、ずっとお嫁に行くのが厭だったの。学校を卒業したらすぐに。もう決められた約束があってね。でも、今こうやって死ねるなら、苦しむ必要はなくなったし、心は本当に晴れやかで晴れやかで」


 菖蒲は力なく笑いたり。


「悲しいことを云わないでください」


 あつみは己の頬を熱く伝うるものを覚えしも拭う暇もなかりけり。


「悲しくなんかないわ。もう辛い気持ちなんてこれっぽっちも感じていないのよ」


 菖蒲は後は黙った。


 あつみは菖蒲の花を瞶める。片時目を瞑りても、その紫色だけが残像となりて瞼の裏に張り付きたり。


 菖蒲さんの命を啜っているんだもの、当然よ。


 あつみは憑かれたるごとく、葩から目を離すこと難し。


 軈て己でも知らざるうちにいざり寄り、菖蒲の蕊に接吻していた。


 上唇に横皺が数多寄った。唾液の滴りすら懼れず、深く深く葩の奥底まで舌先を差し入れる。蜜のような甘い匂いが鼻腔を擽り嚔をしてしまいそうになるも、あつみは抑えた。


 唾液は溢れに溢れ葩を伝い降り、菖蒲の顔にまで滴りぬ。


「あつみさん! あつみさん!」


 級長が狂を発したように何度も何度も呼びかけしも、あつみは己の舌を動かすことにのみ心を奪われていたりき。


「もう……どうでもいい」


 級長はすっくと立ち上がり、音もなくあつみの傍に近付くと同じように舌を菖蒲の蕊へ入れた。


 顔が近付き、一面に花粉を帯びながら級長の舌はあつみの舌と絡まりたり。


 もはや言葉は奪われていた。甘さが二つの舌の間を拡がって埋めていた。


 いい匂い……ほんとうにいい匂いがするわ。あつみさん……級長。


 こんなに一緒にいられると思った瞬間なんて、今までなかったわ。


 ずっとこうしていたい。今まで思いも寄らなかったほど近くにいるのだもの。


 でも、それは不可能なのね。


 濡れ縁側より夏の爽やかな風が漂い流れぬ。


 時間の止まりしこと幾たびぞ冀いながら、それは叶わじと誰よりもなおよりいっそうあつみは心のうちにて深く識りたり。


 顔を花に埋められたように深くまで入れた級長は目を細めてあつみと同じく唇の先を窄め蕊を啜い、時折口をわずかに開けて涎の垂るるがまま、熱い呼気を吐き続けている。


 菖蒲は息も忘れたごとく、蒼白な顔となりにけり。


 あつみはう言葉を交わすことすら必要としなくなっていた。生きる死ぬなどといったようなこともすべて。


 そして、突然舌の歓交から身を引き剥がし、腰を屈めて死に水を取らせるかように菖蒲の冷たくなりまさる唇を唾液で湿らせた。 

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菖蒲 浦出卓郎 @t_urade1987

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