琥珀の中の、何かみたいに。

月庭一花

Kaip kažkas gintare.

 わたしね、これでも一度だけ……人を好きになったことがあるんです。まだ、緩慢だったけれど、体が動いていた頃。今はもう、レスピレーターの力がなければ呼吸をすることも儘ならない、介護者に体位変換してもらわなければすぐに褥瘡が出来てしまうこの体ですけど、昔は……動けていたんです。そのときはまだ喋れもしました。ええ、会話ができたんです。自分の声で。その人、歌が上手だって、褒めてくれました。まあ、そんなはずはないんですけどね。当時から既に呂律は回っていなかったし。でも、お世辞だとも思わなかった。なんて言ったらいいんでしょう、……裏表のない人だったから……ただ、優しかっただけなのかな。

 わたしはこの白殭šilkaverpių ligaという奇妙な病気のせいで、指一本、動かすこともできなくなりました。それでも見ることはできます。音も聞こえています。肌に触れられるとその感覚もわかるんです。痛いとか、温かいとか、冷たいとか。でも、それを表現する言葉は発することができません。表情を変えることも。だからお医者さんも看護師さんも、わたしが何も感じていないと思っています。でも、違うんですよ? ちゃんと感じているんです。それを表現できないだけで。下の世話をしてもらうときは女性のスタッフだったとしても、今でも恥ずかしくて、顔が真っ赤になる……実際には何の変化がないように見えても……し、お風呂介助で男の人に裸を見られたりすると、舌を噛んで今すぐ死んでしまえないかな、と思うくらいなんです。優しい手つきだな、とか、ぞんざいで荒々しいな、とか。本当は全部わかっているんです。

 それにしても、異性に……同性にもですけど、裸を見られるのは、本当に恥ずかしい。そういえばあの人にも、何度か裸を見られました。そのときだって顔から火が出るくらい恥ずかしかったんです。あの人は……わたしと同じ、女性で、看護師さんでした。名前はKさんといいます。綺麗な人でしたよ。思わず見とれてしまうくらい。長いサラサラとした髪をいつもはキュッと後ろにまとめていて、目は切れ長で。背も高くて。ええと、わたしも直接見たことはないですけど、あれです、宝塚の男役みたい、って言えば、伝わるでしょうか。……この病棟にそんな看護師がいるかって? 違います。わたし、そのとき……この病気でどんどん体が動かなくなって行く途中だったから、いっそのこと死んでしまおうかと思って、自宅のお風呂場で手首を切ったんです。ご覧の通り……死に切れませんでしたけど。それで救急搬送先の市立病院から、自殺企図あり、ということで後日転院させされた精神科の病院で、わたしはKさんに出会いました。でも、精神科の病院って、聞いていたよりは怖い場所じゃなかった。どの窓にも鉄格子がはまっていて、薄暗くて、不思議な匂いがして……それでも想像していた場所の方が何倍も怖かった。まあ、時々奇声をあげている人がいたりして、思わずびくってなったりもしましたけど。

 そういえば、切っ掛け……切っ掛けになった出来事って、いったいなんだったのでしょう。どうしてKさんを好きになったのか、実はよく覚えていないんです。何度か担当になってもらっているうちに、いつの間にか好きになっていた……というのが正しいかもしれません。恋って、劇的な何かがないと訪れない、といったものではないかもしれない。それを継続するのが大変なだけで。ただ、どうして他の看護師さんではなくてKさんだったのか……。それを考えると夜も眠れなくなりそうです。

 あ、今日もひじりさんが来てくれました。病室の入り口から、わたしに向かって手を振ってくれています。わたしも手を振り返せればいいんですけど、ごめなさい。何度か瞬きするのが、精一杯なんです。それすら困難な日の方が多くて……。そうそう、聖さんを紹介しなきゃ。聖さんは母の従姉妹で、母と同い年なんですって。多忙な母に代わって、時々わたしのところに来てくれます。母は若い頃からAKARIという名前でモデルをしていたから、知っている人もいるかもしれませんね。時々はテレビにも出ていたのを覚えていますけど、母も今では……元々あった目の病気がすっかり悪くなってしまったものですから、わたしのところにもほとんど顔を出さなくなりました。ただ、芸能の仕事は失明してからも続けていて、いつも忙しくしているらしいです。だから、というわけではないですけど、もう、来ることができないのは仕方がないことなのだと、すっかり諦めの気持ちになってしまいました。あ、今は母ではなく、聖さんのことでしたね。聖さんはわたしのところに来るとき、必ずアイスクリームを差し入れてくださるんです。フローズン・バニラヨーグルトと、ポッピング・ペパーミント。いつもその二つ。わたしが以前好きだと言ったのを覚えていて。……今でもこの二つは大好きです。ドライアイスで冷やされているカップのアイスクリームを、少しずつ口に運んでもらえるこの瞬間が、わたしには何よりの癒しなんです。レスピレーターを装着するため気道の切開もしているから。ほとんどは喉を通らなくて、唇の端からこぼれ落ちてしまうとしても。テッシュで拭われる量の方が多いのだとしても。わたしの舌はあのときからずっと、火傷したようになっていて、だから定期的に、こうして冷やさないとダメなんです。聖さんは慎重な手つきでスプーンを口に運んでくださいます。聖さんは児童デイサービスのお仕事をしているので、なんというか……こういう介助みたいなことは慣れているのかもしれません。でも、いつも決まって真剣な顔をしているので、わたしもつい、動かない舌に意識を集中させてしまうんです。

 フローズン・バニラヨーグルトと、ポッピング・ペパーミント。この二つは、Kさんとの思い出の味です。精神科の病棟での生活は、とても味気ないものでした。閉鎖病棟でしたので、自由に外出できるわけもなく。それにわたしは体が既に不自由でしたので、ほとんどベッドとトイレのあいだを行ったり来たりしているだけでした。そんなある日、事件が起こったんです。若い女性の患者さんが、口紅を無くしたと騒いでいました。まだ一度も使ってないのにって。そんなもの、閉鎖病棟には当然持ち込み禁止でしたので、看護師さんたちは誰もきちんと取り合ってくれません。逆にどうやって持ち込んだのか問い詰められていましたっけ。わたしはその女性患者を、馬鹿な人、と思いながら、そういえば口紅なんて一度もつけたことがないな、と気づいたんです。そのときは自分が誰かと恋愛するなんて想像もつきませんでしたし、体が動かなくなる病気でしたから……誰かが好きになってくれるとも思っていなかった。Kさんのことは好きだと思いましたけど、でも、そのあとのことが全然想像つきませんでした。恋愛的な意味で好きなのかもわかりません。だから、この想いが届かなくていいって、そう思っていたくらいで。間が悪い、というかなんというか……わたし、その無くした口紅を拾ってしまったんです。洗面台の端っこのところに、落ちていました。すぐに届ければよかったんですけど、なんとなく返しそびれてしまって……。盗む気持ちなんてこれっぽっちもなかったんです。でも、結果的にそうなっちゃいました。病室でひとり、口紅のキャップを取って、真っ赤な、下品な色、と思いながら、わたしはその赤に嫉妬して、そして、憧れました。

 退院の前に、一度自宅を訪問しましょう、という話が出ました。なんでそんなことをするのかよくわかりませんでしたけど、診療報酬? っていうのが関係しているらしくて。もちろん断ることもできたんですけど、まあ、どうでもいいかな、と思って、受けることにしました。わたしは何度も言うように体が動きにくくなっていたので、行き帰りの付き添いに、Kさんがついてくれることになりました。わたしはそのとき、初めてKさんの私服姿を見ることになりました。退院前訪問の話を受けてよかったと、このときばかりは思いましたね。七月で、気の早い蝉が鳴き始めていました。Kさんはノースリーブの青いシャツに、白いパンツを合わせていました。耳には丸い、不思議な色のピアスが揺れていました。Kさんはわたしの視線を追って、これ、琥珀なんだよ、と教えてくれました。琥珀って、もっと琥珀琥珀した色をしていると思ったんですけど、そのピアスの石は、なんといったらいいんでしょう、結晶化した蜂蜜みたいな優しい白色と、透明なブランデー色のマーブルで。どうしたらそんな色になるのか、不思議でした。変わった色ですね、とわたしが訊ねると、これはね、リューシカの琥珀なの、と。Kさんはくすくす笑いながら言いました。この中にはね、永遠の冬が閉じ込められているんだよ。ふうん。おとぎ話か何かだったのでしょうか。わたしは小さく首をかしげました。琥珀はね、いろいろなものを閉じ込めるの。太古の虫だったり、空気だったり。……人の想いだったり? そうね、そうかもしれない。わたしたちは顔を見合わせて、くすくす笑いあいました。楽しくなって、小さな声で一緒に、鼻歌を歌いました。なんの歌だったか、覚えてません。きっと流行りの歌だったんでしょう。それから家に行って、でも母は居なくて、とりあえず部屋の中を見てもらって、家、大きいんだね、って言われてちょっと困ったりして、わたしたちは少しだけ気まずい感じで、帰りました。帰途のバスの中で、わたしはそっと、口紅を差し出しました。これって? 拾ったんです。でも、返しそびれてしまって。Kさんはキャップを開けて、中身を確認しました。まだ使われていない、下品で、真っ赤な、綺麗な口紅。預かってもいい、ってことかな。と訊くので、わたしは、うん、と。頷きました。じゃあ、預かっとく。それから少し無言の時間が続きました。Kさん、何を思ったのか、急にバスの停車ボタンを押しました。ピンポーンという音と、赤いランプが光ります。まだ病院には全然近くない、遠い場所なのに。不思議に思って見ていると、Kさんはいたずらっ子みたいに笑って、少し寄り道をしましょう、と言いました。わたしたちは途中下車して、蝉の声が降る街の中を、歩き始めました。体がふらつくので、Kさんに手を握ってもらっていました。街路樹の緑が綺麗だった。すべての輪郭が際立っていて、あらゆる物の影が濃かった。青い空も、あの白い雲も、今でもはっきりと思い出せる。わたしの人生で、一番素敵で輝いていた日。Kさんは一軒のアイスクリーム屋さんの前で立ち止まると、おごるよ、と言ってくれました。選んだフレーバーは、わたしがフローズン・バニラヨーグルト。Kさんはポッピング・ペパーミント。近くの公園のベンチで。スプーンで掬いながら。半分ずつ。美味しかった。こんなに美味しいものを、わたしは初めて食べた気がしました。あなたの肌、白くて羨ましい。木漏れ日に目を細めながら、Kさんは何気なく言いました。病気のせいですよ。いつまでも溶けない雪みたいで……気持ちが悪いですよね。わたしは答えました。肌の上を、まだらな光が染めていました。そんなことないわ。綺麗よ。Kさんが屈託のない顔で笑っている。お世辞でも嬉しかった。けれど……わたしはいつの間にか泣いていました。ぽろぽろと涙が溢れて、止まりませんでした。でも、この病気のせいで、誰もわたしを愛してくれません。わたしが誰かを好きになっても、好きを返してくれることなんてないんです。わたしは言いました。こんなことを口にしたのは、初めてでした。Kさんはじっとわたしを見つめていました。それからおもむろにわたしの手を取ると、公園のトイレへと連れて行きました。手洗い場で立ち止まる。正面のくすんだ鏡にわたしの泣き顔が映っています。ちょっと目をつぶっていて。Kさんが言いました。わたしは言われた通りまぶたを閉じた。唇に、何かが触れた。自分の肩が一瞬ぴくんと揺れて、でも、わたしは動かなかった。不思議な感覚でした。自分の唇をなぞるその感触が、わたしを閉じ込めたんです。もういいよ。そう言われて目を開けると、真っ赤なルージュをひいた、わたしがいました。あの子よりもずっと似合ってると思う。Kさんが言いました。わたしは自分の顔に、見とれていました。舌先で唇に触れると、火傷したように熱かった。

 あの日からずっと。わたしの舌は火傷したまま。でも。生きようと思った。生きようと思ったんです。どんな体になっても。動かなくなっても。わたしはこの想いを閉じ込めて、永遠に生きようと思う。まるで、それは、

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