その関係性は微睡にも似ていて

間川 レイ

第1話

 1.

 人を好きになるってどんな気持ちなんだろう、なんて。いつだって思っていた。それこそ、子供の頃からずっと。


 とは言え、まるっきり人を好きになるという気持ちが理解できないわけではない。胸がドキドキして、その子のことしか考えられないようになって、その子のそばにいるだけで幸せになれる。そんな気持ちになったらその子を好きになっていると言えるのだろう。そのくらいの知識は小説やドラマ、映画を通じて持っていたし、学んでいたけれど、私が実際に人を好きになることなんて無かった。


 私に人並みの感情が無いわけではない。他人に興味がないわけではなく、他人を褒める事ができない訳でもない。この子かっこいいな、優しいなと感じる事はある。凄いな、尊敬するなと思ったこともある。流石だな、憧れるなという気持ちも抱いた事がある。だが、それだけなのだ。そこからときめきに繋がらない。恋に繋がらない。まるで見えない壁にブロックされているかのように、私の心は揺るがない。ただ、事象を事象としてしか、あたかも他人事としてしか認識できない。ふーん、凄いな、かっこいいな。そこまでは感じられるし、認識もできる。だが同時に心のどこか冷めた部分も思ってしまうのだ。それで?と。そこから先、何も私の心に響くものがない。どこまでも自分とは違うもの、他人事としてしか理解ができない。


 だから、私には分からなかった。他人を好きになるという気持ちが。私の彼氏ってば酷くってさー、みたいな愚痴に見せかけた惚気を聞いても何も思えなかった。むしろ、そんな欠点があるのに何故一緒にいるのだろう、別れないのだろうと不思議に思っていた。そして、口ではそんなに不満をこぼすのに、その彼氏の話をする時の友達はどうしてそんなに満たされた顔をしているのか、理解ができなかった。あまりに理解ができなくて、信頼できると思った先輩に相談したこともある。先輩は軽く微笑んでいった。いつか本当に好きな人ができればわかるよ。やっぱり理解できなかった。


 そんな私自身を人間として欠陥なのではと思ったこともある。高校の頃など、それでよく思い悩んだものだった。この「欠陥」を治療するために試みに同級生の男の子と付き合ってみたこともある。まるで駄目だった。常に向けられる微笑み、情念のこもった視線、私の身体に触れようか迷う手つき、全てが不気味で気持ち悪くて仕方がなかった。それでも三か月は我慢したけれど、唐突に握られた汗に湿った手の感覚があまりにナメクジに似ていて別れてしまった。


 結局の所、私は恋愛が理解できない人間なのだ。大学生になる頃にはそう思うようになった。そう思えれば楽にもなった。無理に恋愛しなければという強迫観念にも似た衝動も消え失せた。所詮他人は他人。私は恋愛できない人間なのだ。そう思えば楽だった。そしてそのことに仄暗いプライドを感じるようにもなった。恋愛なんてくだらない。異性の一挙一動に心揺さぶられ。所詮他人に縛られることのなんと愚かしい事か。自分の幸せを外注にだすなんて。なんて、そんなことまで考えすらした。それでいいと思っていた。あの子に会うまでは。


 2.

 あの子に出会ったのは、社会人も3年目になり、大分仕事にも慣れてきた頃。新人の指導も任されるようになってきた頃、私はあの子に出会った。新入社員と、研修担当という形で。あの子に最初に出会ったときの印象はまるで小動物というものだった。小柄で、こじんまりとしていて、ちょこちょことよく動く。そしてよく笑う、小さな顔に対して大きな眼鏡が印象的な子。それが最初の印象だった。私の部署は営業担当で、お客様と直接対応する部署だ。だから必然、研修は座学のみならずロールプレイングで実習をすることになる。そして、もっぱら私がロールプレイングの相手をすることにはなったのがあの子だった。


 彼女はとても真面目な子だった。座学中は分からない点があればそのままにせず、必ず質問しにきたし、ロールプレイングとロールプレイングの間の空き時間には学んだことをノートにまとめたり、必要と思われる事柄については自分で調べてまとめたりしていた。それは、言葉にすれば当たり前の事かもしれない。だが、その当たり前を当たり前にこなす事が案外難しいのだという事を私は経験から学んでいた。特に新入社員にとっては。


 その点、あの子は真面目だった。そして、真面目であればこそ、教える側のこちらにも熱が入った。より難しいことも教えてみようという気にもなった。あの子はいい生徒だった。かなり発展的なことを教えても、食らいついてこようとした。分からないところは分からないなりに噛み砕いて理解しようとしていた。彼女は頑張り屋さんだった。今まで見てきた中の新入社員の中でも、凄く。


 それでいて、人懐っこい子でもあった。自分のまとめ作業が終わり、私が報告書をまとめる間の空き時間、しばしば話しかけてきた。ニコニコと微笑みながら。話す内容はそんなに大したことはない。前の休みどこに行っただとか、次の休みはどうするつもりだとか、どこそこのランチは美味しかっただとか。だが、それが実に楽しそうなのだ。ニコニコとして、本当に楽しそうに話す。もしあの子に尻尾があれば、その短い尻尾をブンブン振り回しているだろうと思わせるぐらい楽しげに話すのだ。それが余りに楽しそうで、見ているこちらもついほっこりしてしまう。そんな子だった。


 あの子の入社から一か月たち、二か月たち。研修期間が明け、本格的な業務に入るようになっても組むのはもっぱら私だった。いわゆるOJTというものになっても、私が担当だった。私たちは業務の空き時間にも雑談をするようになった。私がそこまで喋る人でないこともあり、メインで話すのはあの子。私は聞き手。そんな関係。それでも私が話に合わせてつまらないジョークを飛ばしてもコロコロ笑ってくれたし、いつだってあの子はニコニコと微笑んでいた。心の底から楽しそうに。そしてあの子の話には尽きるということがなかった。いつだって明るく元気よく、ニコニコと話をしていた。


 そんなあの子は、私にとって眩しくもあった。いつだってニコニコとしていて、いつも心の底から楽しそうに話す。それは正しく営業向きの性格で、そして私にはない物だったから。私とて営業担当として経験を積んだ身、お客様と話す時ぐらいニコニコ微笑むことだってできるし、本当に楽しげに話すことだって出来る。だがそれは演技だ。本当の私は、どちらかというと陰気だし、人と喋るのは嫌いではないけれど、黙ってていいなら一生黙っていられる、そんな暗い性格なのだ。だからこそお客様と話すときには細心の注意を払って話すし、商談が終わればどっと疲れが出る。正直、時々ふと私は営業に向いているのだろうかと思ってしまうのが私という人間だ。


 だからこそ、あの子は私にとって憧れでもあった。ああやって、底抜けの笑顔で笑えたらどれだけいいだろう。ああやって、自然と笑顔で話をできたらどれだけ素敵だろう。お客様も釣られて笑顔になるような無垢な笑みを、私も振りまけたら。私がテクニックでやっている部分を、あの子は自然とこなす。そんなあの子のことが羨ましくて、眩しくて、ほんのちょっぴり、妬ましくもあった。


 だから、あの子を目で追いはじめたのも、それはスキルを盗むためだった。どのタイミングで笑う、どのタイミングで相槌をうつ、どのタイミングで商品の話をする。あの子はどうやってお客様に理解していただこうとして、どうやって買ってもらおうとしているか。それはOJT担当としてみているというのもそうだったけれど、それだけではなかった。やがて将来のライバルとして、盗める技術は盗んでおこうという目論見で見ていたはずだった。少なくとも最初の頃はそうだった。


 だがいつからだろう。あの子が、今日は別の人間とOJTに行ってくれと指示を出されたとき、寂しさを感じるようになったのは。


 いつからだろう。あの子が公休や体調不良でオフィスにいない時、それでも目でオフィスを探してしまうようになったのは。


 いつからだろう。ショートボブの薄く染めた髪、小さな顔に大きな眼鏡。特にネイルはしていないけれど、まめに整えられた爪。少年を思わせるぐらい小柄なあの子の横顔が、可愛いと気づいたことは。


 いつからだろう。あの子との雑談で、本当に心から笑うようになったのは。あの子が雑談を振ってくるのを心待ちにするようになったのはいつからだっただろう。


 私は気づいた。私はあの子に恋をしている。


 3.

 私はあの子に恋をしている。そのことに気づいたとき、不思議と衝撃はなかった。むしろ、ああ、だからかと納得するような感覚。だから私は、あの子に会うのを楽しみにしていたのかと。そこに同性を好きになってしまったとか言う葛藤はあまりなかったように思う。たまたま好きになった人が同性だったと言うだけと言う印象。そうか、私は同性でも好きになるのかと言う純粋な驚きはあったけれど。でも、私があの子に恋をしていると言う気づきは、あるべき物があるべき場所に収まったと言うか、ひどく当然のことを眺めるような感覚だった。


 それにしても、これが人を好きになると言う気持ちか。そんな感慨深さがあった。あの子のことを考えるだけで、胸の奥がギュウッと締め付けられるように切なくなる。あの子の微笑んでいる顔を、声を思い出すだけで何か身体の奥から込み上げてくる物を感じる。そして、あの子と話していると体の芯からポカポカしてくる。自然に口角が緩む。ずっとこのポカポカした心地に浸っていたくなる。あの子のことを考えるとずっと胸の鼓動が早くなる。でもそれは嫌な鼓動の早さではなくて、ワクワクや、ドキドキにも似た心の高鳴りがある。人を好きになるっていうのは、思っていたより悪い気持ちじゃなかった。人を好きになることを小馬鹿にしていた昔の自分を殴り倒してしまいたくなるぐらいには。


 そして、あの子の横顔を見ていると思ってしまう。もっとあの子とお話しがしたい。どんなものが好きで、どんなものが苦手で、どんな趣味があって、どんな性癖があって。本は読むのか、どんな本を読むのか、どんな映画を見るのか、どんな映画が好きなのか、どんな音楽が好きなのか。あの子にまつわることならどんなことでも知りたくなる。


 そして願わくば、その身体にも触れてみたい。その薄く染めた髪の毛を掬いたい。サラサラのその髪の毛を手で梳かしてあげたい。その色素の薄い頬をなぞってみたい。少年のように薄く華奢な身体を抱きしめてみたい。そして、その薄桃色の唇を奪ってみたい。


 そのときあの子はどんな顔をし、どんな声をあげるのだろう、なんて夢想してみたりもする。我ながら気持ちが悪いな、なんて苦笑する。


 でも、私はあの子に告白するつもりなんて微塵も無かった。だって、あの子にとって私は、沢山いる先輩の中の1人で、たまたま研修をよく担当する先輩でしかなかったから。あの子の私に対する態度には、よく話をする会社の先輩に対する親愛の情までは感じられても、私があの子に抱くような、ドロドロとした思慕の情なんて僅かばかりも感じられなかったから。あの子の態度を見ていればわかる。どこまで行っても私たちは友達ですらない。せいぜい仲のいい先輩にしか過ぎないのだから。


 それに、私はあの子の微笑みを私という不純物で汚したくなかった。もし万が一私が告白でもしようものなら、あの無垢な微笑みは私の前から永遠に消えてしまう。そんな確信にも似た予感があった。


 ただの先輩からの告白。それも同性の先輩からの告白なんて、きっとあの子を困らせてしまうだろう。優しい子だから、何とか傷つけないようにと頑張って。それでも素直な子だからきっと困惑を露骨に示してしまうだろう。そんなつもりじゃなかったのに、なんて思われてしまうかもしれない。そんな困惑と嫌悪感の入り混じった顔で見られるぐらいなら、舌を噛んで死んだほうがまだマシだ。


 そんな顔をあの子にさせるぐらいなら、この先輩と友達の間にあるような、中途半端な関係を維持することを私は選ぶ。この微睡にも似た、フワフワとして中途半端な、それでもこの居心地の良い関係性を守るために私は全力を尽くす。


 だから私は今日も私は自分の気持ちに蓋をする。先輩!という呼び声にふんわり笑って応えるのだ。なあに、と。





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その関係性は微睡にも似ていて 間川 レイ @tsuyomasu0418

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