生きそこなう

宇佐

第1話

 お母さんはまだ頑張っています、と父からのメールには書いてあった。この先どうなるかわからないとお医者さんは言っています。なるべく急いで帰ってきてください。待ってます。

 長い間ろくに会話もしていなかったせいで、その文面は薄ら寒い響きをしていた。まるで下手くそなお芝居みたいに滑稽で。けれど誰かに見せて笑ってもらうには、母の危篤は深刻すぎる問題だった。

 午後二時。のろのろと会社の入り口を出た私を、理穂が迎えにくる。彼女は真っ青な顔色をしていて、私の顔を見るなり人の目も気にせず抱きしめてくる。お昼に作っていたらしいガーリックの香りが服に染み付いていて、なんだか場違いに感じた。

「大丈夫」

 と理穂は言った。言われるまでもなく、私は大丈夫に決まっていた。だって死にかけているのは私ではなく母だ。私はぴんぴんしていて、若くて、健康だった。今まさに死の淵にある人間とは真逆に。

「飛行機のチケットは取っておいたから」

 ようやく私を腕の中から解放して、理穂はそう言った。ヒコウキという言葉を理解できるまで少し時差があった。実家は北海道にある。そこへ行くには飛行機が必要だなんて、随分久しぶりに思い出したからだ。

「行かなきゃだめ?」

 と、私はたずねた。父の電話を聞いてから、ずっと考えていたことだった。

「だめよ、行ってあげて」

 理穂は言った。電話を取り次いでくれた先輩も、仕事を引き継いだ部下も、有給を提案した上司も同じことを言った。家族の危機には駆けつけてあげるべきだと。もし自分が親なら、死の間際には娘がいてほしいと。

 でもそれは全部、一般的な家庭の話だ。私にとって家族は楔であり、傷痕だった。実家には長いこと帰っていない。電話もメールも、ほとんどしない。あそこの人たちは“たまたま”私と血が繋がってしまったというだけの、赤の他人だとすら思っていた。

 ともかく、私は人生で二度しか起きない節目にいた。母は今朝脳出血を起こし、病院のベッドで刻一刻と迫る死を待っている。私はそこに行って、娘らしい何かをしなくてはいけない。

 理穂の呼んだタクシーに乗り、私たちはまず中野区の家に帰った。休日でもないのにこの時間に帰ってくるというのは、なかなか奇妙な感覚だった。管理人や隣人と顔を合わせてしまったら何と言い訳をすべきか、私は頭の中で何度かシミュレーションをする。母が危篤なんです。今から帰ろうと思って、会社を早退してきました。そんな風に、なるべく深刻そうな顔で。けれど幸いなことに、部屋のドアを開けるまで誰とも出会うことはなかった。

「服は持ってないよね」

 靴を脱ぎながら、理穂が言った。その服というのが喪服のことを差すのだと理解するのに、たっぷり五秒かかった。そうか、そういうものもいるのか、とどこか他人事のように考える。途端に細々とした心配が湧き出てきてしまいそうになり、慌てて思考を変える。面倒なことは後で考えればいい。

「ないけど、なんとかなるでしょう」

 鞄をソファの上に放り投げて、私はため息をついた。人が死ぬ場面に立ち会うなんて初めてのことだ。小さい頃に祖母が亡くなったけれど、ほとんど記憶がない。覚えていることといえば、弁当一つを頼むだけで母がヒステリーを起こしていたことと、まだ幼かった弟がグズっていたことくらいだ。

「ねえ」クローゼットからキャリーバッグを取り出す理穂の背中を見ながら、私は言った。「明日でもいいよ。明後日でもいい。なんか葬式にちょっとだけ顔を出せばいいでしょ、急ぐことないよ」

 それは紛れもない本音だった。はっきり言って、私は帰りたくない。母が数時間後に死のうと明日死のうと、それは残酷に言えばどうでもいいことだった。これも一つの運命だ。はっきりした状況は聞いていないけれど、好転する見込みがないのだということは父の電話の言葉でわかった。だから私がどうしようと、母はいずれ息を引き取る。たとえ今できる限りの早さで地元へ戻って、父から聞いた病院へ車を飛ばして、病室の中で意識のない母の手を握って心の温かい娘の演技をしたところで、それは何一つ変わらない。

「だめだよ」

 私の懇願に対し、理穂は首を振った。

「今日行ってあげなきゃだめ。先延ばしにしてもいいことはないわ」

 それは容易に予想できた答えだったので、私は反論しなかった。

「それに、きっと後悔することになる。今すぐじゃなくても、この先の人生のどこかで」

 そうね、と私は言った。

 理穂はいつも正しい。私は彼女のそういうところが好きだ。正しさというのは時に苛々させられるが、同時に世の中で一番誠実で確実な拠り所になってくれる。正しさという流れの中にいる限り、理穂は私を裏切らない。

 ばかみたいに突っ立ったまま足元のフローリングを見下ろして、私は実家のことを思い出す。磨き上げられた床。ホコリ一つない家具。お芝居みたいな家族行事。習い事と塾通い。得体のしれない味がした創作料理。

 できもしない完璧主義、それは私が母に下した評価だった。見栄えばかり気にして、肝心の中身は空っぽ。自分の能力も把握していないのに、理想論ばかり口にして。あなたがそれを娘に押し付けてばかりいたから、私はこんなにひどい人間になってしまった。誰かの後押しがなければ、死に目に会いに行くことだってできやしない。

 特に残酷だったのは、悪いのが母だけではなかったことだ。父も、弟も、叔母も、祖父母も。私達は皆少しずつおかしい。絵に描いたような家族になるには何かが足りなかったから、誰かの穴を埋めることができず、おかしなままでここまで生きてきてしまった。

 ひとり何もせず立ち尽くしていると、二人分のキャリーバッグを持った理穂がやってくる。彼女はテキパキと必要な荷造りを終えていて、私の分の着替えも既に用意していた。

「大丈夫、私がついてる」

 と、理穂は言った。

 じゃあ行くか、と私はつぶやいた。誰に聞かせるでもなく、覚悟を決めるための一言だった。


 新中野から赤坂見附へ。そこから乗り換えて新橋へ行き、羽田直通の京急線に乗る。

 家を出てからずっと、私は憂鬱だった。一秒ごとに実家へ近づいていると思うだけで胃の奥がむかついて、その先で起こるであろう事柄を考えただけで反吐が出そうになった。できることなら途中でこの電車を降りてしまって、新宿あたりで美味しいものでも食べて帰りたいと思うくらいに。

 けれどいざ腰を浮かしてしまおうと思う度に理穂が私の手を握って、無言で引き止めてきた。付き合いの長い彼女からすれば、私の考えることなんてお見通しというわけだ。

 子供の頃、塾に行くのがどうしても嫌でサボったことがある。あの時は本当に地下鉄を降りて、そのまま近くの図書館へ逃げて本を読んだ。その後たっぷり怒られはしたけれど、あれは幸せな逃避行だった。あの時に理穂がいてくれたらもっと楽しかったに違いない。彼女の正しさは、それを許してくれただろうか。

 だれかに見られるよ。小声でそう言って振りほどこうとしても、理穂は私の手を離そうとしない。ひとの目なんかお構いなしに、彼女は私の隣にいようとしてくれる。

「空港なんて久しぶり」

 私の言葉を無視して、理穂が言った。揺れと人々の音でうるさい車内でも、彼女の声ははっきりと私の鼓膜を揺らした。

「この前の旅行以来かな」

「そうね。あれが最後」

 二人で沖縄に行った時のことを思い出すと、少しだけ心が楽になった。付き合い始めてから三年目の記念日。海の見えるホテルに泊まって、泳いで、観光をして、たくさん食べた。あれはとてもよい旅行だった。心の許せる誰かと遠くへ行くことが、あんなに幸せなことだとは知らなかった。

 楽しかった記憶を思い出して、少しだけ気分が落ち着く。この路線は空港に続いていて、そこから先は自由だ。飛行機は沖縄にだって、北海道にだって行くことができる。何もかもが悪いことに繋がるわけじゃない。

 私は片手でキャリーバッグのハンドルを、もう片方の手で理穂の手を握って座り続けている。ハンドルはつるつるしていて、理穂の指は保湿クリームでしっとりとしている。

 理穂はレストランで働いている。いつか自分のお店を出すという夢があって、そのために細かい計画を立てている。土地とか、内装とか、看板メニューとか。動画サイトにも投稿したいの、と彼女は言った。作っている風景とレシピを紹介して、最後に宣伝を入れれば完成。お店のロゴを作りたいから、協力してね。未来の予定を語る時の彼女の目はいつも、眩しいほどに輝いている。

 私は理穂の夢に私が入っていることを幸せに感じる。誰かの人生に入る方法が、自分にもあるとは思っていなかったからだ。

 電車が羽田の国内線駅に到着し、私たちはその他大勢の乗客と一緒にホームに降りる。

 日本航空よ、と理穂は言った。私は頷き、彼女の後をついてエスカレーターへ歩く。何時のフライトなのかも、どこの搭乗口かも知らないけれど、理穂がいる限りは問題ない。

 出発フロアへ上がると、私たちはまず無人発券機でチケットを発券する。番号やパスワードを入力している理穂を横目に、私は広々としたターミナルを見回す。どこまでも続くかのような通路というのは、普通に生きているとここでしか見られないものだ。忘れてしまいそうになるけれど、私たちは人工物に囲まれて生活している。そこには意図や目的があって、デザインがある。

 私は今、デザイン系の会社に勤めている。理穂と出会ったのは、お得意先の飲食部門だ。営業所と店舗を間違えて訪れたら、彼女が親切に応対してくれた。驚くほど親身で、自立していて、強引な人だった。だってあろうことか、私たちはその場でプライベートな連絡先まで交換したのだ。

「運命を感じたのよ」と、理穂はある時思い出話として言った。「それに、あなたの持ってきてくれた資料がとても綺麗だった」

 目的を持って生まれたものは美しい、と私は思う。それらには無駄がなくて、矛盾がない。それに対して人間は不自然すぎる。理に適わないようなものばかり大事にして、一方で生き死にの時だけ道理を拾い集める。

 ぼうっと周囲を見渡していた視界に、不意に紙切れが現れる。あなたの分よ、と理穂が言った。チケットの発券が終わったのだ。

「失くしそうだから持ってて」

 並んだ文字列やバーコードを読みつつ、私は理穂へそう頼んだ。

「だろうと思った」

 理穂は面倒な素振りすら見せず、気持ちよく微笑む。それが私を安心させるとわかっているから。


 搭乗まではまだ時間があるということで、私たちはターミナル内のカフェへ入ることにする。手荷物は預けない。機内に持ち込めるサイズにしたと理穂は言ったが、それがどのくらいの大きさなのかは私にはわからなかった。

「ごめんね」

 席について水を一口飲んでようやく、私はそう口にした。様々な物事への謝罪を込めて。もっと他に言い方があったはずなのに、それを口に出すのがやっとだった。

「謝ることなんて」

 と理穂は言う。そしてそのまま二人とも無言になって、注文したカフェラテを静かに飲み始めた。

 理穂は私の事情について知らない。両親との関係が良くないことも、実家を訪れたくないことも。けれど私は一度も実家に帰ったことがないし、家族に関して一切口にしたことがないから、聞くまでもなく察しているはずだ。だから、こうしてついて来てくれている。一人では行きたがらないであろうことも、理穂の言うことは聞かざるを得ないことも見抜いて。それをずるいと言うつもりはない。ずるいのは黙ってばかりの自分だ。せっかく彼女が飛行機のチケットを手配してくれたというのに、肝心の母が入院している病院の場所さえ聞いていないのだから。

 やることをやらなくては。私はのろのろとスマートフォンを取り出し、ロック画面を解除する。いつまでも理穂を待たせるわけにはいかない。彼女は私が落ち着くのを待ってくれている。そんなことがわからないほど混乱していないと、示す必要があった。

 通知には着信が二件、メールが一件あった。着信はどうせ父なので、それを無視して先にメールを開く。差出人は弟の名前だったので、肩の力が少しだけ抜けた。

 生きている間に来てよ、と弟はメールに書いてきた。細々とした状況の説明の末尾に、彼なりのジョークとして。笑えない話だと思いつつも、その言葉のせいで私の頬は少し緩んでしまう。

 両親と違って、弟と私の間には特に確執はない。けれど、取り立てて仲がいいわけでもない。世間の姉弟がどのくらい互いに情があるのかはわからないが、私にとって弟は特別な存在とは言えない。なんというか、同じ日々をくぐり抜けた連帯感のようなものはある。だけどそれだけだ。私には私の、弟には弟の人生がある。互いに干渉しないのが、せめてもの思いやりと言えた。

 行くから、病院を教えて。簡潔にそれだけを打ち込んで送信すると、測ったようなタイミングで理穂が口を開いた。

「何かあった?」

「何も」と私はこたえる。「今、病院の場所を聞いてる」

「なら、よかった」

 理穂は頷き、カフェラテを啜った。

 母と最後にまともに口を聞いたのは、就活をしていた頃だった。母は私が東京で一人で生きていこうとしていることを大いに気に入らなかった。自立した女性像というものを憎んでいたのだ。たぶん、自分がそういう人生を歩めなかったせいで。どんな職業につくにしろ結婚はしなさい、と母は繰り返し言った。いい縁がなかったらいくらでも紹介するから、実家に戻ってきなさい。

「ありえない」と私は言った。「ほうっておいて」とも。その頃には私と両親との対立は行き着くところまで行っていて、取り繕うこともなく本音を言えた。もちろん、その対価は常に険悪な討論になったが。

 お父さんを悲しませないで、と母は言った。私はその言葉のせいで、もう少しで爆発しそうになった。あなたが気にしてるのは父の顔でも、私の人生でもないくせに。ただ娘が思うような人間に育っていないことを認めたくないだけだ。絵に描いたような、貞淑で真面目な女に。努力や苦労が人を救ってはくれないなんてことに、母はもっと早くに気づくべきだったのだ。少なくとも私は十代のうちに気づくことが出来た。人並みの幸せというのは、人並みの人間にしか訪れない。私には、できない。

 頭の中を過去から引き戻すように、机の上に置いたスマートフォンが振動する。着信だ。幸いなことに、表示されている名前は弟だった。どうやらメールを返すのが面倒で、電話をかけてきたらしい。

 一度ちらりと理穂の顔を見てから、私は仕方なく電話に出る。

「今どこ?」

 挨拶すらせず、弟がたずねてくる。

「空港」と私は言った。「そっちは?」

「病院と家を行ったり来たり。もう疲れたよ、てんてこ舞いでさ。それで、いつ来る?」

「これから飛行機に乗るから、まあ夜でしょうね」

「そっか」

 電話の向こうで、弟がため息をつく。父は母の言いなりだったから、こういう時に何も出来ない。だから、きっと弟が全てをやらされているのだろう。かわいそうにとは思うけど、同情はしない。弟は反抗期の勢いで家を飛び出して、どこぞの女とちゃっかり結婚をしていた。工場で働いていると聞いたような気がするが、特に興味もなかった。

「結局、どこの病院なのよ」

 そうたずねると、弟は聞き覚えのある総合病院の名を出した。新千歳空港からそこまでは、だいたい二時間くらいだろうか。

「俺、待ってるから。お姉ちゃんがいないと色々面倒なんだ」

 と弟は言った。お姉ちゃん、という年齢不相応な呼び名は母が決めたことだった。お母さん、お父さん、お姉ちゃん。そう呼びあうのが普通の家族らしい、という思い込みで。この歳になっても習慣が抜けなくて、私たちはずっとその呼び方を続けている。

「行っても面倒は減らないわよ」

「少なくとも俺の負担は減るだろ。じゃあ病室に戻るよ。うちのを置いてきてるからさ」

 うちの、とは弟の妻のことだろう。その言い方はあんまりだと思ったが、今更口をだすような関係でもない。

 電話を切って、私は理穂に病院の場所を伝える。彼女はスマートフォンのアプリを使って行き方を調べ、電車の乗り換えをメモした。こういうことを頼むより先にやってくれるのが、実に彼女らしい。

 私は弟や父に理穂をどう紹介すればいいのだろう、とふと思った。


 一時間弱の余裕を持って、私たちは保安検査場を抜ける。飛行機は今の所定刻通りに飛んでいるらしい。それがいいことなのか悪いことなのかは、今の私にはわからない。

 搭乗口前の椅子に腰掛けると、急に心臓が揺れだした。これから父と母に会うのだ、と理性が告げる。それはこの数年間もっとも恐れていたことであり、できる限り回避したかったことだ。どんな風に日々を過ごしていても、家族の呪いは常に心の奥にこびりついていた。逃れることも切り離すこともできない、血の繋がりという深い傷跡。

 他の皆はどうやってこれを乗り越えているのだろう、と思う。家族の死は平等に誰にでも訪れる。たった一人のせいで、直前まであった日常はあっけなく終わってしまう。こんなことのために、私は生きているわけじゃない。

 目を閉じうなだれて、何度も深呼吸する。喉の奥に何かが詰まったような重苦しさがあって気持ち悪い。ストレスのせいだ。以前にこのまま過呼吸になったことを思い出して、手のひらが汗ばむ。けれどこのまま倒れたりしたら、飛行機に乗らなくて済むかもしれない。帰らないもっともらしい言い訳にもなるだろう。

 けれどそんな私の背中を理穂の手が擦ってくれた途端に、強張っていた体はあっさりとリラックスしてしまう。私は彼女の優しさをほんの一瞬憎む。そしてすぐに、そんな自分にがっかりする。

「おばあちゃんが死んだときにね」と彼女は話し出す。「私、どうしても顔を見たくなくて。だって、なんだか気持ち悪いじゃない。もう目を開けることも、話すこともしない人の顔を見るなんて。だから、お葬式から逃げたの。終わるまでずっと、親戚のおばさんに慰められてた。でもすごく後悔してる。最後のお別れを言いそこねたことが」

 そういう問題じゃないんだよと私は思う。理穂の言うことはどこまでも真っ当で、歪んだところがない。私たち家族とは違う。母は私たちにかけた迷惑を何一つ精算しないまま死に向かっていて、父はそれを義務的に見送ろうとしていて、子どもたちは後始末を押し付けることばかり考えている。それでも私は理穂のことが好きだから、的外れの慰めでさえも嬉しかった。

 ポケットの中でスマートフォンが鳴って、父からのメールが来る。弟から話を聞いたらしい。お母さんに顔を見せてあげてください、とそこには感情のない文面で書いてあった。私の声を聞いたら目を覚ますかもしれない、とも。まるで悪い冗談だ。本気で思ってもいないくせに。

「お水、買ってこようか」

 私の肩に手を置き、理穂がそう言った。

 断るのは簡単だったけれど、私は「お願い」と言った。あまり彼女を心配させるわけにもいかない。

 売店へ歩いていく理穂の後ろ姿を見ながら、私は自分がまだ家族と暮らしていた頃のことを思い出す。

 母は、私が男友達を作らないことを気に入らなかった。女友達のためにバレンタインチョコを用意することを気に入らなかった。部活に入らないことも、服を自分で買うことも、自分で進路を選択することも。よく生きていたものだと、今になって思う。正確に言えば、私は家を出てからも生きてはいなかった。理穂と出会うまではずっと、生きそこなっていた。

 理穂は私に堂々と生きることを教えてくれた。好きなものを食べることも、好きな人とだけ付き合うことも、好きな場所へ住むことも。自分を支えてくれる人がいるということも、その逆に誰かを支えたいと思う気持ちも。そして、その全てに誰かの許可や監視がいらないことも。

 私は私と理穂だけの世界に住んでいたい。何のしがらみも、制限もない世界で、二人きりで。

 けれど私は今、羽田空港の搭乗口で飛行機を待っている。実家の近くの病院では母が死にかけていて、父と弟とその他大勢が私が来て仲間はずれがいなくなることを望んでいる。それがたまらなく苦しくて、ひどく辛い。

 戻ってきた理穂と座っていると、やがて搭乗案内が始まる。サラリーマンや子供連れの家族が乗って、次は私たちの番。キャリーバッグを引きずって、チケットをかざしてゲートを通る。飛行機までの通路は狭く質素で、今から押し込められる場所のことを否応なく想像させる。

「窓と通路、どっちがいい?」

 席の間を通り抜けながら、理穂がたずねてくる。どちらでも、と私はこたえた。すれ違うキャビンアテンダントの笑顔が、なぜか私を不安にさせる。

 理穂に促されて窓際の席に座った瞬間に、私は今日初めて泣きそうになる。母の危篤を知らされても微動だにしなかった涙腺が、前触れなしに緩みそうになる。四角い窓から切り取られて見える飛行機の羽と滑走路は、昨日までの人生との別れを示していた。いつだってそうだ。望んでいることはろくに起こらないくせに、望んでないことばかりが起こる。

 全ての乗客が乗り終えて、飛行機のドアが閉まる。天井のディスプレイで機内安全ビデオが流れ、大きな機体が滑走路の上をゆっくりと走り出す。

 実を言うと、私は離着陸が苦手だった。この鉄の塊がトラブルなく空を飛ぶということが未だに信じられなくて、いつも最悪のことばかり考えてしまう。移動先が実家のある北海道だというのだから、なおさらだ。

 それを知っている理穂は、離陸の間中ずっと座席の上で私の手を握ってくれる。沖縄に行ったときと同じだ。彼女は座ったまま顔だけこちらへ向けて、私の目をじっと見る。

 不意に、私は週末に理穂とイタリアンのレストランへ行くつもりだったことを思い出す。でも、キャンセルしなくてはいけないだろう。少なくとも私はしばらく北海道にいなくてはいけない。全てに決着がつくまで、どのくらいかかるのかわからない。


 高度が安定して機内販売が始まった頃、理穂が私に声をかけた。

「大丈夫?」

 私は離陸してからずっと口を閉ざしていて、迫りくる吐き気や不安と戦っていた。気圧のせいで耳が痛かったし、これからのことを考えると胃が重くなる。唯一良かったことは、空の上では電話もメールも入らないということだった。

「大丈夫じゃないみたい」

 と私は弱音を吐いた。午前中から張り詰めていた心にも、そろそろ限界が来ていた。

「このまま落ちちゃえばいいのに」

 そうつぶやくと、理穂は困ったように笑った。確かに、それは子供みたいな弱音だった。

「どうしてそんなに帰りたくないの」

 私の手の甲を撫でて、理穂が言う。どこかで赤ちゃんが泣いて、通路をキャビンアテンダントが通り過ぎる。

「あなたのことをばかにされたくない」

 と私は言った。もっと他のことを言おうと思っていたのに、つい口をついた本心だった。

「私の人生を邪魔してほしくない。理穂に迷惑をかけたくないし、嫌な思いもしてほしくない」

 口にすればするほど痛みが予想できて、私はついに目の端から涙を流してしまう。一万メートル地上を離れた空の中で、私は自分が世界一孤独になったと感じる。

 理穂は私が泣いたのを見て驚いた顔をする。けれどすぐにその表情を引っ込めて、取り出したハンカチで涙を拭ってくれる。

「じゃあ、病院には私は行かないわ。どこか近くのホテルで待ってる。いつでも駆けつけられるように」

「じゃあ私も行かない。理穂と一緒に温泉にでも行って、次の日に帰る」

「それはだめよ」私のわがままに、理穂は首を振った。「行かなきゃだめ」

 もちろん、それは正しい言葉だった。私だって本当に逃げられるとは思っていない。逃げられないから、家族なのだ。私がどう抗ったところで、世界は変わらない。母の娘は私しかいないし、私を産んだのも母しかいない。

 同時に、こうも思った。結局母も何かを失敗してしまったのだと。父も私も弟も、母とは健全な関係を築けなかった。彼女が追い求めていた理想は、最後まで完成しなかった。

 母が昏睡していて本当によかったと思う。もし起きて言葉を交わせる状況だったら、そこにはどんな会話が生まれるのか予想もつかない。もし仮に母が私を許そうとしたら、私は一体どうすればいいのだろう?

 結論を保留して、私は座席に深く座ったまま目を閉じる。視界を遮断すると、自分が今大きな流れの中にいることを肌で感じとることができる。それは身震いするほど恐ろしく、心細い。

「どうにかなるわよ」

 と、理穂が私へ向けて言った。

 その言葉は、理穂にしては珍しいことに間違っている、と私は思う。どうにかなるのではなく、どうにかしなきゃいけないの間違いだ。人生はどうにかすることの連続なのだから。それは他の誰にも、たとえ家族や恋人であってもできることじゃない。自分の人生は自分で決着をつけなくては。

 理穂と血が繋がっていればよかったのに。私は小さく、そうつぶやいた。それが聞こえたのかどうかはわからないけれど、彼女はもう一度手を握ってくれた。

 しばらくの後、飛行機が着陸態勢に入る。私たちは北海道の上空にいて、あと三十分もすれば空港から電車へ乗り継くことになる。まだ死ねているかどうかわからない、生きそこなった母のいる病院へ向かって。

 このまま落ちちゃえばいいのに、と私はもう一度願う。そうすれば私はずっと理穂と一緒にいたことになる。それだけが、人生に残された望みだった。

 もうすぐ着陸だよ、と理穂が言う。

 私は目を閉じたまま、何も聞こえないフリをする。不意に機体が傾いて、重力が体にかかる。座席が揺れ、赤ちゃんが泣き出す。

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生きそこなう 宇佐 @usa1975

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