虚《うつろ》

香坂 壱霧

――

 汗が地面にぽたりと落ちた。


 そこに踏み入れた瞬間、全身から吹き出た汗が、からだをつたう。

 冷たい汗だ。

 さらさらとした汗が、ひたいを流れて、地面にぽたり。

 冷たい汗が、全身を冷たくさせていく。

 寒い。

 酷暑だった。さっきまで、夏祭りの夜店の並びを眺めながら歩いていた。

 そのとき、何かと目を合った気がした。そうだ、何かと目が合った。


 アレは、なんだった。

 何かであったはずなのに、何だったのか、まるで覚えていない。

 記憶を拒否している。

 アレの存在を、拒否しているのだ。

 からだが震えて、冷たい汗でからだはひやされ、まるで氷水のなかにぶちこまれたみたいな、それくらいに寒さを感じる、おかしな夏の夕暮れ。




 ここはどこだ。

 夏だったはずなのに、なぜ、桜が咲いている?

 この桜に見覚えがある。

 ずっとずっと昔、旅で君とはぐれた、桜の名所――。

 君を探して、君がみつからないまま、諦めた春のあの日のあの場所。

 

 記憶が混濁している?

 この寒さは夏じゃない。春のあの夜の肌寒さでもない。

 君を見失った春の夜から、季節はどれくらい移り変わっただろうか。

 桜の花びらが舞っているかと思えば、雪であったり。


 君を見失ったと思っていた。

 あの春の夜から彷徨っていたのは俺だった。

 吹き出る汗のしずくがさいごにぽたりと落ちた瞬間、景色が変わった。



 桜吹雪が対岸に見える。

 夜店も君も、あの日アヤカシがみせた幻で、ここは最初から『無』だったらしい。



 最初から何も持たなかった俺に、夢を見せてくれたのは、桜吹雪のなかに見えた幻――。




〈了〉

 

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虚《うつろ》 香坂 壱霧 @kohsaka_ichimu

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