春の海底

遠藤ロール

春の海底


 あの日の波の音は、28歳になった今でも耳元で鳴っている。

 この音を止めようと何度ももがいた。それでも、止むことなんてなかった。


 ✳︎


 土曜の昼下がり、電車に乗った。行き先は渋谷。隣に立つのは恋人のカイト。


「この川ってめっちゃ大きいよな」

 扉にもたれた彼は何気なくそう言った。


「そうだね」


 こんな時でさえ、私はつい嘘をついてしまう。

 本当は、なんて狭い川だろうと思ったのに。

 息継ぎするみたいに、今日も小さな嘘をつく。


 構成する物質が水であることは等しいはずなのに、どうしてこんなにも海と違うのだろう。

 海はもっと深い色をしていて、反射する光に目が眩みそうになる。深さが違うから当たり前か。

 でも、それ以外の理由もある気がする。"それ"が何なのかは知らない。


「お、桜咲いてるよ」

 私の嘘に気づかないカイトは、線路沿いの風景を見ながら呑気に呟く。



 私には、桜を見るたびに思い出す人がいる。



『リョウちゃんの髪の毛は今日もさらさらで気持ちいいね。これからも長いまんまでいてよ』



 波の音にその言葉を乗せて、サクラは私の髪を撫でるのが癖だった。

 細くて長い指が私の黒髪を通るのがくすぐったくて、嬉しくて、幼い私はずっとロングヘアをやめなかった。


 7月生まれなのに、サクラ。

 彼女は「桜って日本中にあるし、毎年見るでしょう?その木を見る度にあたしのこと思い出してくれたら嬉しいよね」といたずらっぽく笑う。

 夏用のセーラー服は、サクラが着るとやけに眩しく見えた。白い肌が、セーラー服とよく似合っていた。

 笑った時にできる右頬のえくぼが可憐だった。そのえくぼに触れてみたかった。一度もできなかったけれど。すぐ隣にいるはずなのに、その頬を遠くに感じていた。

 いたずらっぽいあの笑顔が、電車の窓ガラスの奥に浮かぶ。罠に嵌った私は、毎年この季節になるたびに必ず彼女のことを思い出してしまう。


「リョウちゃん、来週末にお花見しようよ」

 無邪気なカイトの提案で、私の意識は現実へと戻る。上の空で「いいね」と答えた。

 桜はじきに満開となる。




 電車を乗り継ぎ、あっという間に渋谷に着いた。こちらに越してきてから、県を跨ぐことへのハードルが低くなった。つくづく都会は便利だと思う。

「美容室終わるの何時くらい?」

 改札を通り過ぎ、別れ際にカイトは尋ねた。

「15時には終わるかな」

「オーケー。じゃあそれまで適当に時間潰しとくから終わったら連絡して」

「分かった」

 今日は美容室に行く。少しだけ伸びた髪を整える程度に切って、染め直す予定だ。


 駅から離れ美容室へ向かう道中も、時折耳元で波の音が聞こえた。



 ✳︎



 九州に浮かぶ、人口数千人の小さな島。

 スーパーは一軒で、他に個人営業の小さな商店がちらほら。コンビニはない。

 漁業が盛んで、釣りや豊富なアクティビティを目当てに観光客もやってくる。

 地域の結びつきが強く、行事も盛んだ。幼い頃から家の鍵は開けっぱなしで、隣家と行き来していた。


 サクラは、中学1年生の夏に東京からやって来た。持ち前の明るさと愛嬌で、一瞬にして島に馴染んだ。人見知りをする私にも仲良くしてくれて、気づけば私たちは親友になっていた。


 同じ文芸部という名の帰宅部に所属して、まっすぐ家に帰らずに毎日堤防でくだらない話をした。

 酔っ払って帰ってきたお父さんにお母さんがブチ切れた話、先生の口癖の話、漁に出かけたおじさんが採ってきた不思議な色の魚の話…。覚えていないくらい些細な話を、たくさんした。私はこの時間が大好きで、迫り来る夜を跳ね除けられる力が欲しいと本気で願っていた。


 サクラは母親の転勤について来たらしい。うちから徒歩10分の教職員住宅に2人で住んでいた。彼女のお母さんが仕事の日は、たまにうちへ晩ご飯を食べに来ていた。


「リョウちゃんの家はいつも楽しそうで羨ましいなぁ」

 帰り道で、サクラは小さな声でつぶやいた。

「えー。お父さんはお酒飲んではげらげら笑ってるし、お母さんは小言ばっかりで嫌になるよ。些細なことでいっつも怒られるのも嫌」

「ふふ。そんな風景がそばにあるのが羨ましいんだよぉ」

「そうかなぁ」

 サクラにお父さんがいるのか、聞いたことはなかった。正確には、『聞けなかった』というのが正しい。

「私ね、将来はリョウちゃん家みたいな家族をつくるのが夢なんだ。子供たちに囲まれて、旦那さんと笑顔で暮らすの」

 花が咲くように笑う子だった。

「サクラならできるよ。家庭的だもん」

「そうかな」

「うん。調理実習のとき私は包丁さえ握れなかったけど、サクラがいっぱい助けてくれて、全メニューを完成させられた」

「リョウちゃんが料理苦手すぎるだけだよ」

「それを言っちゃおしまいだけどさぁ」

「ふふ。いつか来る日に向けて、料理練習しておこうかな」

 サクラと家族になれる人は幸せだろうと思った。


 ✳︎


 サクラは優しくて、歳の割に大人だった。

 私が珍しく動画サイトで見たヘアアレンジを施して学校へ行った日のこと。


「なに色気づいてんだよ、リョウ。お前みたいなやつは昔みたいなショートカットがお似合いだよ」


 いつもと違う私を見て、そう吐き捨てた幼馴染のタクヤ。私は反論できなかった。

 彼は至極真っ当なことを言っている。暗くて、地味で、可愛くない私。この髪型はちょっと派手すぎたかな。似合わない。


 堤防でサクラにその話をしたら、彼女はけらけらと笑った。


「タクヤくんはリョウちゃんのことが好きなんだよ」


 意味が分からなかった。


「好きな子をいじめちゃうなんて、ほんと典型的なガキだよねぇ」


 そう波音に乗せて呟くサクラが、ひどく大人に見えた。

 なにそれ。わかんない。

 終始むすくれる私の頭に、サクラの白くて細い手が伸びる。


「私は、リョウちゃんの髪かわいいと思うな。好きよ」


 今日もさらさらだね!なんて言いながら、彼女は鮮やかに微笑む。

 私がヘアアレンジをしたのは、きっとこの瞬間のためだったのだと思った。




 サクラは預言者だった。

 数ヶ月後の秋、私はタクヤに告白された。

 サクラに相談したら、彼女は「タクヤくんとリョウちゃんはお似合いだと思う!」と熱弁した。

 でも、その後もしばらく告白の答えを出すことから逃げた。何が引っかかったのか、この時の私には分からなかった。


 ✳︎


 中学2年生の冬。

 日が暮れるのが早くなり、サクラと堤防で話す時間はどんどん短くなっていた頃。

 しばらくの静寂。カモメが鳴いただろうか。


「あたし、転校するんだ」


 夕暮れの焼き付くようなオレンジに照らされて、サクラは言った。私が画家だったならば、きっとその横顔をキャンバスに描いたであろう。美しい一瞬だった。

 いつ?どこに?そんなことを質問攻めした気がする。

 再来週。大阪に。学校は女子校で。地下鉄がある街に住むの。だったっけ。よく覚えていない。

 サクラと過ごした時間はたった1年と少しの間だけだったのに、大人になったら今でもずっと彼女との思い出に囚われている。


 ✳︎


 明日、サクラが引っ越すという日。

 夜22時。

 風呂から上がって、部屋着のまま堤防へ来た。自分の部屋からも海が見えるが、もっと近くで波音が聞きたかった。


 あした、私の世界からサクラがいなくなる。

 いくらデジタルが発展したって、この波音と共に彼女と過ごす時間は消失する。それだけで、私の世界は底の見えない海みたいになる気がした。


 その瞬間、不確かだったはずの感情が、揺らめく水面にはっきりとした形で浮かんだ。


 月明かりだけが私を照らす夜。

 涙は全て海底に流し込んだはずなのに、ベッドに横になったあとも溺れてしまって眠れなかった。


 ✳︎


 翌朝、開店と同時に島で唯一の美容室に行って、ばっさりと髪を切った。首がすーすーして、心の中の何かが整うようだった。

 今なら大人になれそうだとさえ思った。


 その後すぐタクヤに答えを出した。

「あんたと付き合ってやっても、いいよ」

 その言い方はぶっきらぼうで、全く可愛くなんてないのに。

 彼は「かわいい」と小さく呟いた。

 皮肉なものだと思った。


 この日からずっと、私はショートカットのままだ。


 タクヤとは、私が高校に通うため島を出た後、すんなり別れた。

 遠距離向いてなかった、と彼は言っていた。

 今は地元に残って漁師をしているらしい。2個下の高校の後輩と付き合って、そのまま結婚したと聞いた。

 幸せならば何よりだ。


 ✳︎


 サクラとの別れは港のターミナルのロビーだった。白いワンピースを着た彼女は、私のショートカットを見て目を丸くする。


「髪、切ったの。サクラが、長い髪が好きって言ってたから」


 その言葉を聞いた彼女は、ふわりと微笑んだ。


「リョウちゃんの綺麗な顔が引き立つね。あたしはこっちも好きだな」


 私の決別をいとも簡単に擁してしまう。やっぱりサクラは大人で、泣くのを我慢できない私は子どもだった。


 彼女は「またね」と言い、私は「ばいばい」と言った。抱き合った瞬間、今までで一番えくぼに近かった。


 フェリーは音を立てながら港を出て、水面に浮かんだ私の感情を掻き混ぜて、消した。


 それから毎年やってくる春のことが嫌いになった。


 でも、その度に脳裏に浮かぶ「桜を見る度にあたしのこと思い出してくれたら嬉しいよね」といたずらっぽく笑った彼女の表情は、ずっと嫌いになれなかった。



 ✳︎



「今日はどんな感じにされます?」

 綺麗に整えられた髭を生やした30代後半くらいの美容師が、私に問う。


 先日インスタグラムで見つけたショートカットの女性の写真を見せながら、「こんな感じでお願いします」と伝えれば、彼は「了解です」と笑顔で答えた。


 この美容室に来るようになってから4回目だ。リピートしている理由は、余計な会話がないからである。

 美容師は黙々と髪を切り、指定した通りの色を入れてくれる。

 その間、普段は手に取らないような可愛らしい女性誌をパラパラと捲ったり、薄くかかるBGMに聴き入ったりしてぼーっと過ごすのが好きだった。今日は落ち着いた洋楽のプレイリストが流れている。


「髪、伸ばさないんですか?」


 だからその日、珍しく美容師から話しかけられて、必要以上に驚いてしまった。


「え」

「いや、とても綺麗にケアされてるし、ロングも似合いそうだなって」

 余計なこと言ってすいません、と彼は続けた。

「あ、ありがとうございます。そろそろ伸ばしてみてもいいかなぁとは思うんですけどね」

「ずっとショートなんですか?」

 素早く的確にハサミを入れながら美容師は問う。

「中学2年生の頃からずっと…そういや15年以上短いままですね」

 あれから15年以上経っているのか。月日の流れの速さを感じる。

「へぇ、じゃあもうトレードマークになってるんですね」

「あー、確かに昔から髪短いキャラで通ってるんで、突然伸ばしたら不審がられるかもしれないですね」

 私が笑うと、美容師は「もしイメチェンしたくなったら言ってくださいね」とだけ言って、また静かに作業を続けた。


 私はいつになったら髪を伸ばせるようになるのだろう。


 ✳︎


 美容室を出ると、近くの公園では桜が咲いていた。もう満開なのは、川沿いのものと品種が違うからだろう。


「リョウちゃん」


 公園のベンチに座っていたカイトが私を見つけて声をかけた。


「ごめん、お待たせ」

「ううん、全然待ってないよ。お、良い感じだね」

 こうやってさらっと褒め言葉を言えるカイトは、私にはないものを持っている人だと思う。

「ありがとう」

「散歩してたら近くに良い感じのカフェ見つけたんだよ。行かない?」

 彼は恋人としてこれ以上ないくらい満ち足りた人だ。一緒にいる時間はとても楽しかった。

「行きたい」

「よっしゃ。あっちだよ」

 カイトは私の右手を掴んで誘う。ワクワクしたその声も好き。嬉しそうな表情も。




 カフェはレンガ造りの小さな建物の1階にあった。

 いくつかの植物の鉢が無造作に店先に置いてある。手作りの『Open』の札がドアノブで揺れている。


『Cafe vaguelette』


 木製の立て看板には、こう書いてある。


 ドアを開けると、カウンターの中でコーヒーを淹れていた女性の店主が「いらっしゃいませ」と微笑んだ。


 カイトが手で2を示しながら「2人です」と言うと、彼女は「お好きな席にどうぞ」と言った。

 私たちは窓際のソファ席に座って、カフェオレとアイスコーヒーを注文する。


 店内には、心地良いボサノヴァが流れていた。レコードが置いてあるのは、音楽も店主のこだわりであるという証だ。

 新聞を読む老紳士と女性客2名がそれぞれの時間を過ごしている。


「素敵でしょ?」

 カイトは満足気に言う。

「うん、さすが。よく見つけたね」

 彼はこういう穴場のカフェを探すのが上手かった。

 でもそれは、カフェ好きの私のために常日頃からサーチしているからということを私は知っている。


「リョウちゃん好きそうだなって思ってさ」

 彼のこういうところが素敵だと思う。

「うん。好き。素晴らしい昼下がりって感じ」

「よかったぁ」

 カイトが幸せそうに私を見つめるとき、幸せを感じるのと同時に、私の胸はひどく締め付けられる。

 ああ、また耳元で波音が聞こえる。



 ✳︎



「リョウちゃん」

 私を呼ぶカイトの声で目を覚ます。


「そんなとこで寝たら風邪引くよ」

 カフェに行ったあと、私たちはデパ地下でお惣菜を買ってきて家で晩酌をした。

 少し贅沢でありながら、穏やかな夕飯だった。

「ん…。ありがと。ちゃんとベッドで寝る」

 風呂から上がってテレビを見ているうちにソファで微睡んでいたらしい。

 カイトはやれやれといった表情を浮かべ、「リョウちゃんしっかりしてるのに、寝落ちしちゃうのは一向に治んないなぁ」と言った。

「眠気って最強だからね、こんなに強い私でも勝てないんだよ」

 あくびをしながら言うと、彼は「はいはい。戦わなくていいから早くベッド行って眠気と友達になってきな」と笑った。


 いつからか私は『しっかりしている人』になった。あの島を出て、内地の高校に行っているときだろうか。東京に来てからは、もうすっかり周りの皆の姉のような存在だった。


 そんな私の目の前に、2年前に現れたのがカイトだった。

 同じ職場の一個下の後輩で、可愛がっていたら懐かれた。まっすぐな目で告白されて、断っても諦めずにしぶとかった彼を、最終的には受け入れた。

 カイトと2人で穏やかに過ごす日々。

 これこそが幸せなのだろうと思った。

 私のことを好いてくれて、優しく抱きしめてくれて、弱いところも受け止めてくれる人。

 私はそんなカイトのことが好きで、この感情に嘘はない。


 そう、これだけは嘘じゃないのだ。



 ✳︎



『Cafe vaguelette』


 扉を開けると、カウンターから「いらっしゃいませ」と女性の声が私を出迎える。


「カフェオレでよろしいですか?」

「はい、お願いします」

「かしこまりました」


 店主は、爽やかな笑顔でコーヒーを淹れ始めた。

 先日カイトと来たとき、まるで初めてのような態度を取ってしまったが、本当は何度もこの店に来ていた。

 耳元で鳴り響く波音も、この店で流れるボサノヴァとコーヒーを淹れる音で上手く和らいだ。私にとって大切な、ほっとできる場所だった。


 寝落ちてしまう弱さを見せたところで、全てをカイトにさらけ出せるわけではない。嘘だらけの私。


 この店の店主は、聡明な人だった。聞くところによると、有名な私大の文学部卒らしい。OLを辞めて、常連だったこの店を継いだそうだ。

 年齢は40代後半くらいだろう。

 仕事の悩みや彼との話、そして過去に好きだった人の話もしたことがある。

 名や性別は伝えていないが、「私にも、ずっと忘れられない人がいますよ」と彼女は言った。

 彼女と交わす会話は、私の心の支えだった。



「お相手、素敵な方でしたね」

 店主はカウンターにカフェオレを置きながらそう言った。

「ありがとうございます…。すみません」

 勘の良い彼女のことだから、まるで初めてのようなフリをしていた私に気付いていたに違いない。


「誰にでも秘密はあるものですよ」

 言及せずに微笑むだけの、程よい距離感が心地よかった。


「良いカフェがあるよってすごく楽しそうに言って連れてきてくれたから、言い出せなくて」

 私の言葉に、店主は「優しい嘘ですね」と言った。

「そんなことないです。嘘をつきすぎて、感覚が鈍っているだけで」


 私の言葉を聞いて、店主は手にしていたトレーを静かにカウンターに置いた。


「感覚が鈍るの分かります」

 遠くを見つめながら、彼女は続けた。

「私もどれが本当の自分なのか、時折分からなくなってしまうので」


 店主は微笑んで続ける。


「嘘つきの方が、むしろ正常なんじゃないかと私は思いますよ。全てをさらけ出せるなんて正気じゃない」

 彼女ははっきりと言った。


「それがたとえ、誰も幸せにならない嘘だとしても?」

 本当の私は、ずっと波の中にいる。


「嘘なんてそんなものです」

 店主は穏やかな瞳で私を見つめた。


「怖いんです。本当のことを言うのが」

 カイトをちゃんと好きだった。彼を手放すのが怖かった。でも、両立してはいけないはずの気持ちが私の中に二つ存在していた。

 この真実が、私を苦しめ続けている。


 店主はいつも優しく話を聞いてくれる。こんな曖昧な話でも、真剣な表情で。


「たとえ私があなたの立場だったとしても、同じように嘘をつき続けると思います」


「どうして、ですか」

 こういうときは、本当のことを言った方がいいよと諭すものなのかもしれないけれど、彼女は常に私に寄り添ってくれる人だった。


「だって、ずっと苦しみ続ける方が楽じゃないですか」


 私はいつだって楽な方を選びますよと、彼女は遠い目をして言った。


 ✳︎


 川沿いの桜は満開だった。

 約束通り、週末にカイトと花見に来た。


「綺麗だね」

 彼はキラキラとした声色で言った。

「うん」


 桃色の花弁が水面に散る。くるしいほどに美しい。

 どこからか波音がしたのは空耳。


 私は今年も、あの白くて細い腕を思い出す。


 繋いだ右手で、骨ばった左手を確かに感じながら。


 行き交うカップルや家族連れも皆、桜に夢中であった。私には勿体無いほど眩しい春だ。


「リョウちゃんってさ、たまにそうやって苦しそうな顔をするよね」


 歩きながら、カイトはおもむろに言った。


「……そうかな」

 驚きのあまり、少し声が詰まる。


「リョウちゃんのことずっと見てるんだから、それくらい分かるよ」

 彼は苦笑いしつつも、その声色は全てを包み込むように優しかった。


 風が吹き、桜が舞う。


 言葉が出なかった。


「ずっと僕にバレてないと思ってたでしょ」


 うん、思ってた。


 心臓が握りつぶされたように痛くなる。

 嫌だ。それ以上言わないで。


 波音は、一際大きく私の耳元で鳴る。


「ほんとは、他に好きな人がいたりして」


 ちょけたように、それでいて少し声を震わせながら彼は言った。


 どくどくと全身で心臓の動きを感じて、足を止める。


 少し前に進んだカイトは、ゆっくりと振り返った。


 繋いだ手はそのままに、脳裏であの日の暗い海底を思い出す。

 深く深く暗い海。


 全ての音が止まる。


「いないよ」


 私は強くて、悪い人だから。


 カイトは少し目を潤ませていた。こんな顔初めて見た。

 リョウちゃん、と彼は私の名を呼ぶ。

 また声を震わせる彼を、首を横に振って静止する。


「私が好きなのはカイトだよ。カイトしかいないよ」

 嘘に真実を混ぜると信憑性が増すらしいと、どこかで聞いたことがある。

 でもさすがに限界があると思う。


 それでもきっと、優しいあなたは、私に嘘をついてくれるでしょう?


「ね?」


 捻り出した私の小さい声は、確かに彼に届いた。


「……うん」


 好きな男を泣かせるなんて、私は最低の女だ。


「ごめんね」


 私の口からこぼれた謝罪は、偽りのない気持ち。


「それは、何に対してのごめんね?」

 カイトはこんな時でも優しい声だった。


「……カイトを不安にさせちゃったことに対しての、"ごめんね"だよ」


「そっか。こっちこそ、変なこと聞いてごめんね」


 桃色の世界は、私には眩しすぎる。

 それでも、この世界で生きていたいのだ。


 死ぬまで嘘をついていれば、いつかこの嘘は真実に変わるかもしれない。


 波音は、少しだけ遠ざかっていった。


「全然関係ない話だけどさ、カイトは髪長いのと短いのどっちが好き?」


「んー」


 長いの見たことないけど……僕はやっぱり、短いのが好きだな


 カイトがそう言ったから、私は次も短く髪を切るだろう。


 あのえくぼが脳裏に浮かぶ。

 私は今でも春が嫌いだ。



(終)



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