復讐するは君にあり

西園寺兼続

東欧革命の片隅で、私の人生はめちゃくちゃになった。

 あの年のラヴァキアの春、私はパパとママと幼馴染のトーリカを失った。春ってもっと穏やかなものだと思っていたのに。

 パパは内戦初期に旧ソ連の傀儡だった旧政権軍に徴発されて、知らない田舎の戦闘で行方不明になった。ママは開戦からしばらく経って、西側の支援を受けたラヴァキア自由化戦線RFRの難民キャンプに向かう途中、裏切者を許すまいと襲撃してきた旧政権軍に殺された。勇敢なトーリカは追撃を逃れるため私を連れて荒れ地を走ったけど、途中で強盗みたいな民兵たちに捕まった。私だけが運よくすべて逃げおおせた。

 私だけが、春をやり過ごした。

 夏と秋をどう切り抜けたかは忘れた。でもその年の冬は特にひもじかったのを覚えている。皆とにかく何か燃やしたがっていたけど、畑や工場を焼くのはやめろ、なんて誰も言い出せない雰囲気が蔓延していた。あれが東欧革命における弱小国家の末路だったと、ずっと後になって理解した。旧政権軍が壊滅してRFRが新政府を名乗った後も、私たちの失ったものが返ってくることはなかった。分厚い札束の価値がペラペラになって、お鍋を薄いスープで満たしてもお腹は空っぽのままで、何年も経ってやっと戻れた我が家は瓦礫の山で。

「プリーチャ、誰が悪かったんでしょう?」

 ラヴァキアの春が終わって六年目の春。教室の外では、バラバラな出身の子供たちが故郷の歌を教え合っていた。

 私の持つカップの水面が震えているのを見て、頑強な日焼けした掌が優しく包み込んでくれた。それでしばらくは震えが収まるのを、彼は知っている。マシンガンの反動を軽く抑えるぶあつい手が、私のちっぽけなガタつきを受け止めてくれる。それは注がれた紅茶よりも暖かい事実だった。

「……ありがとう。平気です、プリーチャ。でも、あなたはいつも答えてくれない。そんなに難しい質問でしたか」

 プリーチャはRFRの将校だった男で、内戦終結後に孤児院を開いて私のような子供を育てている。本当の牧師様プリーチャじゃない。正式にプロテスタント教会の認可を受けてはいないし、本人もあまり聖書には感心がないみたい。彼はただ子供たちの心の傷を聞いて、どうすれば痛みが止まるのか、一緒に精一杯考えてくれるだけ。

 私の中には、あの畑や工場が燃やされ、家や家族や友達が灰の中に埋もれていった日々の、残り火が燻っている。

「教えてください。誰を憎めばよかったのか」

 正解はきっと、RFRに下った全ラヴァキア人が知っているはずだった。あの犠牲は忘れろ。灰の中には何もないんだ。この国の支配者が東側から西側に移った、それをただ新時代の幕開けとかいって喜んでいればいい。前に進める人たちはとっくに進んでいる。新自由主義の流れに乗ってお金を稼いで家を買い戻し、新しい家族を作っている。

「アレーナ、私の目をみなさい」

 プリーチャの傷だらけの顔に向き直る。彼の左目は砲弾の破片を受けて失明していた。片方だけの世界の中心に私を据えて。

「贖うんだ。たとえ誰かが悪くなくても、失ったぶんだけ埋め合わせるんだ。それしかない」

 衛星国時代に禁止されていた民謡が、窓の外から流れて来た。プリーチャが、歌えるようにした。彼は元々アメリカの大学からこの国に招かれた民族学者だった。かねてから東側の抑圧によってラヴァキア人の文化が禁止されていくのを深く憂い、それでRFRの義勇兵として志願したそうだ。戦後になってようやく歌を禁じられた子に「素晴らしいことばを皆に聴かせてあげてくれ」と促したのは随分と時間がかかってしまったけれど、それはきっと希望のあることだった。

 ぶあつい手が私から離れた。私はまだ暖かい紅茶を飲み干した。


 孤児院を出て徒歩十分、いつも買い出しに行っている市場をあてもなく歩く。他の子たちと離れて過ごしているとプリーチャは心配するけど、五年ばかりこの孤児院で過ごしていればたまに独りになりたいときもあるって理解してくれる。

 プリーチャはがんばって答えを捻り出してくれている。でも私の望むような答えじゃない。じりじりと延焼を続ける火種を抱え続ければ、いずれ私を灰にして、パパやママやトーリカのもとに連れて行ってしまう。あんな死に方はいやだ。手放して、爆弾にして、もっとも憎い敵に投げつけて、そいつの大切なもの全部を焼き払って灰にしてやりたい。贖うのはわたしじゃないだろう、お前なんだよ、って……心の底から叫べる敵が欲しい。

『__ラヴァキア国防局より、先月より続く無差別テロ事件について追加の情報が発表されました。元RFR将校を狙った連続殺人__』

 横切った露店の食堂で、ふいにラジオニュースが耳についた。昼食時の労働者たちが食器を置いて、息を潜めて聴き入っていた。店主のおばさんもやんちゃ坊主の頭を押さえている。私も立ち止まる。

『旧政権軍の中核を構成していた国家憲兵隊ジャンダルメリヤを名乗る武装組織が、声明を出し__ヴォルコフ大佐率いるおよそ数千の義勇兵が潜伏しているとの__』

 意味のない名詞が続く。斬首作戦で切り落とされた首がまだ動いている、それだけの話だった。ジャンダルメリヤもヴォルコフ大佐とやらも、明日には私の記憶からさっぱり消え去ってしまうかもしれない。旧政権に義理立てするような恩義なんて今生きてるラヴァキア人には何一つ存在しないから、彼らの掲げるテロの大義が空っぽなのはすぐに分かった。そして、今やソ連に彼らを支援するような余裕がないのも事実だから、彼らの目的が権力やお金じゃないのも想像がついた。

『ヴォルコフ大佐は、内戦におけるRFRの戦争犯罪および欧米各国の不当な介入を裁くとして、__』

 義でも利でもないのなら、もうその動機は決まってるんだ。

 焼き払って灰の中に、埋めてしまいたいんだ。そこに思い至ったら、私はふいに安堵した。

 私だけじゃなかったんだ。

「ふふっ」

 食堂の客の一人が怪訝そうに振り向いた。テロが頻発しています、もちろん面白いことじゃない。私はさっと孤児院の方へ踵を返した。


 ねぇ、テロが流行ってるんだって。まぁ、護身用の銃を用意しなきゃ。ラジオの広告効果って凄い。でもラヴァキア人民共和国では、民間人に銃を売ってくれない。当時徴兵された人たちは当然のように武装解除され、ソ連やアメリカから(第三国経由で)流れて来た大量の銃火器は国軍の倉庫に仕舞われている。

 でも、素直に手放さなかった人もいる。

「テオ、今大丈夫?」

 孤児院の教室はたった二つ。片方はプリーチャが子供たち一人ひとりのカウンセリングをするお悩み相談室で、もう片方が初等教育をするところ。授業のない日でもこっちの教室にいるのは、テオくらいのものだ。孤児たちの中で最年長の彼は、戦災被害者の子を支援するNPOの手引きを受けてじきにここを去る。外国で就職するらしい。

「アレーナは大丈夫なヤツだと思ってた」

 テオは私を見るなり、ドイツ語の雑誌を脇に置いた。ベルリンの壁にまつわる一連の報道にはまるで無関心な、パンクだかメタルだかの音楽誌だった。

「私が大丈夫じゃないヤツって?」

「お前は……プリーチャの言葉を正しいと思いたがってる。でもそれじゃやってられない。そうだろ?」

 私はまだ何も話してない。テオは全てを知った顔で席を立って、私を手招きした。

「銃が欲しいんだな」

 孤児院のすぐそばの工場街からバスに乗った。ほんの三十分くらい揺られると、私が知らなくてテオが知ってる郊外の停留所に停まった。そこで降りるのは私たちだけだった。六年前の春に燃やされたきりの、廃倉庫群があった。

 おっかなびっくり、テオに着いていく。中毒者とか、お金や家の無さそうな人とか、単純に悪そうな人とかがたむろしている。けれどここの支配者は空席らしい。唯一、手製のボロい演説台で原始共産主義だかの理想を唱える男がいたけど、きっと彼はリーダーになれないだろう。誰も働く気がない、集めて分配する富もない。

「ここでいいか」

 組み立て中に壊れたままの農機を踏み越えた先、ほこりっぽい空気が滞った小さなスペースがあった。天井に開いた穴から陽が降り注ぐ。そこに隠してるのかな、と思ったら違った。

 テオが私の両腕を掴んで汚れた壁に押し付けた。同時に脚の間を無理やり開けられ、股間の下に膝を押し当てられる。テオの眼差しは雑誌を読んでいる時と同じで、冷めていた。

「……つまんない冗談?」

 ひとかけら、テオの善性に期待してみる。だってテオはRFRの元義勇兵で、プリーチャの部下として戦った勇敢な青年で、それで……それでも、私は彼が後ろ暗いものを隠していることを知っていた。だからこの展開を覚悟して頼った。彼はゆるゆると首を振った。

「埋め合わせるんだ。アレーナが、俺を」

 反論は封じられた。髪を掴まれて無理やり唇を塞がれた。トーリカへの罪悪感が一瞬だけ沸いて、ふっと消えた。幼馴染とはいえガキんちょ同士の仲だったし、どうせ死んでる。あの時私の手を引いてくれた精一杯の力がどれだけ頼りなかったか、もう思い出すべきじゃないんだ。今更過ぎる。音楽誌を捲るダウナーな青年が怠そうな手つきで、私の身体を乱暴に弄ぶ。別に愉しんでいるふうでもなくて、どこに目当てのものがあるのか最初から分かり切っているようで、それはお互いにとってひどく不愉快な行為だった。

「アレーナ。お前は、プリーチャが何をしてきたか、あいつが誰なのか知っているか?」

 唇が離れた途端に口を付くのは私たちの先生のこと。

「知らない。でも今のテオを見たらきっと怒るよ」

「怒らないさ。ヤツはこういう悲劇の発端を必死に考えて、それで悲しむだけだ。んで、レイプ被害者のアレーナちゃんをそっと慰めるんだ」

 恵んでください。お金は払えません。安いものですが、私の身体を好きにしてください。思い出した……六年前の夏と秋とを、こうして乗り切ったんだ。最初の相手は民生委員をやっていた親戚の叔父さんだった。でもRFRと旧政権軍のプロパガンダがぶつかり合った結果、ラヴァキア人は誰も意識してなかった出自ごとの民族に分裂して、体面を気にした叔父さんは私を捨てざるを得なくなった。冬にプリーチャが拾ってくれるまで、ナントカ系ラヴァキア人を匿ってくれる知らないおじさんに、いっぱい身体を売った。

 なんで髪を掴むのかな。私はどこにも行けやしないのに。テオはドイツに行くんでしょ?

「RFRの為に戦えば、旧政権側に着いた民族の女は好きにしていいって、あの時プリーチャは言ったんだ。そうやって、あいつは義勇兵を調教した。同胞同士で気兼ねなく殺し合えるように」

 乱暴に服を剥がされ、乳房を掴まれる。握りつぶさんばかりに。痛みの中、きっと私の心臓を掴みたいんだと感じた。

「プリーチャの贖いは、俺とお前みたいなヤツを同じ孤児院で仲良く育てることなんだよ。そんなので、埋め合わせようと、してるんだよ! 無駄なんだよ! お前も分かってるだろ! だから銃一丁のために汚ねぇ床で股開いてんだろ!」

 痛い。もう血は出ないはずなのに、ひどく痛んだ。彼を埋め合わせることはできない。戦争の中のセックスだった。犯すことで彼は削れて、私は抉られた。行為の終わり、中に出すのだけは止めてくれた。前に孤児院に来るNPOの人が教えてくれたけど、これじゃ充分な避妊にはならないらしい。六年前に知りたかったな。

「はっ……はぁ……銃、くれてやるよ」

 テオが手早くズボンを穿き直した。私はほこりを払いもせず、精液を拭いもせず、よろよろと後に続く。工場裏の雑木林に、RFRの立看板があって『地雷原 立入禁止』と書かれていた。

「取ってくる。絶対に着いてくるな」

 なるほど、素晴らしい隠し場所だった。内戦中に埋められた地雷を除去する団体はこの国にいっぱいいるけど、彼らも西側の資本に動かされてる。価値が薄い土地の小規模な地雷原はこのように、今日の今日までほったらかし。彼は地雷原を進んで、一度埋めたものを掘り返して戻ってきた。

 厳重に梱包された大きなスーツケースの中に入っていたのは、リボルバー式の拳銃が一丁きり。あとのスペースには弾薬と予備のシリンダーと、各種整備道具。残った隙間に防腐剤が詰め込めるだけ。

「大事なものだった?」

「別に。旧政権軍の捕虜を処刑……じゃないな、虐殺するのに何度か使った。そういう曰くの付いたものを手放すのが怖くて、埋めた。死にたくなったらこいつで自殺するつもりだった。まぁ、もういいんだ」

 それがテオの贖いだったのかな。たまたま彼に勉強の才能があって、NPOが誘ってくれたから、彼は外国で就職することを決められた。だから今日まで火種を燃やさなかった。私が問わなければ、彼は一生それを生ぬるく保ち続けられた。

 テオはひとしきり銃の扱いと整備方法を教えてくれた。長く使うつもりはないと言うと、彼は銃と弾薬以外をスーツケースに戻し、地雷原に埋め直した。「長生きするつもりはないってことだな」って、皮肉られた。最後まで私が誰を撃ちたがっているのかは聞かなかった。聞かれたら、私も困る。ジャンダルメリヤって本当に千人もいるのかな。ヴォルコフ大佐ってどこにいるの? 誰を撃てばいいんだろう。お昼の献立みたいに芽吹いた復讐計画はまったくの夢物語だ。


 夕刻、テオと別々に孤児院に戻ると、玄関前でプリーチャが肩を怒らせて待っていた。

 テオは門柱に背を預け、ぐったりとうなだれていた。既に何発か殴られたようで、頬に青あざをつくっていた。

「アレーナ、テオに乱暴されたな?」

 私の目がプリーチャとテオの間を泳ぐ。無意識に、銃が入った鞄を握りしめる。テオが黙って自分の鼻を指し示した。プリーチャは鼻が利く。匂いに敏感ということもあるけど、規律を破った兵士の態度を見抜くのが上手い。子供の態度の裏を見抜くのも当然上手い。私とテオが用もないのに昼から出かけたのと、夕方に別々に帰って来たのと、テオの服や身体が古いほこりで汚れていたのを見て疑念を抱き、小遣いの減り方から逆算してバスでどこまで行ったのかまで突き止めたらしい。あの廃倉庫群、金と行き場のない若者たちの、いわゆるヤリ場、みたい。

「えっと、プリーチャ、違くて」

 えっと、なんて言ったらもう「はいそうです」と同じじゃんか。付け焼刃の言い訳が喉から出る前にテオが遮った。

「いいじゃないですか、プリーチャ。アレーナは売女なんでしょ? それも旧政権の奴らに腰振ってた」

 プリーチャがテオの胸倉を掴み上げた。決して小柄じゃないテオの踵が地面から離れた。それでも臆せず、テオは私たちの先生を挑発する。

「対価を与えて、俺たちはよろしくやってたんです。文句があるんですか?」

 プリーチャはテオを片手で吊り上げたままもう一度平手を振りかざした。

「あるなら言えよ、上官殿!」

 力なく、その手は垂れ下がった。

 プリーチャは将校の身体をしていても、将校の顔を私たちには決して見せない。悲しんで、必死に考えて、どうにか失ったものを埋め合わせようとする。

「テオは部屋に戻りなさい。私の許可があるまで、外出禁止だ」

 私の腰を、ぶあつい掌がそっと押す。

「病院に行こう、アレーナ。避妊薬を貰わないと」


 就業間際の外来にプリーチャが顔を出すと、看護婦は二つ返事で婦人科まで通してくれた。私がどう見てもレイプ被害者だったのもあるけど、そんな事件は内戦後のラヴァキアじゃありふれてる。プリーチャがこの辺でも有名な慈善家として顔を利かせていたのが大きいと思う。先にシャワー室に通されて、身体を洗わせてくれた。それから女医さんに細かい身体の傷を含めた状態を診てもらった。彼女は私より待合室に座るプリーチャを気にして、すごく慎重に、割れた卵を扱うように診察してくれた。

「その……かたちが、普通の、いえごめんね、多くの女の子より歪んでいるのは」

「小さい頃から売春してました」

「あぁ……ごめんなさい、何と言ったらいいか」

 私は何も言われる筋合いなんてない。何か言いたいのはあなたの自己満足でしょう。私はそうと言わずに、女医さんの憐憫を受け止めた。

 処方されたアフターピルを持ってプリーチャの元に戻ると、彼は立ちすくんでいた。診療所のラジオから流れる夜のニュースに、無意味な睨みを効かせている。

『__工業区近郊に出没した武装集団は、元RFR将校を標的とする旧政権支持派であると声明を出しています。この突発的なテロと国家憲兵隊(ジャンダルメリヤ)との関連について、当局は調査中であると__』

『こちらラヴァキア国防局。当該地区の全市民に、戒厳令を通達する。外出中の場合は国軍の展開を妨げないよう、むやみに家に戻らずその場に待機するように。当局の指示に従い、冷静な対応を__』

 元は核攻撃を知らせるために町中に設置されたサイレンが、初めて鳴った。私はプリーチャと顔を見合わせた。

「孤児院を見てくる。アレーナはここで待ちなさい」

 元RFR将校の判断は早かった。でもそれって先生がやらなきゃダメ? あなたは市民じゃないの?

「プリーチャ」

「なんだ」

「あなたが悪いの?」

 贖いとは、罪を犯した者がすること。

「ああ」

 広い背中で答えたプリーチャは、サイレンの降り注ぐ街路に飛び出していった。制止しようとした受付の看護婦は一秒で我関せずの態度に乗り換え、頬杖を付いてラジオに聞き入る。残されたのは半端に手を伸ばした私と、椅子に置かれたままの鞄。プリーチャによって鞄の中身が検められたことは一目で分かった。なのに、拳銃はそのままあった。これがあれば万が一テロリストに襲われても反撃できる可能性があったのに、プリーチャはその活路を放棄した。

「どうして」

 鞄を抱えて、私は診療所を転がり出た。とっくに前を行くプリーチャの背中はもう見えない。けたたましいサイレンの下を駆け抜ける。遠くで銃声がした。通いなれた孤児院までの道がひどく遠くて鼓動が早まる。視界の端で空の一角が赤く光った。遅れて爆音。交差点で国軍の装甲車が飛び出してきて、慌てて商店の看板に隠れる。同時多発テロみたいだ。再び爆音、今度は正反対の方角で曳光弾が空に飛び上がった。

 走るたびに拳銃の重みが鞄の中で跳ね回る。どうしても、こうも。引き金を引くことは贖いではないと、彼はずっと私に示していたのだ。家族を殺されても聖者のように在りなさい。穿たれた穴をその身で埋めなさい。

 冗談じゃない!

「ふざけんな! ふざけんな、ふざけんなふざけんな!」

 今まで生きてきて、言いたくても口をつぐんできた汚い罵倒が、勝手に喉から溢れ出る。きっと私だけじゃない、テオもだ、みんなナントナクで武器を手に取って、銃弾がどこに当たるか考えるかまでしか考えられなくて、標的を穿った後、その弾が跳んでいくか考えもしない。私が民生委員の叔父さんに股を開いていたとき、アメリカもEUもそんな可哀想な人種は存在しないような態度で人道的な支援を表明し続けていた。その結果がこれだ。

 プリーチャのせいなの? 東側でも西側でもいい、あなた以外の誰かが悪いってはっきり言って欲しかった。あの冬に私を救い上げてくれた先生が贖うべきだなんて死んでも言わせない! 私の自業自得でも、前世の罪でも、主の与えたもうた試練でもいい! この焼き尽くすような理不尽をどうやって払いのけたらいいのか、私は知りたい。答えを求めて肺が千切れそうになりながら走り続ける。胸に溜まった火種の中から、パパが、ママが、トーリカが、私を内側から焼き尽くそうとする。

 そこかしこから聞こえる銃声が、すべて孤児院で鳴ったように錯覚する。そうであってはならない。でもそうであって欲しいような、私の敵がいるという残酷な期待が混じって胸が焼け爛れそうになる。

「プリーチャ!」

 鍵の開いた門を肩で押し開け玄関に踏み込む。覚えたての拳銃の構え。ちゃんとセイフティを外した。テオの気遣いで、すぐ撃てるように装填されてる。追いついた。

「来るな!」

 教室の中心に立つプリーチャの鋭い叱咤。もう遅い。もう遅かった。血の匂いがした。

 床に、子供たちが転がっていた。穴が開いた真っ赤な子供たち。勉強机を脇に寄せて、彼らは並べられてたんだ。その中にはテオの姿もあった。全員、死んでいた。捕虜を処刑する段取りが粛々と執行された痕跡だった。六年前、叔父さんの家の納屋の窓から、街路に並べられたRFRのスパイとされた人たちが旧政権軍に撃ち殺された光景を覗き見ていた。同じだ。

「でも来ちゃったんだよね。健気な教え子じゃん、アメリカ人」

 その光景を作り上げたひとがひとり、本来プリーチャが立つはずの教壇に腰を預けていた。青年、いや、まだ少年だった。簡素なプレートキャリアと銃床を切り詰めたソ連製のサブマシンガンは、スポーツバッグに収まるくらいの陳腐な武装だった。

 彼の顔には見覚えがあった。

「……トーリカ?」

 成長した幼馴染は、昔よりずっと男らしく、戦争が染み付いた肌色をしていた。日焼けして、傷跡がたくさん付いて、返り血に塗れて。かたちばかり平和に暮らしていた頃の彼は、生き延びることはなかったようだ。

 生きてたの? は聞くまでもない。強盗まがいの民兵に捕まってそれっきり、彼も私と同じくやれることをやって生き延びたんだ。やれることが違うだけで。だから今聞くべきは、なぜ彼が「元RFR将校を狙う旧政権派テロリスト」の真似事をやっているのか、だ。

「どうして、って顔してる。僕の懐かしいアレーナ」

「覚えてて、くれたんだ」

「当たり前だ。忘れるもんか。君に会いに来たんだから」

「どうしてって聞いてもいい?」

 自然な動作でプリーチャが、サブマシンガンの射線から私を遮ろうとする。トーリカがおもむろに手近な子供の死体を撃った。昼には歌を謳ってた子の顎が砕けて、湿った破砕音を奏でる。

「もちろん答える……邪魔だよアメリカ人。幼馴染同士が戦地で感動の再開、ハリウッドで人気じゃないの」

 筋肉に覆われたプリーチャの背中は静かだった。彼の贖いはここで打ち止めになった。油を掛けて火を灯せば灰に還る。立ち尽くす大きな先生の身体は、怒りも悲しみも外には見せない。

宣教師プリーチャ―たちがラヴァキアをめちゃくちゃにしたんだ」

 トーリカはせせら笑う。残酷なまでに憎たらしく、それはちょうど私の求めていた敵のようだ。

「民族浄化って言うんだろう? ありもしない民族同士の対立をアメリカの広告会社と協力してでっち上げ、都合のいい対立構造に導くんだ。旧政権とRFR、どちらが先に始めたのかと言うならば、まぁ後者なんじゃないか」

「だからRFRの元将校を狙ってるの?」

 もう私の銃口は跳ね上がっていた。プリーチャはトーリカを警戒して動けない。

 敵!

 敵!

 私の敵!

 頭の中の地獄で藻掻く過去の遺灰、私の最も求めるひと!

「そうなるかな。旧政権派は、この立派な戦争犯罪を立証して勢力を巻き返したがってる」

 窓の外、遠くで何かが爆発した。かすかな悲鳴が瓦礫の崩れる音に混じって、すぐ掻き消える。きっとヴォルコフ大佐とやらの率いる千人の義勇兵たちが街をめちゃくちゃにしているんだ。きっとトーリカもそいつの思想にかぶれてテロリストに成り下がったんだ。

 悲しいかな、あなたを撃てば私の火は燃え尽きる気がする。きっと、きっと、そうに違いない!

「でも、僕らが銃を取るとき、そんな難しいことは考えなかった」

 力を込めた指が引き鉄の五ミリ前で止まる。

「奪われたぶんだけ奪い返そうって……贖わせようって、思ったんだ。ソ連の抑圧から解放してあげました、自由を与えます、内戦は悲しい出来事でしたね、我々が支えるから一緒に頑張りましょうね……そんなの、僕らは認めない」

 トーリカは虚ろな目で死体たちを眺め回した。

 子供たちは歌を教え合っていた。テオはドイツで就職するはずだった。プリーチャはラヴァキアの春の贖いを、完遂するはずだった。燻り続ける私の火種を差し置いて、彼らはまた次の季節を迎えようとしていた。

 私より先に火種を爆発させたトーリカは、けれどひどく虚ろだった。塞がらない傷から、彼の諦観を宿した言葉が溢れ出てくる。

「でもアメリカ人。どういうわけかあなたは今、すごく救われたような顔をしている」

 プリーチャは沈黙する。じわじわと床を侵食する子供たちのおびただしい血が彼のつま先に到達する。彼は動かない。私は銃をトーリカに向けたまま、プリーチャの横に並び立って、その表情を見上げた。

 全身の毛穴が泡立つような、錯覚がした。

 プリーチャは笑っていた。ぎちぎちと私の方に首を曲げながら、彼はなんとか唇の歪みを正そうとしていた。見ないでくれ。遅いよ、見ちゃった。

「私が悪いんだ」

 診療所から出る前に出した答えを、プリーチャは繰り返した。それは懺悔だった。贖いを終えた人間の、自己満足の言葉だった。ぶあつい手が私の肩に優しく触れようとする。

 阻止するように、トーリカのサブマシンガンが数度跳ねた。プリーチャの腰と膝が側面から撃ち抜かれ、彼は床に崩れ落ちた。またぎちぎちと首を上げて、私に懺悔する。

「私が悪いんだ……アレーナ」

 失ったぶんだけ埋め合わせる。

 殺したぶんだけ殺される。

 かつて宣教師プリーチャ―たちが分断したラヴァキア人の片割れが、収奪に来るのを待っていた。犯した罪を償うために善行を重ねます、だけじゃ納得できない人たちのために。私やトーリカみたいな火種を抱えたままの人たちのために。

 大切に育て上げた私たち孤児が理不尽に奪われて初めて、プリーチャの贖いは完結するんだ。私たちは怒れる神を鎮める贄として、彼に育てられていたんだ。やっと、彼は救われたんだ。

 血と共に温度を失っていく身体を、それでも私にひれ伏すかたちに折り曲げようとする。

「埋め合わせて、くれ、アレーナ」

 プリーチャの半分の視界が濁りつつあった。トーリカはまるで興ざめと言わんばかりに銃を下ろして、私の裁決を待っている。

「プリーチャは悪くないよ」

 私はそっと血だまりの中に膝を付けた。スカートに先生の暖かい血が染みわたる。プリーチャの最期の視界に拳銃を、突き付ける。彼の頭の中にも私と同じ地獄があって、それは魂を灰の中に引きずり込んで空っぽにしてしまう。満たしてあげたい。埋め合わせてあげたい。

 祈るように、引き鉄を絞った。


 トーリカが気だるく拍手を送る。

「アレーナ、僕と一緒に来ないか」

 ひとつ増えた死体の傍を離れ、懐かしい幼馴染に向き直る。

「君に会いに来たって言ったろう。そのために国中の孤児院の名簿を探って、任務に立候補した。旧政権派は戦士を必要としてる。ヴォルコフ大佐にとっては元RFR将校の粛清が優先事項なんだけど、僕が同志を連れて帰れば国家憲兵隊(ジャンダルメリヤ)の皆も歓迎するはずだ」

 トーリカの言葉は、明日にも忘れてしまいそうだ。私の世界に難しい思想はいらない。どちらがより正しいかを考えるのは疲れた。誰も悪くないってことだけ知れたから、もうそれでいいや。

「悪いのは奴らだ。復讐するは我にあり。それでいいじゃないか。僕らは青春をやり直すべきだ」

「私はノンポリだから」

「……え?」

 また、引き鉄を絞る。シリンダーから噴きこぼれた火薬が熱い。トーリカのお腹に赤い穴が開いた。サブマシンガンがけたたましい音を立てて床に落ちる。

 私は教壇から倒れる幼馴染の身体を抱きとめて、彼の頭の中の地獄に囁く。

「もう贖わなくていいよ、トーリカ」

 畑や工場で生産することじゃ埋め合わせられない贖いを求めて、今この街中が火に包まれている。火は再び国中を首都から田舎の隅っこまで駆け抜けながら燃やし尽くす。また、トーリカの言う通り、ラヴァキアの春は繰り返すんだろう。会ったことも見たこともないけど、ヴォルコフ大佐とやらのテロが上手くいっても、どうせすぐに火刑に処される。削り合って、穿たれて、埋め合わせるものがなくなるまで虚しい贖罪が続くんだ。そうだね、テオ。本当に無駄だね。

 トーリカの耳に銃口を押し当てる。じゅっ、と熱い銃身に肌が焼ける。もう一発使って、彼の地獄を吹き飛ばす。こうして私以外、死体になった。


 サイレンが降り止まない。誰にも届かない小さな声で、私はプリーチャに願われた歌を謳った。ナントカ系とか、忘れた。これはラヴァキア人の歌だ。銃を片手に赤く明るい夜に繰り出して、私だけが歌い上げる。もう春をやり過ごそうだなんて考えは消えていた。だって私は悪くないんだから。怯えながら安い身体を売る必要なんてない、野火に焦がれて身体が灰に消えるまで、残弾を頼りに聴衆を募る。最後に私の頭の中の地獄を吹き飛ばしてやればハッピーエンドだ。もうそこにはパパもママもトーリカもいなくて、革命前の穏やかな家に戻れるんだ……なんてね。狂騒の中を駆けながら思う。

 必ず私も、誰かの地獄の住人になる。

 復讐するは君にあり。好きにすればいい。私は赤いこの春を謳歌する。さよなら、プリーチャ。また会おうね。

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復讐するは君にあり 西園寺兼続 @saionji_kanetsugu

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