恋に落ちたその瞬間

藤泉都理

恋に落ちたその瞬間




「やあ、先生。待っていたよ」


 教壇の上。

 教卓の後ろ。

 黒板の前で。

 男は弱弱しく笑った。


 男の名は、黒沼景義くろぬまかげよし


「ああ」


 先生と呼ばれた女の名は、影田かげたまさみ。

 昼は教職に励み、夜は、


「今日こそ君を成仏させよう」


 夜は、巫女の任に勤しむ。






 黒沼景義は生前、教職に就いていたらしい。

 生徒からはよく、「ヨアチョー」と呼ばれていた。

 黒板に書かれる文字が小さく弱弱しいので、弱いチョーク使いだと言われていたがその内、略して「ヨアチョー」に決定された。

 黒沼景義の文字は黒板以外では、大きく力強かった。

 では何故、黒板上だけ小さく弱弱しくなるのか。

 それは、黒沼景義の、とても痛ましい記憶がそうさせるのであった。


 黒沼景義。

 ピカピカの小学一年生。

 初めて先生に問題を解くように言われ、初めて教卓の上に立ち、初めて黒板を前にして、初めてチョークを持った黒沼景義は、とても気分を高揚させていた。

 自分が、グンと大人に近づいたような気がしたのだ。

 ふふん。はあ~ん。

 鼻息を荒く出して、鼻息を華麗に吐き出した黒沼景義はかっこよく、黒板に文字を、正解を書こうと、白いチョークを黒板に当てて、そして、勢いよく動かした。

 その瞬間だった。

 地獄の断末魔が黒沼景義の心身魂に襲いかかったのだ。

 小指の爪が黒板に強く、それはもう強く押し当てられていたばかりか、チョークを動かすと同時に、強く、それはもう強くひっかいていたのだ。否。ひっかくなど、生易しい。

 黒板をえぐり取っていたのだ。

 それからだ。

 たった一回のその悲劇が、黒沼景義の黒板上での文字を小さく弱弱しくさせたのである。


 黒沼景義の文字はそれからずっと、小さく弱弱しいままだった。

 死ぬまでずっと。

 黒沼景義は後悔していた。

 地獄の断末魔を恐れずに、思い切り、文字を黒板上に書けなかった事を。

 ゆえに。

 黒沼景義は今、こうして自我が保てる真夜中になると、黒板の前に現れる。

 小学一年生の時に通っていた学校の教室の黒板の前に。






「ほら。君は今、幽霊なんだ。思い切り黒板に爪を引っ掻いても、えぐっても、えぐり取っても、何の音もしないんだ。さあ。思い切り黒板に書きたまえ」

「は、はい」


 黒沼景義は影田まさみが用意した特殊チョークを、黒板に当てた。押した。あとは、力強く動かすだけ、だった。が。

 特殊チョークは黒板に強く押し当てられたまま、微動だにしなかった。

 否。動いてはいる。奥へ、黒板の奥へと、穴を開けんばかりに、動いては、いる。


「黒板が憎い気持ちは分かる。が。君が今すべき事は黒板を破壊する事ではない。黒板に君が書きたい文字を、望む文字を、その白いチョークを動かして書くのだ!」

「う。ううううう」


 黒沼景義はさらに強く白い特殊チョークを黒板に押し当てた。

 さらさらとチョークの粉が落ちていく。

 今日もだめか。

 影田まさみはまた明日頑張ろうかと言おうとした時だった。

 黒沼景義が振り払わん勢いで、腕を思い切り後ろに動かし黒板から白い特殊チョークを離すと、その勢いを殺さずに腕を黒板に叩きつけんばかりに動かして。そして。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」


 目にも見えない速さで、とまではいかなかったが、それなりの速さで、黒沼景義は書いた。書いた。書いた。

 チョークを持つ親指と人差し指以外の指はがっちり丸めて。書き切ったのだ。

 黒板の真ん中に。平均的な大きさと言えるだろう文字を。

 己の名前を。

 漢字とひらがなを。








「ふん。ばかものめ」


 影田まさみは心臓の上に当たる胸を強く叩いた。

 先ほどから常になく高鳴る心臓の音がうるさく、静めようとしていたのだ。


 何故こんなにも心臓がざわめき、顔が熱いのか。

 初めて見たからか。

 黒沼景義の雄々しい姿を。

 初めて見たからか。

 黒沼景義の愛らしい笑顔を。


「ふん、ばかものめ。清々しい顔で成仏しおって」


 影田まさみは空で名前をなぞったのち、赤い衣を翻したのであった。











(2023.7.26)



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恋に落ちたその瞬間 藤泉都理 @fujitori

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