love letter.

汐海有真(白木犀)

love letter.

 わたしにとって、誰かを愛することは恐ろしいことでした。


 だから、時折天使がいなくなってしまうのが不思議でした。人を愛した天使は、跡形もなく消えてしまう――そんな言い伝えを天使のわたしは勿論もちろん知っていて、そしてその言葉と消失した天使たちを、心のどこかで愚かだと嘲笑していました。わたしたちは世界に、そして人に絶望したからこそ天使となったはずなのに。


 冬の空は澄んでいて、数多あまたの人の悲しみを閉じ込めたような青色でした。わたしはゆっくりと翼を動かしながら、自分を包む大空を眺めていました。身をひねって見下ろせば、人の生きる町がミニチュアのように並んでいます。ああ、今日もきっと沢山の人が死んで、そのうちの幾らかは自死を選んで、わたしのような天使になるのでしょう。視界に入る自身の長い髪、簡素なつくりの衣服、細く伸びている手足――そのどれもが真っ白なのでした。恐らくわたしの赤色はに全て零れてしまって、向こうの世界に置き去りにされてしまったのだと思います。ああ、少しだけ……恋しいのでした。


 誰かが泣いている声が聞こえた気がしました。不思議に思います、だってこんな空の上に人はいませんし、天使は泣くことをしませんから。ふと耳を塞いで、それでも嗚咽おえつが鮮明に聞こえることに気付き、わたしは思わず笑ってしまいました。……泣いているのは、昔のわたしでした。人だった頃のわたし。人を愛することに幻想を抱いていた頃の、馬鹿で間抜けで向こうみずで……それでいて人らしかった、わたし。




 かつてわたしは、女の人と男の人が愛し合う物語が氾濫はんらんする世界で生きていました。


 お母さんが言います。「××(もう思い出すことのできない、昔のわたしの名前)は、一体どんな男の子を好きになるのかしらね」お父さんが言います。「××が嫁に行くときが楽しみだよ。きっと素敵な旦那さんを見つけるんだろうな」お姉ちゃんが言います。「私、彼氏ができたんだ。××にも彼氏ができたら、一緒にデートしようね」初恋もしたことのないわたしは思います、早く誰かを愛してみたい!


 そんなわたしが初めて好きになったのは、足の速い男の子でもなく、優しい男の子でもなく、頭のいい男の子でもなく、平凡な……けれど笑顔の可愛らしい女の子でした。


 彼女は小学校五年生のとき、出席番号が近く隣の席だったことで仲良くなった人でした。わたしは彼女と関わっていくにつれ、他の友人には感じることのない思いを抱くようになりました。柔らかな肌に触れてみたい。唇と唇を合わせてみたい。誰のものになることもなく、ずっとわたしの側だけで、笑っていてほしい――


 わたしは大いに戸惑いました。だってその人は男の子ではなく、女の子なのです。お母さんが、お父さんが、お姉ちゃんが教えてくれた「正しい愛」とは絶対に異なっている、「間違った愛」なのです。だからわたしは、きっとこれは思い過ごしで、愛ではなく行き過ぎた友情なのだろうと、そう思い込むことにしました。


 地元の中学校に進学したわたしと、中学受験をして少し遠くの中学校に通うことになった彼女は、小学校を卒業してから段々と連絡を取らなくなり、疎遠そえんになっていきました。寂しさを覚えながらも、安堵していました。行き過ぎた友情に振り回される日々は、酷く苦しかったから。


 ――早く、誰かを、愛してみたい。


 かつての祈りは呪縛となり、わたしの心を容赦なくむしばみました。その呪いに突き動かされるように、わたしは中学校で様々な男の子と話してみました。その時間は楽しくはあったけれど、自分の中にあのときの行き過ぎた友情に似た感情はちっとも浮かんでこなくて、家族から「正しい愛」について幾度となく聞かされながら、わたしは少しずつ、少しずつ病んでいきました。


 中学二年生の半ば頃から、女の子たちに虐められるようになりました。机に書かれた「死ね」「消えろ」「殺すぞ」という言葉よりも、「男好き」「ビッチ」という言葉の方に心を砕かれました。そうなれたのなら、どんなによかったでしょうね? 異性と喋る機会が多いからと短絡的にそれを愛と結び付けられる方が、余程その素質があると思いました。


 ある日わたしは、行方のわからない教科書を探していました。夕陽の差し込む教室の静寂を汚すように、わたしの泣き声が響いていました。掃除当番の人が捨て忘れたごみ箱を漁りながら、みじめな気持ちでいっぱいになって、ああ、この美しい夕焼けに溶けていくように消えてしまえればいいのにと、そんな願いを考えていたときのことです。


「ねえ」


 後ろから声がして、わたしは加害されるのかと思い何秒か呼吸ができなくなり、ようやく息を吸えた頃に振り返りました。

 そこには、眼鏡を掛けた長い黒髪のクラスメイトが立っていました。わたしと違って虐められてはいないけれど、わたしと同じようにいつも教室でひとりぼっちの、そんな女の子でした。彼女は右手に落書きだらけの教科書を持っていて、同情するように微笑うこともなく、つまらなさそうにそれをわたしに向けて差し出していました。


「これ、探してるんでしょ」


 わたしは恐る恐る、頷きました。


「裏庭に捨てられてた。これからはもう隠されないようにしなよ」


 彼女はそう言って、わたしに教科書を返してくれました。わたしは震えてしまう声で、ありがとうございます、と言いました。

 どうしてかわたしたちは、その日一緒に帰りました。時折思い出したように交わされる会話が、何故だか心地よくて、わたしは久しぶりに笑っていたと思います。


 気付けばわたしと彼女は友人となり、放課後の時間を共に過ごすようになりました。彼女を虐めに巻き込みたくなかったから、教室では一言も口をききませんでした。彼女との関係性はどこか背徳的で、甘美で、そして……わたしが彼女のことを好きになってしまうのに、そう時間は掛かりませんでした。


 悟りました。

 わたしは愛する相手を間違えることしかできないのだ、と。

 ああ、正しく在りたいのに。誰からも否定されることのない美しい愛を育てたいのに。


 わたしは耐え切れなくなって、程なくして家族にこのことを打ち明けました。予想してはいましたが、お母さんもお父さんもお姉ちゃんも、わたしの愛を暴力的な言葉で切り刻みました。真っ赤な愛の残骸ざんがいが、自分の心に散らばっていく気がしました。


「……××、何かあったの?」


 何日か後に彼女からそう聞かれたとき、わたしは少しの間何も言うことができませんでした。そんなことありませんよと嘘をついて、代わりに下らない話をしました。

 彼女が可笑おかしそうに笑って……その綺麗な表情を見て、わたしは死ぬことを決めました。


 その日の夜、高い高いマンションの屋上から、わたしは飛ぶように落ちました。

 ぐしゃり、つぶれた身体で最後に聞いたのは、天使の「ようこそ」という言葉でした。




 天使には役目があり、それは死にゆく人がこちらの世界に来る際の橋渡しをするというものでした。


 わたしが天使となってから一年ほどの時間が経過しており、その間に何度も人の死ぬ姿を見てきました。老衰で死ぬ者、若くして交通事故に巻き込まれて死ぬ者、わたしと同じように自ら死を選び天使となる者――どれ一つとして同じ死は存在しなくて、でも人は皆いつか死ぬ運命を抱えながら生きているのでした。


 人の死を側で見ていても、特に感情を揺り動かされることはありませんでした。だって、わたしは人が嫌いですから。人は誰かが本当に大切にしているものを、簡単に土足で踏み荒す生き物ですから。滅んでしまった方が世界のためではないかと、わたしは暇な時間に空でぼんやりと考えていました。


 そんなわたしが次に担当することとなったのは、船香ふねかという少女でした。

 彼女と対面したとき(勿論、彼女は死ぬまでわたしの姿を見ることはできないのですが)、わたしは少しだけ、もう動いていない心臓を掴まれたような心地におちいりました。……それは、船香が死んだ頃のわたしと殆ど同じくらいの年頃だったから。それなのに、彼女は酷く痩せ細っていて、真っ白な病院のベッドに囚われるように日々を過ごしていました。


 船香は特段美しい少女という訳ではありませんでしたが、少しばかり色素の薄い瞳の色をしていて、それは仄暗ほのぐらい紅葉の森を想わせる深淵さでした。目の下と鼻の辺りには淡くそばかすが広がって、唇は荒れてがさがさとしていました。


 船香の元には、日々多くの人が訪れます。それは家族であったり、友人であったり、先輩であったり、様々でした。船香はそんな人たちの前で、温かな笑顔をいつも振り撒きました。病におかされているなど、もうすぐ死を迎えることなど、全く感じさせない太陽のような笑い方でした。


 でも船香は、夜ひとりになると、星空を映し出す赤茶色の瞳から、ぼろぼろと涙を零すのでした。わたしはからの椅子に座りながら、彼女が漏らす嗚咽をぼんやりと聞いていました。年齢のせいなのか涙のせいなのか、船香を見ていると昔の自分を思い出します。ふと、この人の愛について知りたいと思いました。どうせあなたもあの人たちと同じように、普遍的な愛を愛しているのでしょう……? 心の中で船香をわらいながら、わたしは目を閉じて船香の泣く声を聞き続けました。




 船香はひとりでいるとき、泣く以外にもう一つすることがありました。

 少しばかりの模様が入った真っ白な便箋びんせんを広げて、年季の入った鉛筆を大事そうに持ちながら、丁寧に文字をつづるのでした。それは手紙らしく、一枚書き終えると封筒に仕舞って青い花のシールを一つ貼り、また新しい便箋を机の上に置いて、違う人に宛てたものを書き始めるのでした。


 それは秘密にしている行いらしく、船香は鍵の付いた引き出しに数多の手紙を隠していました。一度好奇心に駆られて、彼女が書いている手紙を覗いたことがあります。幾つもの思い出と感謝の言葉に溢れたそれは、わたしには眩し過ぎて、すぐに見たのを後悔しました。けれどそれと同時に、わたしは船香を尊敬しました。この人は、少しも人に絶望していないのだなと。わたしが船香のような状況に置かれたら、容易に世界を、そして人を憎むでしょうから。


 船香はわたしと似ているようで、ちっとも似ていないのだということに気付き始めました。

 泣き疲れた船香が眠りに落ちた静かな夜、わたしは彼女の耳元にそっと自身の唇を近付け、柔らかな声でささやきました。


「わたしに……あなたの愛を、見せてください」


 この言葉は船香には届かないでしょうけれど、別に構いませんでした。わたしが言葉に殺されたように、きっと言葉には目に見えない力が宿っていて、それを世界に聞かせることに意味があるのですから。




 好機は、その夜から数日経った頃に訪れました。

 一人の少女が、船香の見舞いに来たのです。癖がかった長い髪を高い位置でくくった、少しだけ垂れた目が可愛らしい人でした。


 どうやら船香と少女は小学校が同じだったらしく、異なる中学校に進学した後もよく連絡を取って遊んでいたようでした。二人は懐かしい思い出や最近の事情について、楽しげに話に花を咲かせていました。わたしは窓の近くの壁に背中を預けながら、ぼうっとその話を聞いていました。


 すると突然、少女が泣き出したのです。それは余りに脈絡がなかったので、勿論わたしは戸惑い、船香もおろおろとしながら彼女の背中をさすりました。船香の骨張った手が動く度に、少女は泣き止むのではなく、より深い嗚咽を漏らすのでした。


「ずっと……ずっと、言ってなかったん、だけど」


 少女は涙でぐちゃぐちゃになった顔を船香に向けて、少しばかり口角を歪めました。


「……私、船香のことが、好きなの」


 船香は紅葉の色をした目を丸くして、少女のことを見つめ返していました。


 わたしはその様子を、自身の腕を組みながら眺めていました。自分が仄かに笑っているのがわかりました。それが優しい笑みではなく、意地の悪い笑みだということも。ねえ、船香。結局あなたも人なのでしょう? 見せてくださいよ、あなたの汚いところを――


 わたしの思いに呼応するかのように、船香の荒れた唇がゆっくりと開かれます。


「そうだったんだ……ごめん、ずっと気付かなくて」


 申し訳なさそうな船香に、少女は強く首を横に振りました。


「……わたし、今まで生きてきた中で、誰にも恋とかしたことないんだ。勿論、素敵だと思う人は沢山いる。皆のことが大好きだって、胸を張って言える。それは瑠衣るい、あなたに対してもそうだよ。……けれど、きっとこの『大好き』は、あなたがわたしに向けてくれている感情とは、違うのかもしれないね。でも、わたし、瑠衣にそう言って貰えて……すごく、すごく嬉しかった」


 そこで船香は一拍置いて、……綺麗な瞳から、ずっと誰にも見せようとしていなかった透明の涙を一筋、流しました。


「瑠衣。こんなわたしを愛してくれて、本当に、ありがとう」


 船香のもうすぐ終わってしまう肉体は、少女の体躯たいくを慈しむように抱きしめました。


「だからどうか……わたしのことを忘れて、幸せになって」


 ああ――わたしはもう、この場所に留まることが、できそうにありませんでした。


 病院の窓をすり抜けて、わたしは必死に翼を動かしながら、ただ視界に広がる灰色の空を目指しました。気付けばわたしは叫んでいました。もう泣くことのできないわたしの、慟哭どうこくのような叫び声。わたしは自分の身体をき抱きながら、しばらくの間冬の空を震わせていました。




 雪の降りしきる夜。

 朝になる頃に、船香は命を落とす――わたしはそのことを知っていました。

 あの日からどうしてか泣かなくなった船香は、弱々しい息を漏らしながら眠っていて、わたしはそんな彼女に覆い被さるように、ベッドの上に降りました。

 船香の頬を優しく撫でて、彼女に顔を近付けたとき、ふと思いました。


 ――わたしは、船香のことが好きなのでしょうか?


 少し悩んで、微笑みます。


 ――わからないけれど……わたしはきっと、この人に救われたのでしょう。

 ――だから、少し……ほんの少しでいいから、

 ――わたしもこの人を救いたいと、そう思ってしまったのでしょう。


 わたしはそっと、船香へとくちづけをしました。


 自分の翼が段々と壊れていって、病室に舞う雪のような羽に囲まれながら、わたしはそっと目を閉じて、優しい恐怖を紛らすように船香の華奢きゃしゃな身体を抱きしめました。



 ◇◇◇



 ――わたしには、時折見る夢がある。


 そこには数え切れないほどの花々が咲きこぼれていて、気付けばわたしはそんな場所に立ち尽くしている。その美しさに心奪われながら、やがてわたしは花畑を歩き出す。


 そうすると決まって、一人の少女と出会うのだ。

 彼女は桜色の椅子に座りながら、小さなテーブルで何かを書いている。真っ直ぐな茶色の長髪は、時折柔らかな風になびいて形を変える。

 わたしは、少女に声を掛ける。


「ねえ。あなたは、何を書いているの?」


 少女は顔を上げると、少しだけ微笑んでくれる。


「手紙ですよ」

「そうなんだ。誰に宛てるものか、聞いてもよかったりする?」


 少女は困ったように、口元を緩めた。


「わからないんです。それなのに……どうしてか、書きたくなってしまうんです」


 それだけ言うと、少女はまた、ゆっくりと言葉を綴り始める。

 わたしはそんな彼女の姿を、もう何も話し掛けることをせずに、静かな呼吸を繰り返しながら眺めている。

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