人肌より、ちょっとぬるい

夏眠

第1話

ふぅ。仕事が一段落してようやく一息つくことができた。午後九時三十分、今から家に帰ってご飯を食べて、ギリギリで日付が変わるまでには寝られるかな、というような時間だ。  

この部署は残業が多いが、過労死するほどのものではなくて、でもどうしても職場と家の往復をするだけの生活になりがちだ。 私の毎日は地味で、でもつらい訳では無い。友人はいて、でも数ヶ月に一度ご飯に行ったり、年に一度旅行に行く程度。恋人はいない。でも生活にそれほど不満がある訳でもない。たまに早く仕事が終わった日には帰りにひとりでご飯を食べてお酒を飲んだりする。穏やかで刺激のない、ベージュ色の生活。


「花那さん、ちょっといいですか」その日は珍しく人事部の人に声をかけられた。聞くと今日、インターン生とうちの社員との飲み会があるらしいのだが、体調不良者が数人出て代打で参加できる人間を探しているようだった。「花那さんは仕事できるし、インターン生も仕事の話聞きたいらしいからさ、ほら飲み会ってどうしても同じ部署の人間で固まっちゃうから、まだ彼らの見てないとこの人とも会って欲しいなって。」

本心なのか、ただ予定のなさそうな人間に声をかけただけなのかは分からなかったが、特段断るほどのものでもなかったので承諾した。


飲み会の席には十数人が座っていて、その中には数回見かけたことのある人もいた。おそらく同期なのだろう。見るからに営業マンの顔をした彼らは社会生活を満喫しているようで、わたしと同じ会社にいるのに別の人種のようだな、と思った。

インターン生は会社の中心人物を会話の中ですぐに見つけ、情報を得ようと必死になって機嫌をとっていた。会が盛り上がりはじめて数十分、私の出る幕はないことを悟り端の方でちまちまと出された食べ物を食べたりお酒を飲んだりしていた。

「お名前伺ってもよろしいですか。」

意外なことに、目の前に移動してきた男の子から声をかけられた。

「榎木 花那です。広報課に務めています。」「えっと、インターンの方ですか?」

彼は、すみません、名乗るのが先でしたね、と申し訳なさそうに笑った。

「瀬戸 蒼と言います。法教大学の三年生です。先週からこちらの会社でインターンをさせて頂いています。」

よろしくお願いしますと、彼は名刺を渡してくれた。その所作があまりにも完璧で、私は感心してしまった。 飲み会の帰り道、彼と私は同じ電車だったので、一緒に帰ることになった。酔った同期の男はババアが若い男を喰うなよ!というような失礼なことを言っていたけれど、私はそこまで人間性が終わってはいない。彼はインターン生の女の子と一緒に帰るようだったけれど、彼の方が危ない気がする。顔の赤くなった女の子の方に視線を送る。仲睦まじく私たちは終電にしっかりと間に合って、しっかりと乗り換えをして、彼の最寄り駅まで着いたので彼を見送り、私は私の家に帰った。何も間違いを起こさない平和な日常。私はそれが何よりも大切だ。


「広報課に配属されました、瀬戸蒼と申します。短い間にはなりますが、ご指導宜しくお願いいたします。」蒼くんが私の部署でインターンをすることになった。もっとも、彼は広報の中でもプロモーションのために色々なところに出向く部門で、私はちょっとしたコピーを書いたり、広告画像のデザインをしたりする部署の中でも地味な人間だ。あまり関わることは無いと思っていた。


蒼くんはインターン生の中では仕事熱心で、私は広報課のなかでは不真面目だったので、よく帰りが一緒になった。帰りの電車の方向が同じこともあり、彼とよく話すようになった。

数週間がたって、彼のインターン期間も終わりに近づいてきたのだが、私はそのころ割り振られる仕事が増えてゆき、残業で遅くまで残るようになっていた。とても抱えきれない量になり、二、三時間しか眠らなかったり、会社に泊まり込んだりすることも珍しくなくなっていた。蒼くんのインターンが終わる前の日、ヘロヘロになりながら働いている私に差し入れです。といくらかの体によさそうなカップデリと栄養補助食品を渡してくれた。 

お礼は一応のべたものの、私は仕事を片付けるのに必死で、彼のことも、袋の中身のことも見れていなかった。日付が変わるころになり、ようやく仕事に区切りがついて、そういえば蒼くんにご飯をもらっていたなと思い袋の中身を見た。彩り豊かな食品の中に一枚の紙が入っていた。

――――――遅くまでお疲れ様です。無理しないでくださいね。明日でインターン期間は終わってしまいますが、お話ししていてとても楽しかったです。よかったら連絡先を交換させてください。LINE ao2001sou

急に肩の力が抜けて、好きでもない会社のために無理をしていることがばかばかしくなった。もう明日のことを考えるのはやめよう、大切なものに順番をつけようと思って、今一番大切なものを考えた。わたしが今一番大切にしたいものは自分だ。自分の心だ。自分の心を大切にするための手法を考える。思いついた案は、あまりにもばかばかしくて情けなくて、思わず笑ってしまう。数秒考えてから、私は机の上に置いていた紙を取り出し書いてあるアドレスに連絡した。


 「まさかあの後一時間もせずに待ち合わせてくれるなんて。」

蒼くんはすぐに電話に出てくれて、すぐに会社の近くの店まで来てくれた。それがうれしくて、疲れていたこともあって、最初に行った居酒屋ですこし早いペースで飲んでいただけで簡単に酔っぱらってしまった。店から出るときには歩けないわけではなかったが、どうにも寂しくて、歩けないふりをして彼の袖をつかんだ。今考えるととても情けないと思う。が、その時はそんなことどうでもよかったのだ。

ねえ蒼くん、私ってずっとこのままなのかな。会社で、世の中で、適当に笑いながら話を合わせて、一生誰との分かり合えず終わっちゃうのかな。ドロドロした言葉が頭の中からつぎつぎと湧いてきてとめられなかった。タールのような言葉に、感情に、溺れないようにするために彼のシャツの袖をつよく掴んだ。

自分で埋めようとしても、埋める為の材料がどこにも見当たらなくて、だから私は彼に抱きしめて欲しかった。

「僕の部屋に来ませんか」蒼くんは落ち着いたトーンで、震えた声で言った。私は首を縦に振った。


彼の部屋に着くまで、私は彼の服の裾を掴みつづけた。縋るものがほしかった。彼は恐る恐る私の背に触れてきた。その触れ方に色がなくて、私はなんだか安心して、この人ならいいか、と思ってしまった。

これは不幸な事故だと思うことにしようとした。恋人でもない私達がするべきことではなかった。きっとそれなりの手順に従って、それなりの相手を見つけてするべきことなのだろう。


そう思っていたのに、私たちはずるずると関係を続けてしまっている。


 



「これなんの香り? 枕、前と違う、いい匂いする。」

「 えっとウィステリアだから…藤?」

藤か。蒼らしい、落ち着いた匂いだ。

「藤の花の花言葉、知ってる?」

「なにそれ」

背を向けたままの蒼くんが気だるそうに答える。蒼くんは私がこういう話をすることを面倒臭く思っている。でも蒼くんは優しいから、私の話を遮ったりしないで聞いてくれる。

藤の花の花言葉は、恋に酔う。それから君の愛に酔いしれる、だ。私たちの関係に近くて、でもどこか、いや、どこまでも遠い言葉だ。私はそれを彼に伝える。なるべく私達の関係に言葉を伸ばそうとしていることが悟られないように、淡々と。声が私にしかわからないくらいだけ震えた。胸が痛くなって、彼を視界に入れないように目を伏せる。

「恋と愛の違いってなんなんだろうな」

珍しく蒼くんが真面目に反応してくれた。蒼くんは私みたいにくだらない事をぐるぐると考えない質のはずなのに、いまは私と同じことを考えている。この瞬間が私は堪らなく嬉しくて、彼と一緒にいてよかったな、と思う。本当はこのとき彼に抱きつきたかった。けれど、私は蒼くんの恋人ではないから、ただ一方的に甘えることに懐疑的になってしまって、手を延ばすのをやめてしまった。以前はできていたことなのに。

わたしは彼に近づきたいくせに、彼が自分に染まってしまうことが怖いのだ。



彼は神様ではなくて、天使でもない。蒼くんは蒼くんだ。だからわたしは彼を信仰するべきではない。余らせた仕事を片付けながらとなりの彼の寝顔を見ていたら、急に温かくてあまいお酒が飲みたくなった。レンジにかけた牛乳に、蜂蜜とラムをたっぷりいれたものを飲みながら、彼の寝顔をもう一度見た。天使、というには俗世的で骨太だけれども、息をしているかもわからない、はかなくて脆い寝顔だった。神聖さすら感じることができた。そんなこと、あるはずないのに。


小学校に入学したばかりの頃を思い出す。学校に行くのが嫌になって、夜に泣き出してしまったときのことを。あのときは父親が頭を撫でながら宥めてくれ、母親が寝付くまで抱きしめてくれていた。

けれども今、私が仕事に行きたくないとき、嫌いな人にあいたくない時、なんとなく寂しくなってしまってどうしようもなくなったとき、そのようなことをしてくれる人はどこにいるのだろう。きっともっと甘えることを上手にやってもいいのだ、私は。幸せになるためならいくらでもずる賢くなってもいい。それが人の迷惑をかけることでなければの話ではあるけれど。幸福になりたい私は、いつも臆病な不幸でありたい私に義理立てをしようとする。いい加減、そんな不毛なことはやめにしよう。 


彼は人間だから、周りの人に染まっていく。それは、彼の昔からの幼馴染であったり、家族であったり、彼が初めてキスをした相手であったり、毎朝彼をおこすアラームのアーティストであったりする。

それが私ではだめだなんて、そんなことがあるわけがない。

 ねえ、蒼くん、君は神様じゃないんだね。私は君を私と同じ人間としてみれるよ。



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