Chapter.3(終) キスがしたい。

 次の週が訪れるのは早かった。


「ねえ、ゆなみ」


 彼女の甘くささやくような声に誘われて、わたしは彼女と目を合わせる。


「なんでしょう? はくおーちゃん」


 今日の彼女はいつもと少しだけ様子が違って、自己肯定感に満ち足りているように思えた。何か彼女のなかで、一つの壁を突破したかのような喜びに裏打ちされているみたいだった。


「今回も、ゆなみとしたいことがあるんだ」


 ほら、今日は声音が安定している。彼女の瞳が真っ直ぐとわたしを見つめている。紅潮した頬の裏側には、確かな自信と微量の不安が見え隠れしている。


 甘えたがりの子猫のようではない、〝きっと受け入れられる〟という自信に満ち溢れているようだった。



『それ』を切り出すには、いつもより少しだけ早い時間だった。



「ねえ、ゆなみ。私と、キスをしてほしい」

「――きっ……!?」


 頭がばんっと弾けたのかと思った。ぐらぐらとする視界に、まるで銃声の余韻のように彼女の言葉が延々と折り重なって繰り返される。理解を拒んだように頭が回らなくて、『正気ですか!?』と言ってしまいたかった。

 途端に、彼女のことがよく分からなくなった。


「えっ、え、どういうことですか……?」


 戸惑うわたしを前にして、彼女はしたり顔をする。


「ゆなみ。私は君が好きなんだ」

「えぇっ……!?」


 驚いてから、いやそれほど予想外でもなかったのではないかと脳の片隅で冷静なわたしがコメンテーターをする。だけど、真剣な彼女の表情を見ると、やっぱり驚いてしまうものがある。


 ぱくぱくと、口が動く。彼女はくすりと可憐に笑むと、席を立ち上がり、テーブルを回ってわたしの隣に座った。距離の詰め方が大胆で、本気なんだ、と緊張する。


 ひょっとしたら、先週、ハグをしたときに、彼女は『イケる』と判断してしまったのかもしれない。

 そんなことを悟った。

 それくらい、強引で、『求めている』みたいだった。


「ゆなみは私のこときらい?」


 この場を切り抜けたいと思うなら、その言葉を肯定して、先週もお願いされたからやっただけなんだと自分にその気がないことを証明すればいい。


 ――だけどそんなことわたしにできるはずがない!

 そんな度胸がある人間ではない。


 だから『ドツボにハマるよ!』とわたしの脳内で騒ぎ立てるミニマムなわたしの姿を思い描きながらも、「きらいではないですけどっ……!」と続く言葉もないまま否定するに留まる。


 彼女のことを、卑怯だと思った。


「ふふっ、嬉しい」


 卑怯だと思った……っ!


「――でも! そんなこと、できませんから!!」


 精いっぱい口にする。わたしに恋愛のことなんて分からない。ましてや同性愛なんて考えたこともなかった。

 はくおーちゃんが、そういう人だとも思っていなかったから、どうしたらいいか分からないし、いよいよ友達の域を出過ぎている。


「いつもはお願い、聞いてくれるのに?」

「だって……! キスなんて……っ!」

「一度だけ。お願い。いま、したい」

「なんでそんなに食い下がるんですかぁ!」


 もうっ、バン――ッ!とテーブルを叩こうとしたら、その手を受け止めて指を絡めてくる白王遥がいる。怒りというか、反射的な勢いすら殺され、全てを受け入れよう、包み込もうとするような彼女の態度に、圧倒される。

 このままじゃ、押されてしまう。


「先週から、疼いてしまって仕方なかったんだ。今日になったらこれをお願いしよう、今日のことをずっと考えて、今日まで乗り切ったんだよ、私」


 そんな誇らしげに言われても困りますから……!


「ご褒美が、欲しいんだ。ゆなみから」

「だって、そんなのっ、わたし、知りませんでしたし……!」

「お願い」

「……っ」

「ゆなみ、お願い」


 ぐ、う、ぅううう。

 わたしの強張っていた体から力が抜けると、嬉しそうに目を輝かせた彼女が体をさらに寄せてくる。

 わたしのもう一つの手を取って、両手を優しく握ってくれていた。そわそわとご機嫌な様子は、嗜好品のちゅーるを前にした猫みたいで。


 わたしは、このまま、彼女の……。



 彼女の、何になるのだろうか?



「……………、びじゃ、嫌ですから……」

「うん?」

「遊びじゃ、嫌ですから」


 わたしは最後の抵抗として、あるいは手の届く距離にあるものを『自分から』掴み取りにいくため、身を売るような覚悟で言葉にする。


「わたしと、結婚できますか? 捨てないって約束してくれますか?」

「それは……」

「もちろんわたしだって努力しますし、わたしのことがきらいになられたらそれまでですけど、遊びとか一夜限りとか都合のいい相手じゃなくて、真剣に向き合ってくれますか? 今日だけじゃないと。それなら、キスでもなんでもします」


 わたしがこうするのは、ひとえにお母さんに言われた言葉があるからだと思った。


 わたしは、彼女を、白王遥を――、いや、『白王遥の遊びの相手』でこのまま収まりたくはないと思ったのだ。彼女の恩寵を受けられる人でないと、意味がないという打算的な動き。


 あるいは、白王遥に一方的に入れ込むことは身を滅ぼすことになるという警告が、頭の片隅で鳴り響いていたのかもしれない。彼女は魔性の人だから。


 だから。


 わたしは、将来に繋げるための駆け引きをはじめた。

 わたしがベットするのはわたしの身。彼女はそれに価値を感じてくれている。そしてわたしにはそれしかないのかも。なら、わたしはこれくらい強気に立ち回らないと後に繋がらない。


 後にも先にも『佐伯ゆなみ』のレートがこれほど跳ね上がる瞬間はいまだけだ。


「いいよ。分かった。私は、ゆなみが欲しくて声をかけた。一目惚れだったから。私のものになってくれるというなら、私もその誠意は示す」


 お互いの真意を探るみたいな見つめ合いを長々と続けたあと、ふいにくしゃっと笑った彼女が頬を掻いて恥じらいを見せる。


 わたしは、彼女の仕草一つ一つに見惚れるほどに、白王遥という御人が人として好ましくもあった。


「いくつか、段階が飛んだよ。私はずっとその気だった。最後はこう言うつもりだったんだ、『ゆなみ、私のものになってくれる?』って」

「……本当ですか?」

「うん」

「裏切ったら、慰謝料とか請求しますから……」

「いいよ。もしも私が裏切ったら、私の人生を台無しに、それはもうめちゃくちゃにしていいから」


 白王遥は、肝が座りすぎている。

 本当に不思議な人だ。

 あり得ないくらい、わたしの常識には収まらない人。


 ……………。


「それだったら、わたしは、はくおーちゃんのものになります」

「いいの?」

「はい」

「本当に?」

「はい」

「じゃあ、私とキスをしてくれる?」

「……、目は閉じてください」

「やだ」


 いたずらっ子みたいに笑う彼女に根負けして、わたしは先週のハグみたいに、恐る恐ると彼女にキスをする。


 これは、一種の契約みたい。

 いや、恋人の契りになるのか。


「……ふふ、シフォンケーキの香り」

「〜〜〜っ、さっきまで食べてたんですもん!」


 いじわるなコメントに呆れる。続けざまに、「私はどんな味だった?」と蠱惑的な笑みで訊ねられて、そっと唇に手を当てる。

 想起される先ほどの感触に、赤くなる。


 わたしもいじわるがしたい。


「チョコが、付いてましたよ」

「ふふ。恥ずかしい」

「っ、わたしが恥ずかしいです!」


 変な感じ。わたしまで気分が高揚している。変な気に当てられちゃったみたいだ。

 だけど、そんな一面がある一方で、頭のなかには冷静な部分もある。

 わたしのこの先の人生は、白王遥に依存する。




 願わくば、彼女の甘えたがりな姿を知る、唯一の人でありたい。




【シフォンケーキ、ショコラタルト。:了】

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シフォンケーキ、ショコラタルト。【百合】 環月紅人 @SoLuna0617

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