Chapter.2 ハグがしたい。
……………。
緊張するなぁ……。
椅子を引き、わたしの目の前で、目を瞑って待ち侘びる国宝級の美少女を前にする。
はくおーちゃんはたぶん、誰にも甘えたことがないのだと思う。だから、お願いというよりは『せがむ』に近くなる。子どものように希望を述べ、無理だろうな、という弁えもあるから、ガツガツ迫ってくることもない。あくまで、叶えてくれるか叶えてくれないか。
相手に託すような形になりやすいのだ。
なので、願いを口にしたあとの彼女は、非常に受け身な態度をする。
「じゃあ、えっと」
体が強張る。
妙に汗ばんでしまうようだった。
「し、失礼します……」
恥ずかしい。おずおずと両手を広げ、顔を近づけ、彼女の華奢な胴体に手を沿わせて、背中に回し、シャツ越しのブラホックの微かな凹凸を感じてしまいながら、自分の手を重ね合わせてハグをする。
距離がグッと近くなったことで、ふんわりと弾ける彼女の香りを感じ、それらがわたしの匂いとも混じり合うような気がして、溶け合って、個室のなかに満ちる。
シックな内装に落ち着いた明るさのライトをするこの個室では、この時間が妙にいやらしくも感じた。
さわり、とおもむろにわたしの脇腹に触れる彼女の手に、ひくっとなる。わたしがしたように、彼女の小さな手がわたしの背に回る。わたしのように手を重ねて(むやみやたらに触れないようにしよう)なんて考えることはなく、猫の手のようにゆるく結んだ握り拳がてん、てん、とわたしの背に吸い付いて、まるで離れたくないみたいだった。
そのまま、しばらくの時間を過ごした。
わたしの胸はとくんとくんと落ち着かない心拍音を奏でるけど、彼女から伝わるリズムはゆったりとしていて、リラックスしているようだ。
わたしが呼吸も恥じらって息も忘れる頃、彼女は蕩けるように深々と息を吐いていた。
「………」
「………」
たぶん、これは、友達として、決して、健全ではないと思う。
子猫が甘えるみたいに頭を擦り付かせてくる。立っているわたしと座るはくおーちゃんの体の間に生まれる空白を、惜しむように手に力を入れて引き寄せてくる。仮に密接にくっ付いてしまったら、なにかがもう戻れないような気がして、わたしは彼女に悟られないようにほんの少しだけ踏ん張って抵抗していた。
ピピピピ、とアラームが彼女のスマホから鳴った。
「……お時間、大丈夫ですか? はくおーちゃん」
尋ねてみると、不快感の表れみたいな、無視、という間が数秒だけ蔓延った。
申し訳ない気持ちが荒波のようにわたしの胸中へと押し寄せてくるなか、するりと彼女の手がほどかれ、もういいのかな、とわたしは身を引く。
一仕事を終えたような開放感に、「ほぅっ」と思わず息を吐く。
座る彼女はわたしを見上げて、少しだけ『白王遥』を取り戻したような顔と声で言った。
「大丈夫じゃない。ありがとう」
どうやら、門限に不満はあるものの、満足してくれたみたいだった。
「それなら、良かったです」
「ごめんねゆなみ。懲りずに、また私と遊んでくれる?」
「はい、もちろんです。また一緒におしゃべりしましょう」
わたしがそう答えると、彼女は小さく「そっか」とはにかむ。いよいよ時間が厳しくなり、身なりを整えると二人揃って駅のホームへと向かうことになる。
「それじゃあまた来週。ゆなみ」
わたしはきょろきょろと辺りを見渡したあと、
「はい。またね、はくおーちゃん」
と、そう答えて別れるのだった。
♢
お母さんが家にいる時間とわたしが家にいる時間は合わない。けど、いつも少ない時間を使ってわたしのために作り置きを一品用意してくれる。わたしは普段、それを夕食にしているが、今日の我が家はどうやらいつもと違う時間が流れているようだった。
「おかえりゆなみ」
「お母さん、いたんだ。ただいま」
「他のパートさんが体調不良で倒れちゃって、業務が進まなくなったから早上がりになったのよ。今日は一緒にごはんを食べられるわ」
「そっか。嬉しい」
母とこうしてゆっくり話せる時間ができたのは、ずいぶんと久しぶりなことで、ぎこちなくなってしまうのが妙に嫌な気持ちがあった。ぎこちないのを悟られたくなくて、妙に気を張って振る舞う。
「ゆなみ、帰宅時間が早いのね。どこかに寝泊まりするときぐらいは連絡を入れて欲しいけど、そうじゃなきゃ門限なんてないんだから、遊びに行ったりしてもいいのよ」
娘の近況を知らない母なりに、探りと心配が含まれたような話題が振られる。「友達はいるの?」と続けて質問されて、わたしの頭のなかにははくおーちゃんが浮かんだ。
「うん。……今日も、友達と遊んできたんだよ。ただ、その子には門限があるから解散が早かっただけなの」
「あら、まあ。そうなの?」
「うん。大企業の娘さんで、すごくお家が厳しいんだって。素行が悪かった中学生のときは、自室に監視カメラまで仕掛けられてたって言ってて、なんか、本当に住む世界が違うなーって思ったよ」
他にも探偵が雇われて、外出中何をしているのかチェックされたりも。わたしだったら耐えられない。けど、白王遥という御人はこのまま親の不信を煽るのは愚策だと悟り、すぐに素行を正したのだそうだ。
彼女がこの話を聞かせてくれたとき、「今は上手く立ち回る方法を知ったからこうしてゆなみと過ごす秘密の時間も用意できるんだ」と星が散るようなウィンクでわたしを口説いてくれた。
わたしとしてはむしろ、そのような出来事があってなお『秘密のこと』をしてしまう彼女の豪胆さに、トップ企業令嬢の強かさというものを感じる。
それは、当たり前のように、わたしにはない感覚である。
「色々な人がいるのね」
「うん」
そして、わたしと同じ感覚を持つお母さんも、受け止めきれずに曖昧な返答をした。
――ごはんを食べる。出来立てのものは美味しい。食卓を囲むようになると、どうしても父がいた頃の景色が脳裏を掠める。それが少しだけ舌の感度を劣らせていて、お母さんと二人で夕食をいただくのは素敵なことなのに、どこか気が重たく感じた。
「学校生活はどう?」
「まあまあだよ」
「部活はしてる?」
「わたしには難しくて、やめちゃった」
本当はそこで、上級生にいびられてしまった。
「あら……。せっかくの桜花高なんだから、たくさんの人と仲良くなったほうがいいわ」
「うーん。そうかな……」
「コネを作るのよ。そうしたら、もしかしたら将来その企業で雇ってもらえたり、優遇してもらえるかもしれないじゃない?」
「……………いや、どうかな……」
尻すぼみな言葉で答える。あまり、想像はできない。
煮え切らない態度を見せるわたしがいる一方で、お母さんは桜花高の特性を、十分理解しているみたいだった。
「ほら、あなたには色々と迷惑をかけているじゃない?」
「そんなことは」
「お父さんのこともあるし。お母さんはあなたの将来が心配なのよ。急にレールがなくなってしまったんだもの」
「………」
「でも、桜花高ならきっとあなたの将来に繋がる何かがあるはずだわ。それは経歴としてだけではなくて、これからまた幸せに暮らせるようになるきっかけ。次世代の宝が集まる場所と言われているのだもの。たくさんの人と繋がりを持ってほしいのよ」
そうは言われても、わたしは……。と桜花高で突きつけられた劣等感から来る言葉を必死に呑み込む。
わたしが相当複雑な顔をしていたからか、お母さんは少しだけ悲しそうに口にした。
「ごめんねゆなみ。お母さんもいつまでも今みたいに働けるわけじゃないし、あなたのことを愛しているからこそ、つい、安心したくなってしまうのよ」
「わたしの、将来……」
「いくらでもお母さんたちのこと、恨んでくれても構わないから」
わたしは、わたしの将来のため。お母さんが安心できる将来のため。
わたしの手の届く距離にあるものは、いったい、なんだと言うのだろう。
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