第13話 命懸けの恋

 わたしたちは流星のように城を旋回して湖の上を飛び、湖面を波立たせた。

 月のない夜空には、無数の煌めきがダイヤモンドのように瞬き、ため息が出る。


「綺麗⋯⋯」


 それが聞こえたのか、龍は高度を落として草原を撫で、着地した。

 その鱗に触れる。湖水が跳ねたらしい水飛沫で、その身体はしっとり濡れていた。

 そう言われた気がして、わたしは急いで後ろに下がると、眩い光が一瞬、視界を奪い、振り向くと愛しい人がそこにいた⋯⋯。


 涙で前が見えない。


「バカだな、君は。そんなに泣くくらいなら、城を出たりしなければよかったのに」

「もう! どうしてそんなに意地悪を言うんですか? わたしはただあなたを独りにしたくなくて」


 そこまで言ったところで、いつもと変わらずやさしい腕の中にわたしは包まれていた。


「どこか怪我はありませんか?」

「お陰様で。君こそあんなに勇ましい姿で現れて、怪我はしなかったの?」

「まぁ、その、聖女にもいろいろいて⋯⋯」

「そうだね、黒髪の聖女もいるしね、馬を上手く走らせる聖女もいる」


「⋯⋯意地悪」


 唇が重なる。

 月はふたりを照らさない。

 闇に紛れて、深い、深いキスをした。

 なにかが、グラスに注がれるワインのように満たされ、溢れてこぼれ落ちた。


「鱗で傷ついたんじゃないか。城の者に手当てをさせよう。聖女は自分を癒すことはできないだろう?」

「そうなんですが⋯⋯もう少し、このままで」

 くすっという笑いが、頭の上から聞こえる。


「聖女様、今日もベッドの隣は空いていますか?」


 いたずらっ子のようなことを言う、わたしのたったひとりの夫に目を向けた。


「当然です。わたしにはあなたしかいませんから」


 ◇


 騎士団たちは逃げ遅れた魔獣を倒してから帰城すると連絡が入った。

 どうやら被害は少ないらしい。

 わたしたちのしたことは、意味があったと思うと少し誇らしく思えた。


 今までのわたしは、聖女として、なんの働きも認められなかったから。グリザを持って生まれた理由が、ここでようやく生まれた。


「若奥様! 二度とお会いできなかったらどうしようかと⋯⋯」

「大丈夫よ、シイナ。こう見えてわたし、田舎育ちなのよ。忘れちゃった? わたしが馬を走らせる姿、見せたかったわ」

「もう! 冗談では済まされませんわ!」


 シイナは頬を濡らした顔で笑った。

 その手にはわたしのあげたハンカチが、しっかり握られていた。


 ◇


「しかし、これはお仕置をしないわけにはいかないね」

「そんなこと言わないでください。わたしだって、その、少しはあなたの助けに⋯⋯」

 大嫌いだった黒髪を、彼の大きな手が頭から撫でた。

「とても助けられたよ。君がいなかったら、こうして帰城できたかどうか。ありがとう」

「怖いことを言わないで下さい! ユーリ様がいなくなったらわたし⋯⋯」


 ふたりの視線が同時に、青い石に注がれる。


つがいは、どちらかが命を失えば、もう一方も倒れる。知っていた?」

「もちろんです。わたしの魂はあなたの魂に結ばれている。あなたを失えば⋯⋯生き続けることなど意味がありません」


 ロッテ⋯⋯と小さく呟いて、わたしたちはベッドの上に倒れ込んだ。

 ここに来て、何日が過ぎたんだろう?

 この人に愛されて、毎日が満たされ、時が過ぎるのを次第に数えなくなった。


 彼のガウンの襟元から、そっと手を入れ、直接その素肌に触れる。もちろん鱗はもう無い。傷は癒した。いつもと同じ、よく知る、わたしの肌に馴染んだ彼の素肌、心臓の鼓動――。


「怖くないかい、私が。あんなに醜い龍になり、残酷なことを平気で行う。君が背にいなければ、魔獣たちを食い殺すこともあっただろう」


 わたしはすっと彼の口を掌で塞いだ。


「待って下さい。わたしは龍の妻です。それはもう、変わらないのです。

 わたしたちがこれから共に死を迎えたとしても、転生輪廻、またどこかで銀髪のあなたと黒髪のわたしは出会い、番となる。それは幾世にも渡って行われてきた、伝説ではない真実の話です。

 もしもあなたがこの世から去り、わたしが生まれ変わってあなたと離れ離れになったとしても⋯⋯」


 今度は彼の唇が、いつものようにお喋りなわたしの口を塞いだ。

 お互いの唇をゆっくり堪能し、離れたタイミングで彼は囁く。


「来世でもきっと、君を見つけると約束しよう。きっとだ。私たちの魂の器が変わったとしても、未来永劫、私は君に恋をする。それに理由なんてない。伝説なんて関係ない。君だから、君だけを、いつまでも愛し続けると誓おう」


 ロマンティックな言葉は、厳かな結婚式を思い出させた。

 教会の高い天井も、モザイク画もない。

 けれどここには、確かに結ばれたわたしたちがいる。離れては出会い、共に惹かれ合い、離れたままでは生きられない――。

 ああ、ここに来て、本当に良かった。


「では今夜はお互いに疲れたから、このまま休むとしよう」


 わたしはごそごそと布団に潜り、彼の身体にぴったりくっついた。1ミリの隙間もできないように。

 そのわたしの頭を彼は、髪の毛が絡まるのも気にせず、ぐちゃぐちゃ撫でた。


「止めた! 明日は1日動けなくても、誰もなにも言うまい。一日中、ベッドで過ごそう。

 食事はドアの前に置いてもらえばいいし、誰もこの部屋には入れない。領主の権限でね」


 ふふっと、わたしの龍は魅惑的な青い瞳でわたしを見た。

 今夜はもう、泣いて頼んでも離してくれそうにないなと、覚悟を決める。こんなにお互い疲れているのにバカみたいだ。

 それともこれが、新婚夫婦というやつなのかもしれない。

 わたしたちはまだ、新婚なんだ。


 しなやかに弧を描く彼の背中にしがみつき、その浮き出た背骨のひとつひとつを数える。

 その途中で汗で指が滑って、また数え直しになる。

 わたしのバカな努力を笑うように、彼は姿勢を変え、わたしの身体を彼に都合の良いように形を変える。

 いつもワガママなわたしは従順なひとりの女になり、与えられるものをただ、享受する。

 龍も聖女も関係なく――。


 ふたりの寝室に入る者は、翌日、ひとりもいなかった。


 ◇


 高級な馬車がその日、ヴィルヘルムの城に入った。そこから出て来た貴婦人は、以前にお会いした時とまるで違った様子でわたしを急に抱きしめた!


「シャルロッテ! あなたがユーリエの背中に乗ったと聞いてどんな気持ちになったか、考えてご覧なさい。このお転婆娘! 私の寿命を縮ませようというの?」


 まさかカタリナ夫人にそんなに強く思われていたとは知らず、予想外のことに戸惑いを隠せない。


「カタリナ様、ご心配おかけして申し訳ございません。ですが、ユーリエ様の働きにより、また国境は守られました」

「そんなことはいいのです! 私はあなたの身を案じてここまで来たのよ」


 玄関ホールでのやり取りが執務室まで響いたのか、コツコツという足音と共に、ユーリ様が姿を見せた。

 いつも通り、青空を映したような澄んだ瞳に、ひとつに結わえた長い銀髪。つい先日、危険な討伐を行ったとは思えない美麗な立ち姿。


「叔母様、我が城へようこそ。こちらにいらっしゃるのは珍しいですね」

「あなたに会いに来たのではないの。シャルロッテに会いに来たのよ。

 ユーリエ、命じます。この先、シャルロッテを危険な目に遭わせないと誓いなさい」


 わたしたちは互いの目を見合わせた。


「叔母様、私はそうしたいのですが、この愛する妻はどうにも『龍』も愛しているらしく、片時も離れようとしないのです」


 カタリナ様はキッと私の方を振り返った。

 扇子が握られているのを見る。ああ、お仕置かしら⋯⋯?


「あなたたちのことは父から聞いてわかっているつもりです。離れろというのがいかに無意味なことかも。父母もあなたたちと変わらなかったわ。まったく⋯⋯。

 ユーリエ、カッティーナの軍事力もお使いなさい。それから国境に、警戒するための砦を増やしましょう。

 そのための経費はカッティーナですべて賄うわ。親族だからではなく、他国からの侵略は他人事ではないからよ」


 カタリナ様は向こうをむいて、扇子で顔を隠した。

 どうやらお尻を叩かれずに済みそう。

 ユーリ様を見ると、やれやれと、悪戯をした後の男の子の顔をしていた。


 その晩はカッティーナ侯爵夫人を迎えた晩餐会となった。

 久しぶりにご実家であるヴィルヘルム家の食事を堪能された夫人は、普段の落ち着いた、ポーカーフェイスに戻り、満足気に食後のお茶を口に含んだ。


「どちらにしても、あなたたちのどちらも無事に戻り良かったです。あなたたちは番です。お互いを愛するなら、互いに自分の命を守らねばなりません。

 母は父が最後の戦いに出た時、城で聖女様の像に祈りを捧げ、倒れました。父が戦死したからです。わたしはその時のことを忘れられません。

 ユーリエ、お前は私の息子であり、シャルロッテ、あなたは私の娘です。このことを忘れてはなりません。

 あなたたちを失ったら悲しむ者がいるということを胸に刻みなさい。

 龍である前に、聖女である前に、あなたたちはひとりの人間なのです」


 お茶が終わるとカタリナ様はお部屋に戻られ、翌日、また馬車で帰って行った。

 吹き抜ける突風のように。


 見送るわたしの肩を、ユーリ様がポンと叩いた。

 わたしは並んだ彼の顔を見上げた。

 彼の目はまだ、彼を大事に思う叔母の馬車を見ていた。遠く、小さくなるまで。


「わたしたち、認めていただけたようですね」

「そのようだね。あの倹約家の叔母がまさか軍備に投資してくれるとは思わなかったよ」

「叔母様なりのやさしさですわ」

「ああ、そうだね」


 馬車はもう、目を凝らしても見えなくなり、残されたわたしたちは指を絡めて前庭をゆっくり歩いた。


「そう言えば、覚えていらっしゃいます?」

「どのことかな? 君には簡単になんでも誓ってしまうから」

「もう! 約束したでしょう? いつか、街に出てふたりきりでデートをしようって」


 わたしは不貞腐れたふりをして、わざと繋いだ手を大きく振った。

 年上の夫はくすくすと頭上で笑った。子供みたいに思われたのかもしれないと思って、つい頬が膨らむ。


「頬をつついていいの? 覚えてるよ、ちゃんと。約束から少し時間が経ったけど、まだ新婚だし、許してくれるだろう?

 どこがいいかな?

 劇場の特等席で楽しむ? それとも最高級の食事を、話題のレストランに予約しようか。食後のデザートはシイナにお勧めの店を聞いてくるといい。

 そうだ、僕の見立てでドレスを仕立ててもらおう! 君の試着を待つのが楽しい」


 彼は満足気ににこにこ笑みを浮かべている。自分の提案に自信があるらしい。


「全然、女の子ってものをわかっていらっしゃらないんですね! ⋯⋯確かにユーリ様が女の子をよく知っていたらショックですけど。

 わたしはただ、町娘のようにあなたと歩きたいんです。いろんな屋台を見て、小さなお店をのぞいて、歩きながらお行儀悪くアイスを食べて。

 高価でも豪華じゃなくてもいいんです。あなたが隣にいてくれたら」


 ユーリ様は少し間を開けてから、ゆっくり口を開いた。

 そもそもわたしは黒髪の聖女で、婚前にまともに普通の女の子のするようなことをしたこともない。おかしなことを言ったかもしれない。不安になる。


「いいよ、言う通りにしよう。全部、叶えてあげる。その代わり、どうせなら腕を組んで歩こう。

 領主とその妻の仲がいいことは、領民にとって損ではないはずだ。みんなが見逃してくれるよ」


 わーお! 全部叶えてくれるって!


 シイナとたくさんリストアップして、その中から1日で回れそうなところを絞らないと。

 飛びっきり特別な一日!

 こんなに素敵な男性と腕を組んでたら、きっと他の女の子たちはうらやましく思うはず。

 ⋯⋯ふふふ。


「デートの約束ひとつで、なんていやらしい顔をしてるの、君は?」

「そ、そんなことないです! ただのデートじゃないですか? 誰でもしてる普通のことです」


 絡み合った指がほどかれ、彼のその手がわたしの前髪を上げて軽く唇が触れる。


「ごめんね。普通の恋人同士みたいじゃなくて。しかも私の愛は命を賭けるほど重いし」


 ――もう何も言えなくなってしまう。

 わたしは自分の子供っぽさにほとほと呆れ、舗道を軽く蹴って踏み出した。


「どっちが先に着くか勝負です!」


 ははは、と軽やかな笑い声が青空に吸い込まれるように高らかに響き、彼の靴音は聞こえない⋯⋯嫌らしい、ハンデをくれるつもりだ。

 わたしは走る。

 それでも途中できっと捕まって、抱きすくめられることを期待しながら。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【完結】漆黒の聖女、銀の光を放つ 月波結 @musubi-me

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ