第12話 虹色の鱗
――どうか龍になった私を見ないでくれ。
背中に乗せてほしいと頼んだあの晩、ユーリ様は確かにそうこぼした。祈るような声だった。
すべてを振り切って、バルコニーから身を乗り出す。
朔月の闇の中を、山のようにいっそう黒い影が飛んでいく。孤独を抱えて。
「やっぱりわたし、行くわ。これは伯爵夫人としてではなく、この国の聖女としての仕事よ」
クローゼットにはあの日着てきた粗末なシスター服一式がしまわれていた。
着慣れたその服は袖を通すと素肌のように馴染む。
自分が聖職者であるという自覚が、自分を奮い立たせる。
「お前が行ったところでなんになるって言うんだよ? 子供の頃から聖力も乏しくて野の花を一輪、咲かせるのも精一杯だったのを、俺は知ってる。
今までもご主人様が首尾よくヤツらを追い返してきた。邪魔をしちゃダメだ。
お前が行ったらご主人様の気が散るだろう?」
「わかるのよ、なんでか。今が行くべき時だと。
みんなには教えてなかったけど、わたしとユーリ様の力は、それぞれひとりずつでは完全ではないの。重ねて初めて膨大な聖力を生み出すことができるの。
⋯⋯お願いします、パズ、わたしをユーリ様の元へ行かせて」
パズは躊躇していた。
シイナは祈るような姿勢で、パズに「どうか若奥様を止めて! 」と声にした。
着替えが終わり、もう一度青い石を首からさげ、持ち上げて唇でそっと触れる。
光が
砦の向こうに見えるのは燃え盛る森。
轟々と炎を上げて、うねるように燃え広がる。
その真っ赤な視界の中に、小型の龍が3頭。どれも禍々しい毒沼のような色をしている。
龍の背中にはドラゴンライダー。
こちらはユーリ様頼みの布陣で、対空部隊は弓兵と僅かな魔術師のみ。騎士団は固く陣形を組んだまま、馬を走らせて先頭から敵陣に切り込む形だ。
邪龍が火を吹く。
火を翼で扇ぐように延焼させる。
その燃え盛る森の中を、己の命の重みを知らない魔獣たちが、一匹一匹と炎に身を投げるように、やや数を減らしながらもこちらに迫る。
魔獣の散りゆく体内から煙のように黒々とした魔力が霧散していく。
一帯、魔力に満ちて、すべてを黒く変える。わたしの髪色のように。
◇
「シイナ、その引き出しに入っているマントには聖力が込めてあるわ。それをかぶって、いざとなったら逃げるのよ。
城のほかの者たちにも刺繍入りのなんらかの小物を与えたはず。お守り代わりにしかならないかもしれないけど」
わたしは一歩を踏み出した。
ユーリ様の望む姿ではないかもしれない。
それでもわたしは、いつでも一番後ろの末席に座らされて、怯える黒髪の聖女ではもうない。
この地が、龍が、ユーリ様が、わたしに力を与えてくれたから。
「若奥様! どうかご無理をなさらずに」
「なんとかやってみる! しくじったら笑ってちょうだい」
パズが「まったく子供の頃から融通がきかないんだよなぁ」とブツブツ言いながら、わたしの後ろを着いて来る。
「まぁ、いざとなったら俺を盾にしろよ。ご主人様に拾われた命だ」
そう、わたしたち黒髪の者は冷遇され生きてきた。しかしここでは誰もが堂々と道を歩ける。例え、髪と瞳が黒くても。
わたしはここを守りたい。
力のすべてを捧げても――。
◇
「若奥様、残ってる馬は扱いの難しいヤツらばかりで」
「構わないわ。子供の頃から馬には慣れてるの」
貴族の乗馬は形式的なことが多く、まだ慣れずにいた。でも実は子供の頃から教会近くの森や草原で馬を走らせるのが、ひとつの遊びだった。
馬と言っても、もちろん血統などない、駄馬だ。
農耕用に飼われているような。
シスター服のスカートの脇を破りスリットを作り、鞍を置くより先に馬に乗った。後ろから呼び止める声が聞こえたけど、止まるわけにはいかない。
わたしに続いてパズも飛び出す。
「おい、聖女様。淑やかさはどこにやったんだ?」
「そういうのは所詮、後付けでしょう? あの頃、散々、馬に乗って良かったわ」
「女だてらにこんなに馬を走らせるなんて、ご主人様が見たらなんて思うか。⋯⋯その前に俺は打首になるかもしれないけどな」
「ユーリ様はそんなこと、しないわよ」
おかしなことに、笑いがこぼれた。
行く先は、闇夜を不気味に染める緋色。
龍の咆哮が、ここまで聞こえる。胸元に揺れる青い石をギュッと握りしめる。
どうか、自分を見失わないでください⋯⋯そう願う。
前方から一騎、わたしたちに近づいてきた。自軍の印に青いマントをはためかせている。
「聖女様、とりあえず砦までご一緒します」
「感謝いたします。戦況は?」
「未だ交戦には至りません」
それだけの情報で十分。
ほっと、一安心だ。
3頭の馬に祝福を授け、速度を上げる。
一刻も早く、砦を目指す。まだ、ユーリ様は遠い。
◇
砦は人でごった返していた。
甲冑の擦れる金属音が響く。松明を持った者が慌てて走って行く。
闇の中で鈍く輝く銀髪が、うつむく顔にかかる。声をかけるのが憚られる、疲れを隠せない表情。普段は決してわたしには見せない顔。
怒られるのを覚悟して駆け寄る。
「ロッテ! 帰りなさい」
振り向きざまに見せた形相は、怒りでみなぎっていた。一瞬、怯む。
「⋯⋯悪い、大きな声を出して。しかし今は余裕が無いんだ」
胸が軋む。
その姿に声もかけられない。
線を引かれた気がして、近づくこともできない。
後ろから、先導してくれた騎士が現れ、こちらへと案内される。
このまま行っていいものか、迷う。
ぐっと目をつむり、パッと開く。
ユーリ様の
ユーリ様に救われたのは、パズだけじゃない。
振り向きもしないその大きな背中に、戸惑いつつ、手を当てる。⋯⋯ずいぶん疲労している。それだけはわかる。
龍の姿を保つのは、思っていた以上に苦しいのかもしれない。
わたしの当てた手から、白い流星のような光が迸り、周りがざわつく。
「ロッテ、来てはいけないと言っただろう? 君なしじゃ戦えないんだ。だからこそ城に置いてきたのに。甘えがあると心に隙ができる」
「そうですよ、ユーリ様にもそういうところがあるんですね。安心しました。恐れを持つのは悪いことではないと思うんです。目前にあるものに備えることができる。
いいですか、あなたにはわたしがきっと必要なんです。わたしは傷つきません。だってあなたがそばにいるから」
ユーリ様の顔がゆっくり持ち上がり、力を持ち直したその目で視線をわたしに向ける。青い瞳に映る、わたしの暗い影。それを見て、なにを思うのかわたしからはわからない。
わたしの気持ちはどうせダダ漏れなんだろうけど。
「本当は普段、龍になって戦場にやって来ることはまず無い。君の言う通り、状況が良くない」
「そうでしたか。体調はいかがですか? 癒しの力を送ったつもりですが、何分、経験が少ないので」
「いや、ずいぶん楽になったよ。君の力であればどんなものでも私の力に変換される。この地に満ちる魔力が皮肉なことに聖力になるんだ」
いつもより男らしく無骨に見える指が、わたしの頬に触れる。彼はその場に似つかわしくない微笑みを見せた。
邪龍の耳をつんざく奇声が響く中、彼はわたしにやさしく訊いた。
「私の背中に乗ってくれるかい?」
「喜んで」
彼は開けた場所まで行くと、するすると形を変え、大きさが変わり、巨大な黒い龍になる。
騎士たちは遠巻きにそれを見ている。
騎士たちにしてみても、龍の姿に変わる領主を見るのは珍しいらしい。普段なら剣技だけで戦場を駆けているんだろう。聖力を乗せた剣は、風を切るように素早く相手を倒すらしい。
変容した彼の姿、その瞳がこちらを向く。
青い瞳の龍。その心の清らかさが溢れている。
人の言葉を話せない彼は、わたしのことを促す。パズは最初は驚いていたものの、わたしが彼の背に乗るのを手伝ってくれた。
黒曜石のように、鋭く光を反射する美しい鱗。これがわたしの龍。
「騎士団、領主様に続け! 聖なる力は我々に力を授けた。魔を滅し、聖となす。ヴィルヘルムに栄光を!」
◇
不思議と空は怖くなかった。
風は耳の鼓膜を破るんじゃないかと思う轟音を立て、旋回する度に落ちるんじゃないかと疑った。
それでもわたしたちはまるでひとつの生き物のように空を飛び――前方に、邪龍の姿を捉えた。
まだどの騎士たちも追いついて来てはいない。
龍の速度に馬が着いていけないから。
わたしは青い石を握り、ユーリ様の意思を読む。
力を合わせるタイミング。
鼓動がうるさくて、時を数えるのを妨げようとする。
気をつけて、3、2、1、⋯⋯。
黒い龍の口から放出された光の波動が、邪龍を狙い落とす。
まず1頭。向かって右の1頭が怯んで高度を落とす。
左にいた1頭が替わって前方に出る。
あの日、ふたりで掌を合わせた時のイメージで、呼吸を合わせる。
幾夜も夜を重ね、ふたりで紡いできた波。
その波を手繰り寄せ、力に変える。
もう少し、高まる、力がみなぎり、背筋を貫くように聖力が走る。感じる、あなたを深く――。
吠える龍を真正面に捉え、白銀色のブレスがそれを吹き飛ばす!
バランスを崩したライダーと共に、きりもみ状態でそれは暗い谷に落ちて行った。
右手にいた龍は乗り手が機を見計らったのか、急旋回して自国に向かって遠ざかって行った。
クォオォォ⋯⋯!!
わたしの触れているところから龍はオパールのように、虹色に発光する美しい鱗を持つ姿に変貌する。
光を放ちながら飛翔する姿は、まるで箒星のように見えるだろう。
力の重なりが心地いい。風が、火照ったグリザを冷ましてくれる。
魔獣たちは光に怯え、逃げるように帝国へと去っていくのを見てとった。
「ユーリ様、どうやら危機は去ったようです」
その声を、龍が聞いたのかわからない。
けれども龍は速度を緩やかに落とし、ぐるっと大きく旋回して向きを変え、そのまま砦を越えて城の方向へ、羽根をはばたかせた――。
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