第11話 日常が変わる音

 新婚生活というのは素晴らしいと聞いていたけれど、わたしの場合、


『初恋から即婚約、即結婚。待たされてからの初夜』


 と予測できない不規則な流れだったので、その中身はめくるめくロマンティックな出来事ばかりで、文字通り、目が回りそうだった。

 詳しくはないけど、恋っていうのはもっとしんしんと降り積もる雪のようなものなのかと思っていた。


 少し、毎日少しずつ、城にユーリエ様のいる生活にも慣れて、彼に守られながらわたしは勉強をし、刺繍針を動かし、お茶をする。

 時々、お供付きで街に出るのは刺激的。

 この領地の富裕層は商業で成功したひと握りだけで、ほとんどの人が小さい商いか農民、鉱夫という素朴な土地柄だ。


 街に出ると、いつの間にかフードもかぶらないようになり、黒髪にグリザのあるわたしは『お城の聖女様』と受け入れられ、『シャルロッテ様』と呼ばれるまでになった。

 黒髪が虐げられることがないのは本当で、街で普通に黒髪の人を見かける。


 それから、我が国を侵略しようとしているという隣国、ガラテア帝国から移り住んできた人も中にはいた。軍人ではない、罪のない人。

 ガラテアでは戦いに参加しない国民の待遇が悪く、国境を、魔獣を恐れながら越えて来る流民が増えつつあるらしい。


 ユーリ様は流民の対策に追われている。

 先んじて手を打たないと、流民たちは不法で悪条件の労働環境に回されたり、ひどい場合は人身売買、そして奴隷になってしまう。

 流民が土地に定着するようにするには、例えば森を開拓し、耕作地を広げさせたり、才のある者は取り上げ、適材適所に配置する。


 それがこの地を長く治める者、爵位を持つ意味だとユーリ様は枕元で話してくれた。

 政治の話は難しい。でもつまらないわけではない。

 誰かをしあわせにするために行う政治は、聞いていてしあわせな気持ちになる。


 すれ違う人にふと違和感を感じて振り向くと、そこには黒い埃のようなものをつけたガラテア人がいる。

 わたしは笑顔で「埃がついてましたよ」と感じ良く言ってその人の肩をそっと払う。

 普通の人には見えないキラキラしたビーズのようなものが風に乗って飛ばされる。魔力が浄化された姿、すなわち黒化の浄化。


 ◇


 街に出る度にそういう人に会うわけではないけど、度々、すれ違う。そして浄化を行って、なぜかすべてユーリ様にはバレている。

 パズが密告しているんじゃないかと疑うほど!


「ロッテ、気持ちはわかるけどその相手が必ず善人とは限らないじゃないか。私はそれを心配してるんだよ」

「もしもの時のために、パズに同行してもらっているではないですか? それに、小さな魔力でもきっかけがあれば大きなものに育つ可能性があります」


 そこまで行くと、ユーリ様はいつもため息をつかれた。はぁ、と。


「君には負けるよ。聖女というのは本当に善性のものなんだね。疑うことを知らず、穢れを払う。⋯⋯そういう私も君に同じことをしてもらっているようなものだから、まったくなにも言えなくなる。困ったものだ」


 ユーリ様にそう言われると、わたしはまるで正義感に満ちた跳ねっ返りのようで、まだまだ子供だと思われているような気になる。

 そうすると無意味に意地を張りたくなって、大切なふたりきりのティータイムを無駄に消費することも多々ある。


 そんな時はすごく後悔する。

 そんな夜はベッドで膝を立てて座って、ユーリ様を待っている。生意気だったかもと反省もする。

 別に、反抗したいわけじゃないのに⋯⋯。

 ああ、今日も特別な時間を沈黙で終わらせちゃった。


「ロッテ、まだ起きてたの?」

「⋯⋯お待ちしておりました」

「布団にも入らず、困った人だね。君は別に私を困らせてはいないよ。ただ、心配しているだけで。

 君が私と離れている時に魔力に晒されているなんて、それを感じ取った瞬間、何度も身震いしたよ。

 君の指先に魔力が触れた瞬間が私にはわかる。それが例えどんなに小さな黒化であったとしても」


 まだうっすらと濡れた銀髪が、彼の動きに合わせていつもよりしっとり重く動く。雨の中を走ってきた人のように。


「⋯⋯抱きしめてください」

「甘えてるの?」


 あの、雨の中、深夜に龍になって国境から飛んで来た彼のことを思い出す。

 雨の匂いはしない。雨音もしない。

 清潔なシャボンの匂いが彼の全身から漂う。

 なぜか少し、悲しくなり、鼻の奥がツンとする。


「背伸びしないで。浄化は私と一緒に行おう。ふたりで行った方が確実だし、安全だ。

 ⋯⋯君の美しい折れそうなか細い指が穢れに触れるのかと思うと⋯⋯私がどんな気持ちになるのか、想像できる?」


 こくん、と首を縦に振る。そしてそのまま顔を上げられない。

 こんなふうにやさしくお説教されると、一番響く。

 幼かった頃、やさしかった司祭様に諭された時のように。


「決して無理をしてはいけないよ、愛しい人。君の代わりは決していないのだから。

 危ない時はパズを城に走らせればいい。そして君は逃げるんだ。私は連絡を受けたらすぐに君の元に行くから。

 だからこれ以上、私の心を締めつけないでくれ」


「ごめんなさい。やたらに聖力を使わないようにします」


「君は聖力を振り撒いて歩かなくても、立派な聖女様なんだ。だからこそ、大きな危険に巻き込まれるかもしれない。そのグリザはとても目立つから。

 ⋯⋯城下を歩くのは楽しいようだね。私も暇を作って、今度はふたりでデートをしよう。結婚前にできなかったからね。

 私がいればふたりきりでも安心だ」


「いつか、ユーリ様の背中に乗せていただき、湖水の上を飛んでみたいです。シイナが怖がって、湖畔には行けないですし」

「⋯⋯私の背中こそ穢れている。龍の黒い鱗は、険しい山にある岩肌のように君を傷つけるだろう。

 ロッテ、きっと君は私に幻滅する。それだけは叶えてあげられそうにない。私はフランティア様の記憶にある龍より更に醜いんだ」


 ユーリ様は振り向き、わたしに大きく腕を回した。

 ふわっと翼の中に包まれるように抱かれる。大いなる愛を、そこに感じる。

 キラリと白い鱗が虹色に光を乱反射する幻を見て、わたしは納得する。ユーリ様はまだご自分の本当の姿をご存知ない。

 あなたの心の奥深く、龍のいる場所こそがわたしの心の居場所なんだと。


 そうしてわたしたちは、不器用ながらに長い夜を重ねていった。


 ◇


 月のない夜だった。

 みなが寝静まった城に、甲高い鐘の音が三回、何度も響いた。


 わたしの意識はまだ夢の中に置き去りで、眠りに揺られながら、抗うように目を開く。

 ユーリ様は少しも無駄のない動きで立ち上がってガウンを肩に羽織り、「ここで待っていて」と囁くと大きな歩幅で部屋を出て行った。

 ⋯⋯なにかがおかしい。


 シイナは慌てた様子で、いつもより少し乱れたメイド服姿でドアから崩れ落ちるように入って来た。

「若奥様、敵襲です⋯⋯」

 その声は震えていた。

 よく見ると、手も震えている。

 黒い闇の中に、溶けるように粘り気のある泥のようなを感じる。街中でたまに見る、あれだ。


 無意識に握りしめていた手をゆっくりほぐし、シイナの少し荒れた手を、両手で包む。

 練習してきたじゃない。聖女ならこういう時にどう振る舞うのか――。


「大丈夫。ユーリ様は余裕を持って部屋から出て行かれたわ。騎士様たちの甲冑の音が聞こえるわね。もうすぐ出陣できるのでしょう。

 ユーリ様は無敗の将と名高いお方。わたしにはここを離れないようにと言ったわ。

 殿方たちを信じて、ここに居ましょう」


「若奥様」

 大きな足音を立ててやって来たパズは甲冑を着けてはいなかった。いつもの服に、厚い皮の軽い防具を着け、腰にはいつものより使い込まれた剣を提げていた。

 シイナは彼の声に振り向いた。


「パズ、なにがあったの?」

「ガラテアから魔獣が城に向けて放たれたとの報告です。今、騎士団を中心に偵察隊を放ち、作戦を立てているところです。

 魔獣は幸い西の砦をまだ越えてはなく、念の為に国境近くの住民を避難させるとのことです」

「ではユーリ様は?」

「ご出陣となるでしょう。伝言を預かりました。『ここではよくあることなので信じて待っていてほしい。決して城を出てはいけない』」


 唇を噛む。

 ユーリ様の危機にわたしはなにもすることができない。ただ待つだけの女なら、ヴィルヘルムの嫁は誰でも良かったはず。


 真っ赤なグリザが炎のように熱を発し、黒髪が燃え上がるんじゃないかと思うくらい、聖力が身体から放たれようとしている。

「若奥様!」と駆けつけたシイナの腕の中にわたしは崩れ落ち、パズが「失礼します」とわたしをソファに横たえた。


「ロッテ、グリザの反応が辛いのか?」

「大丈夫、ユーリ様にはなにも伝えないで。心配をかけたくないの」

「しかしご主人様にはロッテに異変があったらすぐに連絡するよう、申し付けられているんだ。それからこれを預かった」


 パズのグローブを嵌めた掌から、青い、かの人の瞳と同じ色の大きな石が現れた。

 これは龍が一生に一度産み出すと言われている、ブルーサファイアだ。

 渡されて握りしめると、直に掌から力を感じる。これはユーリ様の力の波動。わたしの暴走する聖力を抑えてくれる。


 その石のネックレスを身に着け、夜着のままガウンを羽織り、今では踏み慣れた絨毯の上を裸足で走る。


「ユーリ様!」

 騎士に指示を出していた彼はこっちを向いた。見たことのない険しい表情で、あの青い目がわたしを射抜くように見た。


「ロッテ、君は本当に⋯⋯。いいかい、一刻を争うんだ。その石は私の魂と直接繋がっている。そういう回路を開いておいた。

 ⋯⋯お願いだ、ここにいてくれ。初めてのことじゃないのだから心配は」


「お願いです! 予想を上回る数の魔獣がこちらに向かっているのがわかるんです! グリザがわたしに見せてくれるのは、魔獣を率いる禍々しい邪龍の群れです。ユーリ様おひとりでは」

「それでも私は行く。パズ! なにをしている! ロッテを部屋に。もしもの時には⋯⋯」

「わかっております。さぁ、ロッテ、邪魔をしてはいけない。ご主人様の仰る通り、ここではこんなことは何度もあるんだ」


「ユーリ様! 今夜は――今夜は違うんです! お願いです。わたしも行かせてください。誰かわたしを馬に乗せてちょうだい!!」


 わたしの願いも虚しく、力強いパズの腕で部屋まで引き戻されてしまう。

 叫び声は廊下を突き抜けて、虚空に吸い込まれるように消えて行く。

 ユーリ様のマントを目で探す。あの、ブルーのマント。裾にずっと刺繍を施した。ひと目ひと目、僅かな聖力を込めて。


 お願いします。少しでもわたしの力が彼を守りますように――。

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