第10話 獣の本性
湯浴みから戻ったユーリ様はわたしの髪を見て一言「ごめんね」とこぼし、金色の束をそっと指で撫でた。
髪の色が変わることなんてわたしにとってはどうでもいいことで、それよりも彼のうつむいた顔が悲しい。
夫婦の寝室は結局、元からユーリ様が使っている部屋になり。その部屋は木目調の落ち着いた内装で、ところどころに大理石が使われている。
以前見せられた金色で飾られた部屋より地味に見えるかもしれないけど、その趣が、平凡な部屋ではないことを無言で教えてくれているような。
部屋は二間続きとなっていて、夫婦の
そこではカウチソファもあり、休むこともできる。ユーリ様の休憩用。
侍女がテーブルに少し遅い朝食を用意してあった。
「どこか痛むところはありませんか?」
実を言えば、あちこちが軋むように痛かった。
初めてのことで、どれくらいの痛みなら標準なのかわからない。
強く押されたかもしれないし、爪がひっかかったところがあるのかもしれない。無理な姿勢で関節がおかしくなった気もするし⋯⋯。
触れられる彼の指先の熱さに、驚く。違う、わたしの受け止め方が変わったんだ⋯⋯。
「大丈夫です」と小さく返事をした。
ユーリ様と並んで座っていたところ、彼は更にぐいっとわたしの身体を引いた。逃げ場なんてまるでなく、丸め込まれてしまう。腰に手をかけて座っていては、ご飯を食べるのはとても無理だ。
「とりあえず朝食をいただきませんか?」と声をかけると「そうだったね、食欲より別の欲求が邪魔をして、危うく君を食べてしまうところだった。なにしろ私は危険な龍だからね」
そんな脅し文句に怯んだりはしない。
ここに嫁いだことに後悔もない。
そして――グリザは消えることなく、還俗に等しい行為をしてもまだそこにあった。
それが喜ばしいのか、残念なのか、複雑な心境。
でも、聖力があれば、少なからずユーリ様のお手伝いができる。
⋯⋯ここにいる、意味ができる。
◇
軽い食事として現れたのは、厚切りのハムとチーズのサンドイッチ、ポタージュ、食べ切れそうにない量のフルーツ。
ユーリ様の、白い指は武骨そうに見えて、ピアニストのような滑らかな動きで器用に果物の皮を剥いていく。
それを餌付けされるように与えられ、リスのように口はパンパンになった。
「そんなに食べられません。ドレスが入らなくなっちゃう」
「それなら仕立て屋を呼ばなくちゃいけないね。ここにある物は僕が押しつけで趣味の物を揃えたんだ。君の趣味に合うものを好きなだけ買うといい」
わたしは正面から彼の目を見て真面目な声を出した。
「ユーリ様、そのドレス1着で庶民の服が何枚買えることでしょう。もしもわたしに買ってくださると仰るなら、民にお与えください。古着や、それをまた修繕した服を民は着ているのですから」
「ふむ、それは一理あるね。教会育ちだから説得力がある。施策として考えてみよう。
しかしね、今後、来客や訪問時、社交の場などに着る服は贅沢に思うだろうが数着必要だろう。これは貴族に嫁いでしまったデメリットと捉えてもらってもいい。
わたしからの贈り物のひとつと思ってもらえないかな?」
なんとはなしに、両手の指先を見る。
縫い物ばかりしたわたしの手。すっかり今では趣味となったけれど、針と糸を手放せない。
わたしはクローゼットから、そっと一着を取り出してきた。
「これはわたしがあなたの遠征中に縫ったものです。実用性重視となりましたが、よろしければお使いいただけたらと」
ユーリ様はその濃紺の布をしげしげとご覧になり、こちらを見た。
「出過ぎたマネをしましたか?」
「いや、こんなに素晴らしいものをもらえるとは思ったこともなかった。仕立て屋を呼ぶことに反対するのもうなずける、素晴しい腕前だ」
「そんな! 社交界に着ていくような服はとてもとても。第一、流行のスタイルはわかりませんし」
隠そうとしても、褒められたのがうれしくて耳まで熱くなる。
でも、無事にお戻りになってよかった。こうして縫ったものが無駄にならず、お気に召されて。
「羽織ってみよう」
さっとシイナが現れて、ユーリ様がわたしの作ったローブを身に纏う。
それは濃紺の布で仕立てたもので、銀糸でハンカチ同様、家紋を入れて作ったものだ。
宵闇に紛れての活動には向かないと思うけど、外出時、訪問先次第では使うことができるんじゃないかと期待していた。
「上質な布で軽い。でもそれ以上にやはり刺繍が素晴らしいよ。どこにもこんなに手の込んだものは売られていない」
「お言葉ですがご主人様、若奥様はわたしたち使用人にもプレゼントという名目でハンカチをくださるんです」
シイナはメイド服のポケットに手を入れ、一枚の布をユーリ様に差し出した。
「これは赤い薔薇だね」
「はい、わたしの宝物です。布地だけでも十分、高級品なのに。施された刺繍を若奥様が刺されている姿をいつも見ていましたから」
ふむ、と彼は唸ると、わたしに両手を見せるように言った。
隠しようもないので両手を広げて見せる。
「数カ所、針で刺しているね。かわいそうに。しかし魔力で傷ついた時には痛みが確かに私にもわかったのに、日常的な痛みは届かないというのは、私としては面白くないな。
そういう時こそ、白馬の王子のように颯爽と助けに向かいたいものだ」
真剣な目をしてそう仰るので、思わず笑いを抑えられなくなってしまう。
白馬の王子様は魅力的な男性の象徴なのかもしれないけど、わたしには逞しい黒い龍がいる。それが喜ばしいのに。
「さぁ、手を離してくださいね。良かったです、針を刺したくらいでまた真夜中に飛んでこられてはたまりませんもの」
「心配しすぎて悪いことはないよ」
「いいえ、お荷物にはなりたくないです」
さぁ、話はここまでと、彼のローブをしまってもらえるようシイナに渡す。
ほかにも手袋や枕カバーなどに刺したし、寒くなった時のことを考えて、厚手のフェルトでルームシューズも作った。
でも一度に全部見せたらあまり得策ではない気がして、都度、お見せすることにした。
今度はスタンドカラーの、社交の場にも着ていける、上品なピンタックのシルクのシャツを仕立てるのはどうかしらと、また趣味への妄想を膨らませて、素人の手で作ったものを社交の場でなどと恐ろしい考えを持った自分を恥ずかしく思う。
次は夏にお似合いのドイリー(テーブルのセンターに敷いたりするもの)でもレース糸で編もう。
ここでの暮らしは自由な時間が多くて、それを持て余してしまうことが多いので。
「実はね、君の縫い物には魔を払う微力な聖力を感じるんだよ。シイナも良いものをもらったね。魔物避けになるよ」
まあ! とシイナはオーバーなリアクションをすると「奥様、ありがとうございます!」と深い角度でお辞儀をした。
わたしはすっかり恐縮してしまい「いいのよ、わたしの力なんて本当に微力なんだから」と言った。
ぺこぺこしながらシイナは朝食の片付けに部屋を出て行った。
◇
「さて、たまった執務の前に、私の素晴らしいお嫁さんを摂取しておこう」と、わたしを軽々と膝の上に乗せ、身体を線を描くようになぞり、大胆な口づけをした。
「ユーリ様、まだ昼間です。神様が見ていらっしゃる時間です」
「神様も目をつぶるさ。私の欲を昨日まで我慢させていたのだから。初夜の分の利子があるだろう」
ピッタリしたドレスの背中を、わたしよりずっと厚い手のひらで首の後ろからゆっくり背骨に沿って腰まで撫でられ、とても普通ではいられなくなってくる。
彼の吐息がかかる首筋に、痕が残るかもしれない。ぼんやりそう思うだけで、少しも抗えない。
自分も知らなかった自分が、彼の手ひとつで暴かれていくのは、目をつむる程怖いと同時に、鍵をかけられた小部屋を次々と開けられるような快感に身を委ねる。
聖女だなんてやっぱり飾りだけの属性で、わたしも獣と変わらないと思うと、理性のタガが外れ、すべて彼に流されていく。
神様、と背中を雷が突き抜けるような感覚を得て、彼の手はようやく止まった。
「君の言う通り、朝からベッドに戻るのはやめておこう。でなければ今夜は徹夜で執務に当たらなければならなくなるし。悶々としていたら仕事は遅々として進まない。⋯⋯すまないね、その気にさせてしまったかな?」
「意地悪を仰らず仕事をしてくださいませ! 今夜もベッドの片側にいらっしゃるでしょう?」
「招かれればね」
もう、と憤慨していると彼はシイナとパズを呼んで、ドレスを見がてら、街で遊んでくるようにと言いつけた。
外出なんかしないでむしろ、彼の姿の見えるところにずっといたいとは到底言えなかった。
わたしの乙女チックな主張は彼によって曲げられ、またベッドに放り投げられてしまうかもしれない。
これからは安易にそういう空気を作らないよう、わたしから気をつけようと、深呼吸する。
でないと――。
わたしの理性がぐだぐだになってしまう!
仮にも神に属するものなのに。
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