百合で造った百合の造花

サクラクロニクル

水面に映る月、鏡のなかに咲く花、百合で造った百合の造花

「だから水月みづき先輩の書く小説、でうらやましいです」

 わたしの腕はベッドのシーツに押さえつけられていた。両方とも。スプリングがきしむ。依子よりこはわたしよりも背が高いし、それに応じた重量がある。抗えなかった。彼女のものの言い方にどうしようもない嫌悪を抱くのとは別に、その身体が備えた美から目が離せない自分がいる。美しい人間が書くものが本人に劣らず美しい百合の花を咲かすこともわたしの劣等感を刺激した。天は二物を与えずと言う。世間が人心を納得させるために作り出した、馬鹿にしか通じないまやかしの言葉としか思えない。

「なにさ。羽田さんは上から目線でうらやましがる奇癖があるってわけ?」

 そう口から音を出したものの、できた抵抗はそれっきりだった。

「悪いですか? それが悪いって言うなら、いっそあたしは邪道を歩みます。それで水月先輩のことが手に入るならそれでいいです」

 そこから先に起きたことはわたしの名前と同じように幻であればよかった。でも、そうはいかない。そういうことにはできない。現実は。わたしの脳が破壊されて記憶が消えてなくなってくれない限り。そしてもしそうなったとしても、どこかに必ず観測者はいる。

 わたしの脳裏には真っ白な花の姿があった。なにかが変だなと思う。その花は、繰り返すけれど真っ白だった。真っ白なのが変なのだ。そのおかしさの理由をわかることもできないまま、依子の指がかき鳴らす水月という楽器の音を聞いた。


*


 そのときに聞こえた音。

 さざ波の中に浮かぶ月の白色。

 命の声。

 あなたの温度。

 思考さえ溶かす、八月の夜。


*


 羽田依子は百合小説を書く。それもあまり外の人間に読ませられないようなやつを。この新入生が提出してくる小説がどんなものであろうかと、わたしは先輩としての無邪気な傲慢さで批評してやろうという気でいた。けれどそんな気持ちはほんの数行の文章を読んだだけで消え失せた。そこにはわたしが抱くような後ろ向きな女性への好意というものがなかった。男というものが根本的に汚らわしくて不愉快な存在だから消去法で女子を選んでいる、というようなごまかしがない。女の子は美しい。女の子は、でもそれと同じくらいに穢れている。そういったことから一切逃げずに性愛を書いていた。

 性愛。最初で最後となった男との関係を思い出すたびに、わたしはその男から噴き出してきた謎の液体のことで吐き気がしてくる。もちろん、それの正体のことは知っている。ずっと昔から知識で知っていた。学校でも教えてくれる。教科書にだって載っている。だのに誰もが往来で口には出さないそれのことが、わたしにはどうしても受け入れがたかった。で、わたしはその彼に「無理」ときっぱりと告げた。彼はいなくなった。さっぱりしたけれど、その一方で自分の潔癖さに辟易してしまった。台所で包丁を見つめてみた。でも、とわたしのぼんくらな部分は言うのだ。自分には愛してくれるひとなどいない。だから自傷行為の先にある自己承認欲求を満たす術などないんだと。

 依子の小説を読み終えたあと、改めて彼女の筆名を見た。水無月みなづき鏡花きょうか。そういう名前だった。なにかの因縁、というよりも、自分と比較するために存在するのではないかというほどに自身と近接した名前だった。わたしはその小説を読んだ晩、あまりの悔しさに眠ることができなかった。ひたすらに塩味のする体液で眼球表面を洗いつづけるばかりだった。

 そんな依子が、部誌に載せるための小説のなかで特に気に入ったというのがわたしのものだった。

「いいですね、水月先輩の」

「へえ、どこが?」

なのが。あたし、普通ってのがよくわからないから。うらやましいですよ。どうあがいても普通になれない。追求してるつもりなのに」

 イライラした。小説を書くということは普通のことじゃない、とわたしは思っている。部誌にちまちまと自作を載せながら公募に挑戦する、つまりプロを目指しているのは普通じゃない。文章を書いてお金をもらえるようになるために色んなことを勉強している。英文学を学びながら文芸誌を片っ端から読み漁って、傑作と呼ばれる小説を読破し、構造分解やなにが評価されているかの分析をやって、そうした積み重ねの先で毎度気分が悪くなるほど自分を追い込んで小説を書いている。平均的な字書きみたいな木っ端とはそもそもやっている質量が違うと自負できることを目指して積み上げているというのに。それで普通であることを褒められるなんて当て擦りとしか感じられなかった。

「羽田さんってちょっと逸脱してるね。感性が違いすぎる」

 そう答えたわたしは、悔しさと同時にどこかで納得してもいた。それについては簡単に説明できる。要するに受験勉強みたいな傾向と対策で書かれたものなんて感性の鋭さの前では凡庸なものに過ぎないということだ。どこかのコンテストでちょっとちやほやされて、その成功体験を得るために猿真似の物書きをする。そんな感じのことをやってるんじゃないかと自分自身に漠然と抱いていた疑問を他人に看破された。

「水月先輩もそう思います?」

 そう言って依子は首を傾けた。そうやって首筋を露わにしながら地面に視線を逃がすとき、わたしは依子の身体に対してドキッとしている自分を見つける。

「じゃない? 作者と作品に相関関係を見い出すなんていかにもありきたりだからやりたくないけど、羽田さんってなにもかもが綺麗だよ」

「綺麗なひとが綺麗なものを書く。いかにも普通ですね。でもそれって、水月先輩が言うと特別に普通な感じがします」

 もう口を開くな、と言いたくなるほど彼女の言葉には邪気がなかった。だからわたしも対処に苦慮しているのだろう。

 載せる位置は考えなくちゃな、とわたしは部誌を読んだ人間のなかで起きるだろう虐殺劇のことを思って気が滅入った。


「先輩にひとつお願いがあるんです」

 依子が言った。どこか後ろめたそうな感じがした。クスリが切れちゃったから売ってくださいと懇願するような目つきをしていた。

「あたしとルームシェアしてくれませんか? その、収入が安定するまでの間と言いますか」

 わたしがひとり暮らしをしていることをどうして知っているのかと一瞬だけ考えたけれど、情報が漏れる隙間はいくらでもあった。文芸部に所属しているならたいてい知っていておかしくないことだし、わたし自身も特別隠しているつもりはないから。

「別にいいけど、うちにどれくらい入れてくれるの? それに、そんなに便利なとこじゃないよ。通学に一時間くらいかかる」

 最寄り駅までの距離が近いほどに部屋は高くなる。でも家族なんて重荷がいたら自分のやりたいことはできないと思っていた。天秤にかけた結果として、月七万のワンルームにわたしは住んでいる。引っ越し業者と家族以外をなかに入れたことはない。わたしにとってはそれなりに清浄な空間だ。そこへ依子という異物をすんなり入れてもいいと判断した。答えてから自分自身にはっとする思いだった。

「それはその、家事手伝い、とか? おいおい出世払い的なところでひとつ」

 あまり持ってなさそうな雰囲気を感じた。

「割に合わないな。悠々自適な生活に余計な人間を入れるのさ。それだけの変化とコストに見合うだけのものを出しなよ」

 すると、依子はちょっと考えたあとに上目遣いでこう言った。

「じゃあ、こんなのはどうです? 先輩に夜のご奉仕をしてあげる、とか」

「は?」

「いえ、なんでもないです」

「いまのはなんでもあるでしょうが。ひとのことをなんだと思ってるの? わたしは男じゃないんだよ。そういう欲求はない」

 嘘だった。

「まあ、そうですよねえ。ですよねえ。需要があるなら、水月先輩ならもう彼氏のひとりやふたり作ってそうですもんねえ」

 わたしは自分が握りこぶしを作ってることに気づいた。自分が嫌になるような反応だった。なにも言い返せなかったのだ。わたしには反射的に彼女の頬をひっぱたくような意気地がない。かといって、そうした憤りについて表に出さないようにするような自制心も持ち合わせていない。それがとても嫌だった。

「はあ」とわたしはため息を零してからつづけた。「いいよ。いい。出世払いで。それに、羽田さんが小説書いてるところにちょっと興味がある。それを入居の初期費用ってことにしといてやるよ」

「あ、そんなんでいいんですか? でもま、それはそれでちょっと背徳感ありますよね。なんというかこう、ひとりでやってるのを他人に見られてるみたいなやつ?」

「いつでも花が咲いてるんだね、羽田さん」

 わたしは笑ったつもりだ。

「それくらいしかあたしにはないので」

 依子に笑顔はなかった。

 ちらっと頭のなかによぎる白い花の姿。


 ふたり暮らしを始めてすぐ、依子は持ち物が極端に少ないことに気づいた。世代遅れのノートパソコンに衣服が一ケース、それに大学で使う教材と筆記具、それらをしまうバッグに財布。それだけだった。わたしは彼女に来客用の布団とタオルを貸してやった。プリンターもだ。

 住まわせる対価として掃除洗濯、場合によっては食事の用意までを担当させることとした。彼女は了承した。そこまでで要求はやめた。まだ自制心が働く余地があった。

 依子の大学生活はわたしと似て奨学金によって支えられていた。違いはある。わたしは中古の本を取り扱う店でバイトをしてる。依子はなにもしてない。小説を書くだけだ。わたしは初期費用を回収すべく、彼女が小説を書く過程を観察することにした。

 彼女とわたしの決定的な違いは計画をどのようにして立てるかというところにあったかもしれない。わたしは小説を書くとき、登場する人物を表にしてまとめ、どのくらいのペースでどのようにして登場するか、そのページでなにが起こるのかを計算し、それに従って文章を書いていくというスタイルを取っている。依子は違う。適当な動画配信サイトで気に入った音楽を探し、これというのが決まるとその曲を延々と聞いている。特に作業の邪魔になるということもないので好きにさせているが、ひとによってはイヤホンさえ使わないその傍若無人さを嫌うだろう。そして彼女はプロットを作らない。プレーンなテキストデータに題名をつけるときでさえ、ただ画面を見つめて音楽を聴き考えている。そしてタイトルを名付けるとそこからカタカタと音が立ち始める。そうなると早い。まるで最初からそこになにを書くべきかわかっているかのように手が動きつづけた。もちろん、万事が万事うまくいくわけではない。紙上を反復横跳びすることは無数で、印刷してからの直しも多かった。赤の入れ方を見るに、誤字脱字の修正とシーンの位置調整が多かった。プロットがあればやらなくてもいい作業ではあるが、元データが原稿用紙ではないのでカットアンドペーストでいい。

 わたしたちはときに食卓で向き合う。ただし間にノートパソコンが二台置かれている。ふたりで打った。それぞれの作品を。そしてその最初の読者は自然と同居人となった。わたしはおおむねなにも言うことがない。眼高手低の生きる見本とでも言うべき立場では、依子の書く濃厚で純粋で性的な百合の世界になんら言葉を差しはさむことができなかった。

 一方、依子はしきりにという言葉を使った。

「いいですね、水月先輩。今回も普通です」

 わたしはだんだん、その普通の意味がどのような経緯で使われているかに気を配るようになっていた。

「へえ。今回はどこが普通だった?」

「この凛っていう女の子が教師を死に追い込む理由とかですね。手に入らないなら死んでもらう。いいと思います」

 それと、こんなことも言ってくる。

「先輩、どうしてかたくなにえっちな言葉を使わないんです?」

 確かにわたしにはある種の行為に関するあれやこれやという表現を直接的に書かない傾向があると思う。それはなにかへの対策というよりも無意識レベルでの逃げだった。水無月鏡花の作品を読むときにわたしはそれを痛感する。この自然界にあるべくしてあるものを意識的に遠ざけるほど、わたしの作品は被造物として普通になっていく。だけどもしそのちょっとした表現をわたしの剥き出しの欲望へと置換したらどうなるのだろう? そうすることが恐ろしかった。

 だから、

 だからかもしれない。自身のスマホへと移し替えた鏡花の作品をスマホで読みながら、空のユニットバスのなかでうずくまって、空いてる方の手で自身をなぞる。彼女の作品にはそうさせる力があった。それで気分が悪くなる。

「先輩、もしかしてまた?」

 帰宅してすぐ気づく依子にどきりとする。

 それに赤面して黙り込むわたしもわたしだ。

「ほんと、フツーでかわいい先輩ですね」

 ときに頭のなかで開く白い花びら。そこにはずっとなにかが足りない。真っ白だった。真っ白な百合の花だ。

 なにが足りないのだろう、とわたしはぼうっと考える。

 そんなふうに繰り返したある夏の夜の底、うだるような暑さに寝付けないわたしに誰かが覆いかぶさってきた。身体が驚きで跳ね上がる。そのときのわたしの手は脚と脚の間の位置にあった。

「水月先輩。いい加減、あたしも我慢できないですよ」

 依子はそう言ってわたしの耳を舐めた。

「さすがにそれはフツーって言わないですし」

 彼女の身体はわたしよりおおきい。それに比例するように力も強かった。ぐっと腕を取られてベッドに押しつけられる。これではなにも隠せない。

「先輩、あたしと本気で百合しません?」

 ああ、と思う。まるで内心をすべて読み取られているかのように、彼女の言葉はひどく魅力的だった。

「羽田さんって、やっぱガチなんだね」

「そりゃそうです。だから創作してるって感じじゃないんですよ。書いてるものはぜんぶ自給自足で。でもそれって余計飢えるじゃないですか」

 目を背ける。暗がりでなければ表情でなにもかもわかると思う。けどもう見えてるかどうかとかなにも関係なく、揮発した汗の香りですべてが察せられるだろう。

「あたしはわかりましたよ。わりとすぐに。水月先輩が飢えてるって」

 だから、と水無月鏡花はつづけた。

「だから水月みづき先輩の書く小説、でうらやましいです」

 スプリングの軋むぎしぎしという音が、その次に来る嬌声の擬音を想起させた。

 だからわたしは彼女に身を委ねてしまう。欲望のまま、気の向くままに。

 そして真っ白な花が脳裏で開く。


*


 誘蛾灯に抗えぬ羽虫。

 この身を震わす欲望の律動。

 自分を汚さぬ花を探す。

 鏡に押しつけるおのれのてのひら。

 冷たさのない、夢に咲く花。


*


 どうして気づかなかったのだろう。

 わたしが想像する花はいつも真っ白だった。

 百合の花は決して真っ白なものではないというのに。

 クリスマスを間近に迎えたある日、わたしのスマホにメッセージが届いた。元カレだった。どこから知りやがった。内心で嫌悪する。気持ち悪い。もう終わった関係にしがみつこうとしてくるのもそうだが、それ以前にこのタイミングで声をかけてくるというのが下心見え見えで気持ち悪かった。

「マジでやんなる」

 と依子に言うと、

「ですよね」

 と彼女はか細く答えて震えた。

「……どした?」

 彼女の肩を抱いてやる。わたしより身体はおおきい。でもなんだか心許なかった。

「いや、その……先輩ってじゃないですか」

「普通で悪いか?」

「いや、だから……あたしみたいなのより、その、男のひとの方がいいのかなって」

「なんなん突然に?」

 わたしの声のなかには苛立ちが含まれていたのだろう。依子はびくりとして顔を背けた。それから自分の布団に逃げていった。いわゆる万年床というやつだ。

「ごめんね。よりには怒ってないから」

「違うんです。これは、その、あたしが勝手に怖がってるやつなので」

「どうして?」

 静寂が数分つづいた。それはもっと長かったかもしれないし、わたしがそう感じていただけで実際にはほんの数秒しか経っていなかったかもしれない。そんなふうにあいまいになるほど怖い沈黙だった。

 やがて依子が、いや、水無月鏡花が答えた。

「あたしの書くものは自給自足なので。見たくないんです、男のひと。考えたくもないし、近寄らせたくない。気持ち悪いんですよ、あいつらの出す花粉が……」

 わたしは読み手として劣った存在だ、とまざまざと思い知らされた。

「あー、それわかるよ。いっしょだ」

「……ほんと、ですか?」

 排水溝に隠れてしまった猫がおそるおそる外を覗きこむような仕草だ。

「ほんとだよ。そうじゃなきゃ、わたしなら彼氏のひとりやふたり作ってると思わない?」

「ん、んん」すこしうなってから「たしかに」と依子は言った。

 軽くほっぺたをぺしぺししてから、布団の中の彼女にぎゅってした。

「だから怖がらなくていいよ。わたしのまわりに男は近づけさせない。依子にも。そのためなら文芸部もやめるし、バイトも変える。だいじょうぶ、それで変わることなんてほとんどないよ。きっとね」


 百合を維持するのにたいせつなのは花粉を放つやくという部位を取り去ってしまうこと。

 花粉は手や服についてしまうと大変おちにくいうえ、花粉が放出されることで花そのものの寿命をも短くしてしまう。

 だから、おしべの先端にくっついている葯はいっそ切り落としてしまえばいい。

 それがたとえ水に映る月にすぎないとわかっていても、鏡のなかで咲く花でしかないのだとしても、わたしはそうやっていまを維持することにした。

「ねえ、依」

「なんですか、センパイ」

 二月も半ばが近い。チョコを湯煎しながらわたしは言った。

「次は合作にしない?」

「いいですけど、なに書くんです?」

「百合」

「知ってました」

「わたしはうらやましいよ。依みたいに抜き身にはなれないからさ」

「そりゃあたしの台詞なんですけど。センパイみたいにフツーの小説は書けないので」

「言うね。じゃ、書かせてあげるからありがたく思いなさい。矯正してあげる」

「じゃああたしも、センパイが隠してるあれこれをぜんぶ曝け出させてあげますね」

「うん。期待してる」

「あ、えと。あたしも……です」

 チョコの香りがすこし香ばしい気がする。

 肩を寄せあい、ふたりで笑った。


*


 次はどんなものを書く?

 それはもう決まってる。

 どんなタイトルをつけようか?

 それももう、わかってる。

 真っ白な花。

 自然にない花。

 百合で造った百合の造花。




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