泡に揺れる歌声

ながる

第1話 言葉ならずとも

 カモメが一声鳴いて、崖の上の墓標代わりの石の上に下りてきた。

 洋六ようろくが供える粟の団子が目当てなのだ。

 洋六はその団子を一つ掴んで立ち上がり、昨年の地震で崩れた岩の陰へと移動した。

 崩れた岩々が絶妙なバランスで重なり合い、その下に黒々とした裂け目が口を開けているのも、そこから海蝕洞に入り込めると知ったのも、偶然だった。


「ヒメ」


 洋六の声は岩に反響して、歪む。

 岩の裂け目から日の光が滑り込み、大きな潮だまりを控えめに彩っていた。その光の中に小さなあぶくが浮かび、すぐに影となって水を割る。

 海の底の髪の色に、透き通った緑の瞳。撒き散らす水滴さえも、彼女を飾る宝石のようだ。

 少女の姿をしたそれは、洋六に諸手を上げて笑いかけた。


 洋六はその手に持ってきた粟の団子を握らせる。少女は慣れた様子で水から上がり、岩の縁に腰掛けた。

 少女の下半身にはびっしりと鱗が生えていた。真珠色にとりどりの青みが浮かび、角度によっては桃色の輝きも混じり合う。二つに分かれることはなく、先端には魚のような大きな鰭がひとつ、時折水を跳ね上げている。


「もう、すっかりいいんだな」


 小さな口でほんの少し団子を齧り取った少女は、不思議そうに首を傾げた。言葉がわからないようで何も話さない。

 とはいえ、声はある。のどを震わせ、美しい旋律を紡ぐのを聴いている。高低だけで詩のない歌は、洋六を魅了した。


 * * *


 ひと月ほど前のこと。

 仕掛けた網に彼女が絡まっていた。暴れたのか、酷く食い込んであちこちから血が滲んでいた。懇願するように見上げられ、洋六はたいそう混乱したのを覚えている。

 成体であったなら、売りに出そうと考えたかもしれない。

 しかしそれは少女で、彼の娘が生きていればこのくらいだろう、という歳に見えた。

 洋六の胸にもしや、という思いが生まれる。

 娘が姿を変えて戻って来たのでは? と。

 理性ではありえないと判っている。庇護欲をかき立てる仮の姿かもしれない、とも思っている。

 それでも、彼女を連れ帰り、大事な網を切って外し、効くかどうかわからぬ傷薬を塗ってやって、この海蝕洞へと隠したのだ。


 試しにと、剥がれた鱗を行商人に見せてみれば、法外な値段で売れた。

 鱗一枚でそれだ。彼女自身が見つかれば、どうなることか……

 傷が癒えたなら、彼女をここに留めて置かない方がいい。頭ではわかっていても、なかなかその気にはなれなかった。




 彼は少女を「ヒメ」と呼んだ。娘の名ではさすがに呼べなかった。代わりに「我が家のお姫様」と自慢していた未練を当てたのだ。

 自分の名も教えてはみたものの、少女は首を傾げるばかり。

 機嫌がいいと彼女は歌う。岩に腰掛けて、あるいは

 水の中からゆらゆらと浮かび上がる泡々は、水面に出るとはじけて空気を揺らす。揺れた空気は岩々に反響して不思議な旋律となるのだ。

 歌が漏れていなければいい。

 小食も心配だ。栄養は足りているのか、何なら食べるのか……


 彼女の残した団子をじっと見下ろす洋六の膝に手をかけ、ヒメは伸びあがった。頬に冷たく柔らかい感触。時々そうされるのは彼女らの挨拶なのか、感謝の気持ちなのか……わずかに自覚する身勝手にも幸せな気持ちは、益々彼女を手放す機会を奪っていた。


「また来る……」


 結局今日も海へ帰せず、ヒメに背を向ける。

 と、自分のものではない足音が響いてきた。


「……ヒメ! 水に潜れ! 出てくるな! 可能なら、海へ……」


 きょとん、と、不思議そうに洋六を見つめる緑の瞳に、洋六は続ける言葉を失った。

 通じないのか。わからないのか。


「洋六! おめ、こんなとこで何しとる!」


 鱗を手に入れた場所をしつこく聞いてきた男の声だ。

 ヒメは驚き、水に飛び込んだ。

 そのまま出てきてくれるなよと祈りながら、男と対峙しようとした洋六の背中に、ちゃぷんと水音が浴びせられた。


「……潜ってろ……!」

「そこにいるのか?」


 声のした方に明かりを向けて、男が近づいてくる。洋六は緊張に身をこわばらせた。


「よー」


 涼やかな声に思わず振り返れば、ヒメが水から飛び出していた。にこりと笑って、彼の腕を掴む。想定以上の力で引っ張られて、洋六はヒメと一緒に水の中へと落ちていった。


「洋六!?」


 派手な水音に、男が慌てて水辺に駆けてくる。しかしすでに洋六の姿はなく、水底を覗くには明るさが足りない。男はしばし呆然と揺れる水面を眺めていた。




 洋六は泳ぎも達者だった。自身が溺れかけたのは、妻と娘を助けようと躍起になった時だけだった。

 しかし、息を吸う間もなく引き込まれてしまっては、そう保つものでもない。ぐんぐんと深くまで潜るヒメに、洋六は焦った。そろそろ限界だ。

 掴まれた腕を引いて苦しいと身振りで伝えてみるも、ヒメは首を傾げただけで離してくれる気配はない。逃げるのは、ヒメだけでいいのに。伝わらないのがもどかしい。

 自分も水の中で死ぬのかと、最後の息を吐き、上っていく泡を見送る。


 つと、ヒメが身を寄せた。

 狭まっていく視界に、水の中でなお一層美しい顔が入り込む。妻と子を思いながら、この少女に魅入られた罰なのか。自分には相応しい最期なのかもしれない。

 洋六は自嘲気味に笑う。

 ヒメの手が頬に触れた。次いで、唇に柔らかい感触。

 ふぅ、と風が入ってきた。柔らかな、凪いでいるときの海風のような。

 目の前でヒメが笑っている。手を繋ぎ、行こうと引いてくる。

 狭い横穴を行けば、岩と岩の間の小さな隙間が見えてきた。手を離し、ヒメが見本を見せるように先に潜ってから、顔を出す。


 洋六は首を振る。

 不満そうなヒメに、自分の体はその隙間を潜れないと身振りで示した。行ってくれと、続ける。捕まるなと、願いを込める。

 ヒメがぱくぱくと口を開いたので、洋六は聞こえるわけがないのに思わず顔を寄せた。ヒメはすばやくその顔を掴んで、引き寄せる。ふたたび風を吹き込み、それから今度は強く吸い上げた。

 驚く洋六を妖艶に笑い、ヒメは隙間の向こうへと顔を引っ込めた。ひとつ身震いすると、その身体は見る間に大きくなった。胸は膨らみ、腰はくびれ、髪は伸び、年頃の娘のようだ。

 彼女は髪につけていた巻貝の飾りを外して洋六に手渡し、何か言うと身を翻して泳ぎ去った。




 洋六が残された巻貝に耳を寄せると、不思議な歌声が聴こえてきたという。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泡に揺れる歌声 ながる @nagal

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説