案山子

◆◇◆◇




 斬ってはならぬものを斬ったとき。

 目先は、闇夜となる。

 ならば――――“按摩さま”。

 私は、何を斬らねばならなかったのですか。




◆◇◆◇




 笠が、雨の中を舞う。

 ふたりの剣客が。

 同時に、放り投げた。

 それから、間髪入れず。

 共に、杖へと手を掛ける。


 瞬間―――風が、吹いた。

 無数に降り注ぐ雫が。

 刹那の狭間に、引き裂かれた。


 神速の抜刀。

 駆け抜ける、軌跡。

 銀に光る、迅雷。


 二迅の疾風。二振りの剣閃。

 鞘より同時に解き放たれる、ふたつの刃。

 疾駆の居合が、雨を断つ。雨を斬る。

 瞬きの合間に交錯する、銀色の剣。


 迸るように、雨粒が弾け飛ぶ。

 二人を分かつ、天水の幕が。

 紫電の残光と共に、抉じ開けられる。

 殺意と敵意。そして、拭えぬ悲嘆を宿して。


 肉を裂くべく。

 骨を断つべく。

 二振りの刃が、交わる。


 身体が、脳髄が。

 閃光のように。

 研ぎ澄まされていく。

 対手を斬る。ただそれだけの行為に。

 意識の全てを、集中させる。


 迫る。逼る、逼る――――。

 二つの影と刃が、限界へと肉薄する。

 死線の果てを、共に見据える。


 草鞋で滑るように。

 摺り足の動作で。

 “ちさ”が、迫る。

 刃を叩きつけるべく。

 流れるように、躍動する。


 その瞬間。

 “いち”が、間髪入れず。

 一歩を踏み込むように。

 鋭く、動いた。


 相手の刃の軌道を“先読み”して。

 その軌跡を、紙一重で躱しながら。

 回避と同時に、己の一太刀を滑り込ませる。

 それは“ちさ”が、瞬きをした最中だった。

 極僅かな隙を掻い潜って。

 “いち”の剣戟が、一手先を往く。



 すれ違いざま。

 斬撃が、抉る。

 鮮血が、弾ける。

 “渡り鴉”の胴が。

 一閃に、裂かれる。



 静寂が、再び訪れる。

 沈黙が、雨に覆われる。

 二人の剣士は、静止する。

 互いに刀を抜き放った姿勢のまま。

 背を向け合いながら、立ち尽くす。

 ものの数歩にも満たない距離。

 振り返れば、再び即座に“斬り合う”ことになる。


 鴉は―――“ちさ”は、眼を見開く。

 腹部から滴り落ちる血潮を、呆然と認識する。

 裂かれた肉の隙間から溢れるそれは、衣服を紅く染めていき。

 止め処無い赤色は、降り注ぐ雨と溶け合っていく。


 “ちさ”は、そうして悟る。

 己の刃は、対手に掠りもせず。

 “いち”の刃は、己を斬ったのだと。


 ――――ああ、そうか。


 それに気付いた瞬間。

 “ちさ”は、微かな笑みを浮かべた。


 ――――貴女は、やはり疾いのですね。


 憧憬。仰望。諦念。失望――――。

 相反する感情が、雨と血のように混濁し。

 “ちさ”の顔に、微笑みとして張り付く。


 “いち”は、天賦の才の持ち主だった。

 “居合の按摩”から学んだ術理を、只管に研ぎ澄ませ。

 その抜刀を、神速の剣舞へと昇華させていた。

 幾人もの渡世人を斬った“渡り鴉”すらも、届かない。

 彼女は、修羅道の化身に等しい。


 

 飯川の剣客は、まさに鬼神の如く―――。


 だからこそ。

 “ちさ”は、嗤う。

 歓喜と悲哀を、宿しながら。

 自らの四肢を、俯瞰した。


 己はまだ、動ける。

 己はまだ、斬れる。

 そう認識して、間髪入れず。

 刀の柄を、強く握り締めた。


 溢れ出る血すらも厭わずに。

 逆手斬りの構えを、再び取る。

 “ちさ”の面から、笑みが消える。

 呼吸を整え、ただ“次の一手”へと備える。

 流れ落ちる血に腹を染めながら。

 それでも尚、次なる剣戟へと臨む。


 雨の音が、跳ねる。

 雨の音が、奏でられる。

 虚しく、哀しげに。

 ざあざあと、止め処無く。

 幽寂の世界に、降り頻る。


 “いち”もまた、構える。

 虚ろな濁りを、瞳に湛えながら。

 “ちさ”と、同じように。

 沈黙の中で、刀を逆手に構える。

 その顔に、笑みは無かった。


 居合。逆手斬り。

 “無宿の侠客”から連なる剣技。

 二つの剣閃が、雨の下に対峙する。

 二つの剣戟が、雨の下で交錯する。

 沈黙の中で、二人の女は。

 その手に握る仕込刀を、共に構える。

 互いに背を向けたまま、佇む。


 雨音。沈黙。

 水面に、木板に。

 雫が降り注ぎ、反射する。

 影法師、二つ。

 雨に打たれ、立ち尽くす。


 重なるのは、二つの呼吸。

 神経を張り詰め。

 意識を研ぎ澄まし。

 息を、整えて。

 静寂が、ただ続く――――。



 そして、刹那。

 ほぼ同時に。

 二人は、振り返る。



 背中合わせから、相対する。

 互いの姿を、瞬時に視界へと捉える。

 肉体を躍動させる。腕を突き動かす。

 二つの閃光が、逆手の刃が、解き放たれる。


 より捷く、より鋭く。

 刃を先に届かせた側が。

 相手を―――斬り捨てる。

 ただ、それだけだった。


 最早、他に何も無い。

 故に、決着は至極単純。


 須臾の合間。瞬刻の狭間。

 極限まで絞られた一瞬にて。

 “果たし合い”は、幕を下ろす。


 全てを悟ったように。

 “ちさ”は、目を見開いた。

 視線が、交錯した。


 その太刀筋は。

 “いち”の振るう刃は。

 迸る雷霆の如く。

 何処までも捷く。

 “渡り鴉”を、地へと堕とす。

 漆の翼を、削ぎ落とす。



 止まぬ雨音に紛れ込むように。

 肉を断つ刃の咆哮が、響いた。

 止まぬ雨粒に溶け込むように。

 紅い血潮が、花弁の如く散った。

 一輪の黒き彼岸が、散華した。







『おいち様』

『私は、鴉になりたい』

『もう二度と、何者にも穢されぬように』

『漆のように黒く、自由で在りたい』

『おいち様も、そう在ってほしい』


『……ええ。そうですね』

『私も、願わくば、そう在りたい』

『ちさ』

『共に、鴉と成る時には』

『私のそばに、居てくれますか』







 ああ――――終わった。

 “私/いち”は、思う。



 影が、崩れ落ちる。

 膝を付き、茫然とした表情で。

 胸元の肉から流れる真紅を、見下ろして。

 “ちさ”はその口元から、血を溢れさせる。


 やがて、身を沈めるように。

 橋の上に、倒れ込んだ。

 地を噛むように、俯せた姿勢で。

 止め処無い鮮血の中へと横たわる。


 “ちさ”が振るっていた刀は、既にその掌から零れ落ちていた。

 最早柄を握り締める力さえも、残されていない。

 その刃が、“私”を断ち切ることは叶わず。

 一振りの剣は、虚しく転がる。

 彼女の仕込刀は、ただ雨の下に晒される。



 “私”は、呼吸を整えた。

 一瞬の果し合いが終わりを告げ。

 鼓動を早めていた心の臓を、鎮めていく。


 そうして構えるように、静寂に身を委ね。

 左手に携えた、一振りの鞘へ。

 ゆっくり、ゆっくり――――と。

 銀色に光る仕込刀の刃を、収めていき。

 ちゃきん、と金属の音が小さく響く。


 抜刀、そして納刀。

 張り詰めるような“残心”を経て。

 尖らせていた緊張を、解いていく。



 “ちさ”が、血溜まりに伏せる。

 死へと向かい、堕ちてゆく。

 一刀の下に斬り捨てられ、命を散らす。

 “私”がやった。“私”が斬った。


 彼女の末期を見つめて。

 心の奥底に抑え込んでいた感情が。

 濁流のように、渦巻いていく。


 仇討ちを、果たした。

 父を始めとする、数多の博徒や渡世人達。

 彼らの無念を晴らしてみせた。

 辻斬りは、此れで幕を下ろす。

 下手人は散り、無情な事件は落着する。

 其れで良かった。

 良かったのだ。


 其れにも関わらず。

 降り注ぐ雨は、一向に止みはしない。

 罪も、悲嘆も、洗い流すことなく。

 穢れた痕が、心の奥深くへと刻まれる。


 空を、見上げる。

 灰色の雲と、数多の雨粒。

 顔が濡れることも厭わない。

 ただ虚しさだけが、訪れる。

 やがて“私”は、己を省みる。

 此処に立つ自分を、惘然と見つめる。


 “私”は、仇討ちをしている。

 憎み、恨み、忌み嫌ってきた“やくざ”の血筋に、“私”は狗のように殉じている。

 何故なのかと、己に問いかける。


 やくざの娘の恨み節を“ちさ”が引き受けてしまったから。

 “私”の呪詛を肩代わりしてしまった“ちさ”を止めるために。

 “ちさ”が背負ってしまった罪を、終わらせるために。

 こうなってしまった理由が、脳裏に浮かび上がる。彼女を斬らねばならなかった所以が、風のように通り過ぎる。


 そして、それだけではない。

 何故、“私が”そうしなかったのか。

 何故、“ちさが”罪を背負ったのか。

 その意味が、その答えが。

 此処に呆然と、転がっている。



「おいち様」



 血潮に沈みながら。

 死にゆくように。

 掠れ切った声で。

 “ちさ”は、言葉を吐き出す。



「貴女は、やはり」



 “私”の胸を貫く、澄み切った呪詛。

 吐き捨てられる言葉。

 三途へと向かう命を振り絞って。

 彼女は、最期の餞を送る。



「何も、斬ろうとしなかったのですね」



 ―――道を切り拓く意思など、初めから無かったが故に。


 底もなく、沈むような。

 深い諦念と、遣る瀬無さを込めて。

 “ちさ”は、雨音の遮りに囁く。

 その言葉は。その呪詛は。

 “私”の胸に、刃のように突き刺さる。



「それでも、貴女は……」



 “私”は、彼女の面を視なかった。

 “ちさ”の声に、慈しみが籠もったことに気付く由もなく――散りゆく鴉から、目を逸らした。

 藁で作られた、空虚な人形のように立ち尽くし。惨めな鴉を、黄泉へと追い払う。


 とうに分かっていた。

 彼女が、こうなったことの意味を。


 “ちさ”は、“渡り鴉”となった。

 父を斬り、数多のやくざを斬った。

 “私”を―――飯川の“いち”を縛る枷を断ち切るために。

 “私”を宿命から解き放ち、自由を与えるために。

 そして、“私”と“彼女自身”を苦しめてきた、やくざへの怨念のために。

 “ちさ”は、辻斬りとして飛び立った。



 “私”は、“鴉”を斬った。

 “私”の怨念を引き受けた“影”を、屠った。

 その翼を削ぎ落とし、地へと落とした。

 己の罪と業を、葬るために。

 拭えぬ後悔を、葬るために。



「……ちさ」



 やがて、ぽつりと。

 “私”の口から、言葉が零れ落ちる。



「貴女は」



 雨音に掻き消されるような、か細い声。

 “私”の呟きだけが、紛れ込む。



「私の代わりに、裁いていたのですか」



 返事は、戻らない。

 相槌は、返ってこない。



「それとも……」



 否定も、肯定も。

 何一つ、与えられない。

 雨の音色だけが、反響する。



「私を、裁いていたのですか」



 ようやく、“私”は。

 伏せる彼女の面を、見据えた。

 橋を穢す真紅は、雨と溶け合っていく。

 “ちさ”は、最早動くこともなく。

 黒く虚ろな瞳を剥きながら、事切れていた。

 死骸は、何も答えない。

 答えなど、しない。


 雨はただ、洗い流していく。

 “鴉”の亡骸から流れる血潮も。

 “鴉”が背負い続けた業と咎も。

 “私”が身勝手に求めた、答えさえも。




◆◇◆◇




『おう、おいち』

『また“あの按摩”のまねごとか』

『男勝りでも気取ってんのか、ん?』

『へへっ、ははははは―――くっだらねえ』



『おいち』

『おめえは父である俺を恨んでやがる』

『この“飯川 佐古蔵”をな』



『おめえの目ン玉がそう言ってやがる』

『俺が憎たらしい、怨めしいってな』

『なのに俺を斬らねえ、逆らわねえ』

『理由なんざ、俺はとうに判ってる』



『おめえは何も斬ろうとしちゃいねぇ』



『悟ったようなフリこそしてやがるが』

『本当は、何も見えちゃいねえんだろ?』

『何かを斬る度胸もなけりゃ、俺に逆らう勇気もねぇ』

『肝の小せえ怠け者。それがおめえだ』



 ―――おいち。

 ―――良いですか。



『だから風だけを斬ってやがる』

『餓鬼が木の棒ぶん回して侍ごっこするみてぇに』

『おめえはドスを振るうだけで満足してんだ』

『そうやって何者にもなれねえ自分を誤魔化してる』

『なあ、違うか?おいち』



 ―――私が、悪いのです。

 ―――私が、不甲斐ないばかりに。



『やはりおめえの“おふくろ”に似たな』



 ―――責を負うべきは、母である私です。

 ―――惨めで、愚鈍な、私の方です。

 ―――貴女のお父上ではありません。



『おめえはしょせん案山子だ』

『威勢ばかりの見掛け倒し、意味なんかねぇ』

『なんもせずに、突っ立ってるのと同じだ』

『“めくら”のように、糞の役にも立たねえ』



 ―――私は、旦那様に見初めてもらえた。

 ―――だから、尽くさねばならない。



『いいか』

『下女が産みやがった餓鬼とはいえ』

『おめえはこの飯川の娘なんだ』

『生かしてやってる恩を忘れんじゃねえぞ』

『身の程を弁えやがれってんだ』



 ―――貴女は、下女の母を持ちながら。

 ―――飯川の娘として、生かされている。

 ―――そのことへの感謝を、忘れてはいけません。

 ―――逆らうことなど、言語道断です。



『つまらねぇ真似は嫁入りまでには辞めろ』

『おめえの美しさで、女として役に立て』

『分かったな?』



 ―――おいち。

 ―――旦那様の、役に立ちなさい。

 ―――分かりましたね?




◆◇◆◇




 幼き日から、“いち”の心は深い諦観と虚無に凝り固まっていた。

 そんな中で彼女は“孤高の按摩”と出会い、彼への憧憬が“いち”に居合の道へと踏み込ませた。

 その術によって自らの道を切り拓きたいと、彼女は願った。


 そんな意思が軋むまで、そう時間は掛からなかった。

 刀を幾ら振るえども―――彼女の心は、何も満たされなかった。

 進むべき道など、見出だせず。

 抗う勇気など、欠片も掴めず。

 斬るべきものさえ、捉えられず。

 “乾き”と“虚しさ”は、何一つも変わらなかった。


 それでも、彼女は只管に。

 己の太刀筋を、研ぎ澄ませていた。

 その果てに何かがあることを信じて。

 あの“按摩”から授かったものに縋るように。拭えぬ諦念を腹に抱えたまま、空虚な鍛錬を繰り返した。


 何も変わらぬ。何も見えぬ。

 時ばかりが過ぎていく。

 何のために、刀を振るっているのか。

 理由さえも、分からなくなっていた。

 そんな己に気付かぬまま、求道者の如く振る舞っていた。

 何者かになっているふりをして。

 何者かになろうとするふりをして。

 ただただ、風を斬り続けていた。


 かつての父の言葉。

 “ちさ”の末期の言葉。

 本質を暴かれ、心を抉られて。

 “いち”はやっと、答えを得た。


 己は初めから、何も求めていなかった。

 とうの昔に、全てを諦めていたのだ。

 この剣技を極めたとて、己は何も変わらない。何も変えようとはしない。

 そんな自分に気付かぬまま、目を逸らし続けてきた。



 何を斬ることを、望んでいたのか。

 何も斬ろうとは、していなかった。

 この太刀筋は、何の道も拓きはしない。

 盲目のように、何も見えやしない。



 我武者羅に仕込刀の太刀筋を磨き。

 哀れな女中に“母”の面影を見て、手を差し伸べ。

 道義を悟ったかのように、達観を装い。

 “あの按摩”の影を追い、贋物に過ぎない無頼を気取っていた。

 この生まれに抗う気概も無いことに、目を逸らしながら。

 道など拓けもしない、些末な憂さ晴らしに明け暮れていた。


 母を喪った時から。

 一家に歯向かった者の末路を見た時から。

 否、やくざの家柄に生まれた瞬間から。

 最早、受け入れていたのだ。

 逆らう意味などない、と。

 “飯川 佐古蔵の娘”という肩書は、死を迎える時まで、決して変えられぬのだと。

 そんな虚無を拭うべく“任侠”へと縋り、そして失敗した。


 幼き日から、今に至るまで。

 “いち”は“やくざの女”であり。

 無意味に立ち尽くすだけの、案山子だった。


 数多の渡世人を斬り捨てた“渡り鴉”すらも、その太刀筋には及ばない。

 “いち”は紛れもない、修羅の剣技を体得していた。

 その力を使えば、自らの宿命すらも覆せただろう。


 されど彼女は、抗う道を捨て置いた。

 深い虚無を背負い、自らの眼を曇らせることを選んだ。

 自らの悲嘆と怨念を、無自覚のうちに“鴉”へと託しながら。


 故に、“いち”は―――取り零していく。

 何も果たせなかったが故に生んだ業を。

 その居合を以て、斬り捨てた。

 そこに宿されていた、思慕さえも。


 雨は、冷ややかに。

 変わらず降り注ぐ。

 雨に、打たれて。

 “いち”は孤独に佇む。

 藁で作られた虚像が、其処に立ち尽くす。


 沈黙の刻が、静かに流れる。

 橋と河を打つ雨粒の音だけが響く。

 “いち”は、虚ろな眼差しを携える。


 鴉の屍を前にして。

 彼女は、全てを悟る。

 刹那の死線の果てに。

 女剣士は、奈落へと至る。

 張りぼての誇りも。

 なけなしの才覚も。

 脆く崩れて、破綻する。



 やがて、その右手を。

 ゆっくりと、動かした。

 掌の中に握り締めていた仕込刀を。

 ただ呆然と、手放していた。



 己の掌から離れていく杖。

 橋の上へと横たわる仕込刀。

 雨に打たれ、雫に染まっていく。

 されど、“いち”は目もくれなかった。

 最早それは、無用の長物だった。

 そうして彼女は、刀を捨てた。


 何の価値も無い。

 何の意味も無い。

 何も、切り拓けはしない。

 この太刀筋を、磨き上げて。

 居合の冴えを、只管に研ぎ澄ませて。

 自分は一体、あの“按摩”から何を得たのか。


 きっと。

 なにひとつ。

 受け取れなかったのだろう。

 この瞬間に至る、その時まで。


 “いち”は、何も斬ろうとはしなかった。

 その罪の果てに、“鴉”を斬り伏せた。

 己の業を背負わせた女を、捨て去った。



 “ちさ”を、斬って。

 “いち”は、やっと。

 自らの咎に、押し潰された。



 そんな己を、呆然と自覚しながら。

 “いち”は、自らの脚を動かす。

 向かうべき道を失い。

 進むべき果てを失い。

 亡霊のように、揺らめきながら。

 彼女は、この場を去っていく。


 往く宛もなく。

 ただ、歩き続ける。

 魂なき幽鬼の如く。

 憔悴のままに、彷徨いゆく。




◆◇◆◇




『それでも、貴女は……』



 おいち様。

 全てを捨て置いたのに。

 全てを諦めたのに。

 それでも、貴女は。

 私だけは、斬ったのですね。


 ああ、やはり。

 貴女が、愛おしい。


 私は、何時までも。

 貴女をお慕い申しております。

 そして―――貴女を、恨み続けます。

 おいち様は、無明の道を生きていたから。


 だから、最期の言葉は。

 貴女には、伝えません。

 私が往く、地獄への道連れとします。


 いつか終わる時を迎える、その日まで。

 決してちさを忘れぬように。

 どうか貴女を、呪わせて下さい。


 さようなら。ごきげんよう。

 何も視なかった、私の想い人。

 盲のままに彷徨った、哀しき人。

 “座頭”の、いち。




◆◇◆◇




 かあ、かあ――――。

 雨も厭わぬ鴉の鳴き声。

 彼方から、響き渡る。

 雨音の狭間で、悲嘆に暮れるように。

 唏くような聲を、唄い続ける。


 “いち”は、ふいに空へと視線を向ける。

 鳴き声の主を、その眼で確かめようとした。

 されど、黒い羽を拡げる姿は、何処にも見当たらず。

 途方に暮れたまま、彼女は彷徨い歩く。

 遠ざかっていく影を、追いかけるかのように。


 かあ、かあ――――。

 歌は儚く、素気無く。

 何処かへ飛んでいく。

 その姿は、見えない。


 雨は未だに止まず。

 空は濃灰に染まる。

 姿なき鴉に戸惑い。

 心の何処かで、諦めを抱き。

 よたよたと、歩を進めてゆく。


 無明の道を、さすらう。

 なけなしの命が、移ろう。

 翼も得られぬ、藁の身一つ。

 虚しく佇む姿は、案山子の如く。




◆◇◆◇




 かあ、かあ――――。




「ちさ」




 かあ、かあ――――。




「私には、もう」




 かあ、かあ――――。




「何も、見えない」




 ―――ああ。

 ―――案山子に眼など、必要無い。




◆◇◆◇

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スケアクロウ 里市 @shizuo_

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