渡り鴉

◆◇◆◇




 江戸の徳川幕府による治世、その後期。

 “関八州”と呼ばれた関東一帯の地域。

 そこは侠客、博徒、渡世人と呼ばれる“やくざ”の跋扈する世界だった。


 将軍のお膝元とされた江戸の周辺は、幕府の直轄領や土地の大名領、旗本領や寺院領などが交錯していた。

 各々の管轄地域は複雑に入り組み、その支配権と警察権は曖昧となり、更には人々の流動が激しい宿場町や門前町が各地に点々と存在していた。

 即ち関八州は、“罪人”の隠れ蓑、逃げ場としての好地と化していたのだ。


 更には当時の関東を襲った度重なる災厄や飢饉は、多くの貧困を生んだ。

 農村の格差は拡大し、貧しい農民が犯罪に手を染める事案も繰り返された。

 故に関八州は絶えず罪人が流入し、罪人が生まれるという混沌の渦中にあった。


 役人による警察力が十分に行き届かず、治安の悪化に拍車が掛かり、尚且つ流通が盛んで“商売”の余地があった関八州。

 そこへ土地に根を下ろす“侠客の一家”が台頭したのは自然の流れだった。

 彼らは縄張りを持ち、賭博や金貸しなどを仕切り、武力と経済力を以て土地を実質的に支配した。

 幕府もまた関八州の治安維持のために、地域の顔役となっている侠客に頼らざるを得ない状況が生まれた。


 泰平の世の終盤。

 やくざは、力を得ていた。

 表の社会と結びつき。

 裏の社会を牛耳り。

 彼らは時に、争いを繰り広げながら。

 その勢力を、伸ばし続けていた。







 ―――文月の夕刻。

 灰色の雲で覆われた空。

 夏へと向かう風が吹き抜けて。

 ただ淡々と、雨が降り注ぐ。


 隅田に匹敵する、長大な河川。

 その水面に雫が次々と落ちる。

 曇天に濁る水鏡に、無数の波紋が広がる。

 雨粒の生む輪が、拡散を繰り返していく。


 ざあ、ざあ、ざあ、と。

 霜の声を告げる夏雨が、音を奏でる。

 どこか哀しげに、淡々と。


 近頃は、雨天の日が続く。

 夏に差し掛かる季節にも関わらず。

 肌寒い風が、冷やかに吹いていく。

 冷害と湿気により作物が育たず、凶作に苦しむ農村は数知れず。

 まるで天が後押しするかのように、関八州の民と地は、退廃へと追いやられていく。



 ――蝉よ、蝉よ。

 ――何処へ行くのか。

 ――雨の唄に誘われ。

 ――娑婆の実りを攫うのか。



 河川に架けられた、大きな橋の上。

 雨に濡れる木板を、草鞋で踏み。

 唄を口ずさみながら、“剣客”は佇む。


 幼き日に、離れの瞽女から聴いた唄。

 それを記憶の片隅から掘り起こし。

 “彼女”―――“剣客”は、何気なく囁く。

 物悲しげな雨音に、誘われるように。


 後ろ髪を低い位置で束ね、馬の尾のように伸ばしていた。

 右手に握る杖。深く被った三度笠。身に纏った道中合羽。股旅の渡世人を思わせる旅装束―――その風貌は、旅道中の男のようにも映る。

 しかしその痩身の体躯と、微かな色香を漂わせる秀麗な顔立ちは、その“剣客”が女であることを示していた。


 関八州は下総国に端を発する博徒の元締め、やくざの一門である”飯川一家“。

 その大親分たる飯川 佐古蔵いいかわ さこぞうの娘、“いち”。

 それがこの“剣客”の素性だった。


 止まぬ雨に打たれながら。

 “いち”は、橋の中程に立つ。

 欄干の傍で、雨を見上げながら。


 “いち”は、待ち続けていた。

 どれほどの時間、其処に佇んでいたのか。

 彼女自身にも分からぬ程に、刻は流れていた。


 風の噂を幾度も探り、仇敵の居所を追った。そして、此処まで辿り着いた。

 確かな情報を得た“いち”は、その橋に立つ。漆のように黒い瞳を、湛えながら。


 ざあ、ざあ、ざあ――――。

 雨音は、口ずさむ唄を遮るように。

 無機質に、降り注ぐ。


 ざあ、ざあ、ざあ――――。

 雨音は、吐息さえも掻き消すように。

 ただ黙々と、降り頻る。


 ざあ、ざあ、ざあ――――。

 それから、やがて。

 雨音が、揺らいだ。



 唄が、途切れた。

 囁く口を、閉ざして。

 “いち”は、足音に耳を傾けた。


 それは、雨に紛れるように。

 橋の向こう側から聞こえてくる。

 霞の中から出でし、亡霊のように。

 雨幕に揺らぐ人影が現れる。


 ゆらり、ゆらりと。

 幽鬼の如く迫る影を。

 “いち”は、静かに見据える。


 ああ――――来たか、と。

 彼女は、直感のように理解する。

 宿業に引き寄せられるように。

 彼女は、現れた相手が何者なのかを悟る。


 雨に紛れて、“いち”の前へと現れた影。歩を進めていた相手は、やがて足を止める。

 およそ十歩ほど離れた距離。相手は待ち受けていた“いち”を見つめるように、無言で佇む。


 笠の下では髷すら結わず、長い髪を野晒すように垂らしている。薄汚れた黒い小袖を纏い、片手には杖を携える。

 落ちぶれた召使を思わせるその女は、眼前の相手を見続ける。


 黒い長髪。黒い小袖。

 漆の如く景色に混じる姿。

 さながら―――“鴉”の如く。



「……此処を通るという情報は、確かでしたね」



 “いち”が、ぽつりと呟く。

 鴉のような女は、その顔に微かな動揺を浮かべていた。

 待ち受けていた“いち”への驚愕を滲ませ、僅かにでも目を丸く見開いていたが。

 されど女は少しずつ、平静を取り戻していく。次第に何かを受け入れるように、腹を括るように。

 射抜くような視線で、女は“いち”を見据えた。



「“ちさ”」



 相対する“いち”もまた。

 眼前の相手を、真っ直ぐに見つめる。



「久しぶりですね」



 “黒い装束の女”の名を、呼び。

 感慨と悲哀を入り混じらせながら、呟く。

 それから、微かな沈黙を経て。



「……お久しゅうございます」



 “女”は―――“ちさ”は、一礼した。

 師や主に謁見するかのように、畏まって。

 彼女は、雨の中で静かに頭を下げる。


 “渡り鴉”と呼ばれる流浪の辻斬り。

 その名は、“ちさ”。

 飯川一家の頭領、飯川 佐古蔵を始め。

 幾名もの博徒、渡世人を殺傷した兇状持ちである。


 飯川 佐古蔵の娘である“いち”。

 飯川 佐古蔵を斬った“ちさ”。

 肉親を殺された女と、仇敵である女。

 この二人の間には、因縁が有る。


 二人の剣客は、それぞれの杖を左手に握り締める。

 旅人が歩行を補助する杖を携えることは、この時世においてそう珍しくはない。

 故にその“獲物”―――“仕込刀”は、偽装としても有用である。



 “いち”と“ちさ”。

 大橋の上で、正面より対峙する。

 二人の女は、“居合の使い手”だった。




◆◇◆◇




 かあ、かあ――――。

 青い空を見上げれば。

 黒い鴉が飛んでいる。

 漆のような羽を広げて。

 宙を舞うように、啼き続ける。



『ちさ』



 二人が果し合う時から遡り、四年前。

 屋敷の縁側に腰掛けて。

 齢十六の“いち”は、静かに語りかける。

 自らの背後に控える、女中の“ちさ”に向かって。


 彼女は、“いち”の身の回りの世話を引き受けていた。

 飯岡一家の親分―――“いち”の父である佐古蔵に目を掛けられているが故に、それを許されている。

 “いち”と“ちさ”は、常に共に過ごしている。この時の“ちさ”は、齢にして十七。

 歳の離れていない二人は、傍から見れば姉妹のようにも映った。


 そして“いち”にとって、“ちさ”は。

 腹を割って、話せる唯一の相手だった。

 生まれてから、今に至るまで。

 閉塞の籠の中で過ごしてきた“いち”が、ただ一人だけ気を許せる存在だった。



『私は、“やくざの娘”になど生まれたくなかった』



 故に“いち”は。

 彼女に対し、吐露するように呟く。

 己の中に焼き付く、悲壮と怨恨を。



『母の尊厳は、父に踏み躙られた』



 幼き日の“いち”は、見ていた。

 飯岡佐古蔵に隷属する、母の姿を。

 やくざに翻弄され、狂わされていく、母の生き様を。



『最期の時まで、ずっと』



 狗のように、惨めな末期を迎える時まで。

 “いち”は、母を見つめ続けていた。

 見窄らしく薄汚れた、哀れな女の生涯を。

 彼女は、幼い瞳で見届けていた。



『……貴女にも、その面影を見た』



 “いち”が“ちさ”の願いを聞き入れたのは、一種の気まぐれであり。

 その姿を、母と重ね合わせたが故だった。

 “ちさ”は―――“いち”が居合の鍛錬を重ねていることを知っており。

 そして彼女は、“いち”から居合を学ぶことを望んだ。


 “いち”は知っている。

 この女中が、飯川というやくざの屋敷に居る理由を。

 博打に溺れて、借金を背負った“浪人”の娘。負債の代償として身を売られた少女。

 日々をやくざのために尽くすことを求められている。


 “ちさ”の父親である“浪人”は、既に此の世には居ない。

 娘の身売りのことで諍いを起こし、飯川家の子分衆に囲まれて嬲り殺されたのだと言う。

 聞き慣れている。そんな話は、そう珍しくはない。御法度の裏街道とは、そういうものだ。

 飯川一家では、特によく聞く。



『父は、紛れもなく“けだもの”だ』



 “いち”は、知っている。

 父である佐古蔵は、欲に狂っている。

 この女中は時に、宵闇に紛れるように。

 父の寝床へと、密かに呼びつけられることがある。

 “ちさ”の着物の下に隠された肌は、父に幾度となく穢されている。


 父の戯れを、幼き日から知っていた。

 彼女のように呼び付けられる女中は、幾人も居た。

 今の父が愛でているのが“ちさ”である。

 ただ、それだけのことだった。


 飯川 佐古蔵は、やくざだ。

 欲深く、暴虐で、悪辣な禿鷹だ。

 仁義。任侠。並び立てられた美辞麗句。

 “いち”にとって、それは虚しい言葉でしかない。


 それでも、唯一人だけ。

 彼女は、真に“侠客”と呼べる者を知っていた。



『私はかつて、父の元で草鞋を脱いだ“無宿の渡世人”から、刀を振るう術を学んだ』



 “いち”は、振り返る。

 彼女が齢にして十三だった頃。

 飯川家の元で世話になった、流れ者のやくざがいた。


 彼はまるで、仙人のように達観していた。

 誰よりも慈悲深く、穏やかな心を持ち。

 同時に、何処までも深い悲哀を携えていた。

 人を斬ることの業を知り、それ故に彼は弱者に寄り添う道を歩んでいた。


 超然とした佇まいの中に、豊かな情感を備え。

 やくざとは思えぬ程に慈しく、穏やかに。

 幼かった“いち”に、接してくれた。



『彼は按摩でありながら、居合の達人でした』



 彼はやくざであり、按摩だった。

 そして、“居合の使い手”だった。

 その仕込杖から放たれる抜刀は、迅雷の如く疾く。

 流麗な銀閃の太刀筋は、“いち”の心へと焼き付いた。


 精悍な佇まいと、弱きを助ける姿。

 そして、強きを挫く圧倒的な剣技。

 そんな“按摩”の在り方が、“いち”の脳裏に鮮烈に焼き付いていた。



『その御仁とは、ほんの短い間の関わりでした』



 彼との関わりは、一月にも満たなかった。

 そんな僅かな時間の中で、“いち”は教えを請うた。

 居合を学びたいと、頭を下げたのだ。

 “按摩”は、最初こそ断ろうとしていたが。

 “いち”の意思を汲み、その剣技を授けることを受け入れた。

 ”それがお嬢さんの道を拓くのなら“―――そうして彼は、少女に術を教えた。



『彼は父と袂を分かって、去ってしまった』



 “居合の按摩”は飯川家の世話になる中で、飯川佐古蔵の本質を見抜いた。

 その悪辣、狡猾を悟り、決別も同然に去っていった。

 最後に彼は“いち”へと詫び、風と共にさすらっていった。



『私は只管に、彼から授かった術を磨き上げた』



 “按摩”との関わりは、それきりだった。

 それでも“いち”は、今に至るまでの年月で、彼から学んだ術を反復し続けた。

 父や配下の博徒達の目を避けながら、密かに鍛錬を繰り返した。

 あの“按摩”から享受されたことを胸に。

 何度も、何度も、仕込刀を振るった。


 “いち”には、剣の素質があった。

 果てなき鍛錬を超え、彼女は鋭い居合の冴えを手に入れていた。

 そうして研鑽を積む中で、屋敷に“ちさ”がやってきた。


 親分の娘と、その世話役の女中。

 共に過ごす中で、二人はいつしか本音を零し合う仲となり。

 やがて“ちさ”もまた、“いち”のように居合を学ぶことを望んだ。



『……私は、道を拓きたかった』



 空を見上げて、囁く。

 “いち”は、己の胸の内を語る。



『力があれば、何かを変えられると思った』



 ―――その言葉を語る“いち”の眼差しに。

 この時の“ちさ”は、まだ何も気付いていなかった。

 彼女はただ、自らの主が紡ぐ想いに、静かに耳を傾けていた。

 その裏に隠れているものなど、知る由もないままに。


 故に“ちさ”は、語り掛ける主に、憧憬の眼差しを向けていた。

 “ちさ”は、己を身内も同然に受け入れてくれた“いち”を慕い。

 そして、己に手を差し伸べてくれた“いち”を想っていた。



『ちさも……おいち様が望む道を』



 “いち”の姿が、脳裏に焼き付く。

 その凛とした佇まいに。

 その儚げな、哀しげな姿に。

 “ちさ”は、心を奪われていた。



『共に歩みたいと、思っております』



 “いち”の居合が、鮮烈に焼き付く。

 その神速の抜刀に。

 その流麗な太刀筋に。

 “ちさ”は、心を惹かれていた。


 この方ならば、自分に道を示してくれるのかもしれないと。

 “ちさ”は確かに、無垢な希望を抱いていた。




◆◇◆◇




 雨は、変わらずに。

 淡々と、天から降り注ぐ。

 無数の雫が、地上に打ち付けられる。


 “いち”と“ちさ”。

 橋の上で対峙する二人。

 場を包む、静寂と沈黙。

 相対した両者は、何も語らず。


 ただ何かを噛み締めるように。

 これまでの時間を省みるように。

 無言のままに、佇んでいた。


 ざあ、ざあ、ざあ――――。

 雨は、淡々と。

 雨は、黙々と。

 音は、静謐に。

 ただ、響き続ける。



「貴女が、姿を消してから」



 やがて“いち”が、口を開く。



「二年もの歳月が流れた」



 眼前の相手が居なくなってからの月日を振り返り。

 再会を果たした今を、心に刻むように。



「……やくざを、斬り続けたそうですね」



 二年前に、“ちさ”は罪を犯した。

 “いち”の父である飯川 佐古蔵を殺傷し。

 間もなく姿を消して、以降関八州にて辻斬りが横行した。

 鎌鼬の如く神出鬼没、やくざのみを斬る凶行。

 いずれの犠牲者も、抜刀術によって一太刀のもとに斬り伏せられている―――。


 “いち”は、悟っていた。

 この辻斬りの正体を。

 故に彼女は、仇討ちという名目を背負い。

 辻斬りの行方を、追い続けた。

 そして“いち”は、月日を費やした果てに。

 “渡り鴉”――――“ちさ”との対峙を果たした。



「貴女から授かった、この居合を―――」



 “いち”と再会した。

 己の罪を問われた。

 故に“ちさ”の返答は、ただひとつ。



「只管に、研ぎ澄ませた」



 “いち”から授かった居合を、振るい続けた―――それが答えだった。己が下手人であると、肯定した。


 それを聞き届けた“いち”は、表情を動かすこともなく。曇り濁った瞳で、眼の前の事実を淡々と受け止める。

 そして、過去の記憶を振り返る。


 ―――貴女には、紛れもない才覚が有る。

 ―――まことに、見事なものです。

 ―――貴女の居合は、私を超えるやもしれません。


 かつて“いち”は、己に師事する“ちさ”をそう称えた。

 浪人に身を落としていたとはいえ、侍の娘だった“ちさ”には、武芸の才があった。

 “按摩”から剣技を授かった“いち”の教えを、彼女は瞬く間に飲み込んでいった。


 その居合は、紛れもなく神速であり。

 その武芸は、紛れもなく素養に満ちている。

 そして“ちさ”は、辻斬りとなり。

 己の刃を、更に研ぎ澄ませた。



「おいち様は……」



 そして、“ちさ”は見据える。

 枯れ木のように立つ“いち”を。



「仇討ちに、参られたのですか」



 既に分かり切っている筈の問い。

 しかし“ちさ”は、それを投げ掛けた。

 対峙する相手の心情を、推し測るように。

 己の中の違和感を、確かめるように。



「そういうことに、なるのでしょう」



 “いち”の返答は、空虚な音をしていた。

 淡々として、声が揺れることもなく。



「私は、未練を断ちに来た」



 言葉の端々に、悲哀と負い目を滲ませながらも。何処か、決まり切ったト書を読み上げるように。

“いち”は、相手の問いに答えた。


 それを聞き届けてから。

 “ちさ”は、微かな笑みを浮かべる。

 窶れたような哀しみを宿して。

 どうしようもない遣る瀬無さを背負って。

 苦笑いをするように、彼女は微笑む。



「おいち様は……変わらぬのですね」



 其処に籠もるのは、諦観。

 其処に宿るのは、虚しさ。


 “ちさ”のその一言に。

 “いち”は何も答えなかった。

 瞬間、この場から。

 言葉が、消え失せた。


 静謐。静寂。

 二人は、無言に佇む。

 雨音だけが、冷淡に響く。

 やがて刹那の沈黙を合図にするように。

 二人は―――同時に、踏み出す。


 一歩。一歩。

 雨の中を、歩く。



「かつてのちさは、枯れ果てていました」



 雨音に、”ちさ“の声が紛れる。

 雨水に濡れた木板を、踏み頻る。



「おいち様が、道を示してくれた」



 互いの姿を。

 真っ直ぐ、見据えて。

 橋の上を、静かに進む。



「そして……貴女は、此処に来た」



 二人の距離は、徐々に。

 着実に、縮まっていく。

 雨の幕を掻き分けるように。

 剣客達は、互いに逼る。



「……ええ」



 ざっ―――――。

 “いち”の呟きと共に。

 二つの足音が。

 同時に静止する。


 眼前で向き合う形で。

 “いち”と“ちさ”が、佇む。

 二人を分かつ距離は、数歩程度。

 刀を抜けば、刃は届く。

 踏み出せば、相手を断ち切れる。

 即ち、“果たし合い”の間合い。


 相対する、剣客二人。

 沈黙が、場を支配する。

 降り頻る雨の音。

 ざあ、ざあ、と。

 鳴り響く唄は止まない。



 互いの手に、杖が握られ。

 いつでも刀を抜ける体勢で。

 二人は、無言のまま向き合う。



 雨音に、呼吸が混じる。

 二人の吐息が、割り込む。

 共に心身を整えるように。

 此処から先の“一騎打ち”に備えるように。

 剣客達は、淡々と精神を統一する。


 雨は、止まぬ。

 雨は、止まぬ。

 雨は、降り続ける。

 二人は、静寂の中で。

 踏み込めば、刃が届く距離で。

 ただ、見据え合う。



「おいち様」



 そして。

 “ちさ”が、呟いた。



「お控えなすって」



 どこか、飄々と戯けるように。

 やくざの誇りを、嘲るように。

 仁義なるものを、揶揄うように。

 微笑みを浮かべて、彼女は見つめる。

 眼の前に佇む、“いち”を見つめる。


 “いち”は、呆気に取られた。

 彼女の一言に、思わず意表を突かれる。

 戸惑うような思いの中で、言葉を失っていたが。

 やがて“いち”は、ほんの微かに。

 はにかむように、答えた。



「……お控えなすって」



 友垣の悪ふざけに付き合うように。

 乾いた、ぎこちない表情を、作った。


 ああ、本当に。

 仁義なんて、滑稽なものだと。

 二人は、雨に嗤う。


 嘆き哭く空の下で。

 この瞬間、この刹那の合間。

 二人は、思い返す。

 主従であり、師弟であり、莫逆の友だった。そんなかつての自分達を、振り返る。


 それでも、最早。

 時を戻すことなど出来ない。

 二人は、再会を果たし。

 二人は、雨の中で対峙し。

 二人は、共に仕込刀を握る。

 それが、今の全て。

 それが、今の“いち”と“ちさ”。



 雨は、未だに。

 止みそうにはない。




◆◇◆◇




『ちさ』



 あの日。

 十八を迎えたばかりの“おいち様”は。



『私は……』



 “私”に、語り掛けた。



『刀を置きます』



 自らの、絶念を。

 容易く、口にした。



『飯川一家が懇意にしている奉行』



 呆然とする“私”に対し。

 彼女は、黙々と語り続ける。



『私を、その“せがれ”の嫁に出すと』



 自らを取り巻く境遇を。

 そうせねばならない理屈を。



『父は、奉行から十手を預かっている身』



 手紙の文を読み上げるように。

 何処までも淡々とした声色で。



『彼らとの繋がりを、より強固にしたいのでしょう』



 “おいち様”は、言葉を紡ぐ。

 “私”はただ、それを聞き届けることしか出来ない。

 何もできずに、愕然としながら。

 無力感と絶望を、突き付けられる。



『……所詮、幾ら刀を振るおうとも』



 そして、彼女のそんな姿を見て。

 “私”の心には―――違和感が浮かび上がる。



『虚しいものですね』



 戸惑いと躊躇いが、胸中を漂う。

 胸に何かがつかえるような感覚を抱き。

 やがて意を決したように、“私”は口を開いた。

 恐れ多さを感じつつも、その意味を知るべく、“私”は問いを投げかける。



『おいち様は……』



 己の道を切り開く術だった刀を置く。疎んでいた父に従い、他の誰かの女となる。

 それは紛れもなく、“おいち様”にとっての深い苦痛であるはずなのに。

 それを語る彼女の横顔は、声色は。



『“何”を斬ることを、望まれていたのですか』



 まるで、何処か。

 他人事を話しているように見えたのだ。




◆◇◆◇

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