最終話 海の墓標に手向ける花は

 ‐紫苑の花言葉から始まった、昔話もすっかり、長くなった。

 志乃は濃い青が果てしなく広がっている、海面に視線を落とす。

 花になった、琴音を胸に抱きつつ、辰巳の亡骸が今も眠っている、この海の上を船で進んでいるからか、いつになく感傷的な心地で、昔の話を沢山してしまった。

 眼鏡の向こうで、柔和な眼差しを時折、眩しそうに細めながら、男は、志乃の話を少しも疑う事などなく、頷いて聞いていた。付き合いは長い彼にも、ここまで詳細に、あの戦争中に経験した事を全て、話したのは初めてだった。

 「この花が咲いていなかったら、私は…とっくに、現実の前に心折れて、小説を書く喜びも、亡くなった二人に託された夢も放り出して、今頃は筆を折っていたでしょう。でも、この花に触れた時、確かに、琴音お姉さまの存在を、すぐ傍に感じた。ああ、お姉さまは本当に、約束を果たして、私の元に帰ってきてくれたんだって。身は滅んでも、魂は決して滅びないっていう、お姉さまと、辰巳さん、二人の言葉は本当だったんだって、あの時以来、信じられるようになったわ」

 琴音が、自分に小説の感想を一番にくれる事は、もうない。

 けれど、彼女が遺した言葉通り、志乃の小説は、間違いなく、届くべき人達のところに届いていた。志乃の小説を待っている人たちはいた。新刊を出すと、日本中から、文学少女らの感想の手紙が志乃の元に舞い込んで来て、感動を伝えてくれた。

 胸を打つ花言葉を、物語の重要な要素として扱い、優しい色彩と筆遣いの、志乃の直筆の花の絵を添えて、最後のページを彩る。

 志乃の小説は、概ね、その手法で、多感な年代の少女らの心をしっかりと掴んでいた。

 「早坂先生の本を読んでから、私も花言葉に興味を持って、自分でも本を読んだり、花を探してみるようになりました」

 そうした一節を、送られてきた手紙の中に見出した時、送り主の少女の中に、四半世紀前の自分の姿を、志乃は見た気がした。

 あの時、志乃に、花言葉を教えてくれていた、琴音の立場に、今度は、自分が成ったのだと気付いた。

 琴音。辰巳。二人の夢は、戦争という過酷な運命の中、水の泡と消えた。

 しかし、あの戦争中の、あらゆる物が光を失い、色褪せていた時代の中でも、間違いなく燦然と輝いていた、琴音と辰巳、二人の抱いていた夢は、志乃の心の中で、今も生き続けている。志乃が筆を執って、書き続けている限り、二人の、文学という夢は潰えない。

 「早坂先生の、戦争中の体験談を、ここまで聞かせて頂けたのは、私も今日が初めてですが…、でも、先生が時折口にされる、『この身は滅んでしまっても、魂は終わらない』という、あの言葉。先生が、戦争中にされた体験を聞いた後であれば、私も、信じられる気がします。私も、世間一般の人間と同じく、人の魂は、体が死んでしまったらそれで全て終わりだとばかり、思い込んでいましたから」

 付き人の男は、感慨深げに、志乃がそうしているのと同じように、海面を見つめる。

 志乃は、この話を誰彼構わず、信じてもらえるとは思っていない。多くの人は、志乃の話を、戦争中や、戦後の混乱が見せた、幻影としか見做さないだろう。

 志乃があの太平洋戦争の最中から、終戦後にかけて体験した、不思議な出来事。それらを通して、身は滅びても、人間の魂も夢も、久遠の時の中で、生き続けていると、志乃が信じるに至った事を、誰か、一人で良いから、信じて、聞いてくれたら、志乃はそれ以上はもう、望まなかった。

 この船の上で、付き人の男に、気まぐれで聞かせた、戦争中から、終戦直後までの長い昔話。そこで、自分が確かに経験した奇跡。それを、日本に帰ってから、改めて、また別の誰かにみだりに話すような事は、二度とはないだろう。

 「貴方一人だけでもいい。私の話を、信じてくれるのなら、嬉しいわ。こんな、夢うつつが入り乱れたような私の話を、与太話と流さずに、信じてくれる人が、一人でもいてくれるなら、もうそれ以上は、私は望まない。私もいつか、必ず、琴音お姉さまと、辰巳さんの元へ逝く。そうなれば、琴音お姉さまと辰巳さんの事を語り継いでくれる人も、いなくなってしまう…。だから、貴方のように、一人でも、私の体験を信じて、語り継いでくれる人がいるのは嬉しいわ」

 遠き未来の、文学を志す人達にも、琴音と辰巳、二人の思いを語り継いでいってほしい。

 歴史の荒波の中、自らの筆を折ってでも、大切な人の無事を願い、待ち続けた女。文学の夢半ばにして、最後の作品も未完のままに、戦地に散らなければならなかった男。二人の、悲しき昔話を。

 慕っていた琴音の享年を、自分の年齢が越えてから、もう、十数年の歳月が流れた。今まで、がむしゃらに、目の前の小説を書き終える事だけに、志乃は集中して生きてきた。そうする事が、二人が自分に託した思いへの、何よりのはなむけであると信じて、志乃は、二人の話を、これからも何人もの文壇の若手を担当していくであろう、眼鏡の付き人の男に聞かせた。

 あの戦争が終結してから四半世紀以上が過ぎ去った、この年代になり、これからは自分が、琴音、辰巳に託された思いを、次に巣立っていく、若き作家達にも繋いでいく番になったと、思うようになった。今後も次々と、文学界に躍り出ていく彼ら、彼女らは、その多くが戦後生まれで、皆、太平洋戦争を、関係ない過去の話としてししか、知らない世代であろうから。

 

 フィリピン人のガイドが、船のエンジンを止めた。

 「先生…。それでは、献花のお時間です」

 付き人の男がそう、答える。

 濃い青の空と海は、鏡映しのように同じ色をしており、水平線もはっきりしない程だ。広がる紺碧色の海原は、島の港を出た時から、変わらずに凪いでおり、船に揺れは殆どない。

 志乃は、自分のチェアに一輪だけ、白の紫苑の切り花を置いて、残る花を包み紙から出すと、素手で持って、船縁に近づく。海面が間近に迫って来る。散っていく間際、薄れゆく意識の中で、辰巳もこの海面を見たのだろうか。

 熱帯の魚達の、鮮やかな鱗が、海面を透過する日差しをきらきらと照り返し、海面の下で舞っているのがよく見える。この下に、竜宮城がそびえていると言われても、

 この海で、アメリカ軍の艦艇と、特攻作戦で刺し違えた、辰巳の最期がどのような物であったか。それは志乃も、想像する事しか出来ない。

 しかし、最期の瞬間も、彼の心の中にあったのは、敵への憎悪や、呪いの感情などではなく、お守りの形で彼に授けた花-。今、志乃の手に握られている花と同じ、白の紫苑の花の言葉の通り、「何処までも、清らかに」あったと、信じている。

 「辰巳さん…、ここに来るのが、こんなに…四半世紀も経ってしまって、本当にごめんなさい。きっと、寂しかったですよね。それに…、辰巳さんの最期の手紙で、私と琴音お姉さま、二人に、紫苑の花を手向けに来てほしいと、願ってくださったのに、琴音お姉さまを守ってあげられなくって…、あまりに非力だった、私をお許しください…」

 紫苑の花を両手で抱えたまま、志乃は海に向かい、深々と頭を下げる。今も、琴音を守り切れなかった、あの大空襲の夜の無念は、完全に塞がる事はない古傷として…、口に出す度に開いて、心が、血を噴き上げる。それは、志乃の目尻に浮かぶ透明な血と化した。その、涙という透明な血は、頭を下げている志乃の目尻から、船縁の下の海原に落ち、大海の一滴になり、消えた。

 付き人が横から、そっとハンケチを取り出し、志乃の元に差し伸べる。それを受け取ると、志乃は、目尻を拭い、海に向かって、語りかける。そこに、辰巳がいるかおように。

 「でも…、琴音お姉さまの魂は、生き残った私の前に、帰ってきてくれた。今、私が手にしている、この白の紫苑の花が、その証です。この花は、お姉さまが息を引き取った場所で、咲いていた。触れれば、いつでも、お姉さまを私は感じる事が出来た。生きている琴音お姉さまと、この場所に来る事は叶わなかったけれど…、お姉さまは、この紫苑の花に生まれ変わって、確かに、私を見守ってくれています。琴音お姉さまを、今、辰巳さんの元に、お返しします」

 志乃は、青の海原の上に、手にした白の紫苑をさっと、ばら撒いた。

 穏やかな波間を揺れる、白の花びらを見て、ようやく、琴音は、愛していた辰巳の眠る場所に来て、再会する事が出来たのだと、志乃は思った。

 「良かったです…、琴音お姉さま。これで、やっと、辰巳さんとまた、会えましたね…」

 志乃は両手を合わせて、二人の為に祈った。これは、辰巳の供養だけではなく、生きてこの場所に来る事の出来なかった、琴音の悲しみ、無念を晴らす、供養でもあった。きっと、二人は、冥府での再会を喜んでいる事だろう。

 志乃は、ようやく、琴音が、果たせなかった願いを、違った形ではあるが、叶える事が出来た。

 それが、琴音の一番の幸せであるのは間違いないのに、志乃は、祈りを終えた後もしばらく、船縁の傍に立って、瞼を閉じたまま、動く事が出来なかった。

 いくら考えても仕方のない事であるのは、分かっていても、琴音を守って、支え合いながら、戦後という新しい時代を、二人で生きてみたかった。この、辰巳が散った場所にも、生きている彼女と共に並んで、辰巳も、志乃と琴音の二人も愛した花である紫苑を、共に海の墓標へ手向けたかった。

 耳に聞こえるのは、あるかなきかの、凪いだ海原の、微かな波音だけ。

 閉じた瞼の裏。そこには、陽だまりの中で、今でも、あの頃と変わらぬ姿のままの琴音がいる。「志乃の、今度の小説も素敵だったわ。今回の作品は、昔、私が教えた、あのお花の言葉が、題材になっていたのね」と、読み終えた志乃の原稿を胸に抱いて、教室の隅までよく通った、あの澄んだ声で、語ってくれて。陽だまりの中に咲く一輪の花を見つけたように、彼女の唇は、花びらとなりて、綻んで、微笑みの花を形作って。

 そんな、あり得たかもしれない、しかし、志乃と琴音に、訪れる事はなかった未来を。

 船縁で、しばらく佇んでいた志乃に、付き人の男が声をかけてくる。

 「早坂先生は、よく、あの無神経な報道陣から結婚する意志はないのかなんて聞かれていましたが、もう、誰とも一緒になる気はないと言われていたのは、琴音さんがいたからなんですね」

 「…他の人には、信じられないし、感じられないとしても、私は、確かに人生の節目、節目で、琴音お姉さまが確かに傍にいるのを今も感じている。庭先に咲く、白の紫苑の花を通して。だから、私にはもう、この先も、誰か新しい人と一緒になるつもりはないし、その必要もないの。じゃあ、お前は、過去に囚われたまま生きるのかときっと言われるでしょう。あの戦争を、琴音お姉さま、辰巳さんの犠牲の上に生かされた私は、この命が尽きる日まで、二人を忘れずに生きていく義務がある。冥府での、琴音お姉さまと、辰巳さんの幸せを願いながら。そしてお姉さまの魂を、傍に感じながらね」

 そして、志乃は、チェアの方へと戻り、一輪だけ残された、白の紫苑の花を拾い上げる。その花びらを、優しく指先で撫でながら、話を締め括るつもりで言った。

 「私は、どんなに周囲からは変わり者だのなんのと言われようと、今までの生き方に後悔はしていないし、これからも、それは変わる事はない。こうして、この海の墓標に、これからも、白の、紫苑を手向けに、足が動く限りは尋ね続けるつもりよ。お姉さまと、辰巳さんを、この先もまた、会わせる為にも」

 

 志乃は、そうして、残された一輪の花に、そっと唇で触れた。

 琴音は、本来ならば、辰巳と結ばれるべきであった人。自分がみだりに触れてはならない。二人が生きていた時から、自分に課してきた、固い戒め。

 その戒めを、今だけは、どうか破る事を、許してほしかった。琴音が生きている間には、遂に果たす事はなかった、琴音との口づけ。その仮託として、白の紫苑の花びらに口づける。

 

 『ありがとう…志乃…。辰巳さんに、会わせてくれて。貴女がいなければ、私は、この場所まで、来る事は出来なかった』

 『早坂さん…。琴音さんを連れてきてくれて、本当にありがとう。やっと、愛しい琴音さんと、再会する事が出来た』

 

僅かな海風の立てる音に混じって、そんな、懐かしい二人の声が、間違いなく、志乃の耳に届いた。白の紫苑の花びらに、唇で触れた瞬間に。

 今、二人と、この花を通して、志乃は再び、会っている。志乃は瞼を閉じ、息をひそめ、微かに聞こえた二人の声に、耳を澄ます。

 もう、二人の声のいずれも、再び聞こえる事はなかった。しかし、微かに声が聞こえた瞬間、二人分の温もりを、志乃は確かに、この身に感じた。

 今はもう、なき下宿の2階。その部屋で、3人で、お互いの小説を読み合いながら過ごした時に、感じていたものと同じ、安らいだ温もりを。

 「やっぱり、二人の魂は、今も私の傍にいてくれるのね…」

 もう、今日の涙は出し切ったものとばかり、思っていたのに、懐かしい二人の声を微かに感じた瞬間、また、目頭が熱くなる。しかし、先程は、胸の古傷が開いて、痛くて仕方がなく、その為に零れるような涙だったのに、今の、紫苑の花を胸に抱きつつ、零す涙は、志乃の心に安らぎだけをもたらした。

 志乃は、自らの手に持った、紫苑の花に誓う。

 「私は、あの日、琴音お姉さまに最初に教えてもらった通りに…、これからも、何処までも、清らかに生きていきます。何年先になるかは、分からないけど、二人と再会する事が出来た時、この、愛する花の通りに、清らかに生きた私として、お姉さま、辰巳さんに会えるように。それまで、どうか、私を待っていてください」

 今の志乃には、自分の体験を信じてくれて、語り継いでくれる人も見つかった。

 眼鏡の彼は、きっと、志乃の不思議な体験を信じてくれて、これから先に彼が出会う、若手作家達にも、夢半ばにして、戦争に散っていった二人がいた事を、語り継いでくれるだろう。

 志乃が亡き後も、志乃と、琴音と辰巳の間にあった絆を語り継ぐ人がいて、忘れられさえしなければ…、この3人の魂が滅びる事は決してない。

 「…早坂先生のお話は、日本に帰ってからも、しばらくは胸の中に仕舞っておきます。でも…、もっと私が成長して、色々な作家の担当になって、会社では若手の編集の教育もするようになったら、時節を見て、必ず、彼ら、彼女らに話を伝えていきます。早坂先生と、里宮琴音さん、山城辰巳さん。3人にまつわる、お話を」

 付き人は、若いながらも、本当に聡明な男だった。志乃がどんな思いを今も抱いていて、これから先、志乃よりも長く生きるであろう彼に、志乃は何を望んでいるのか、的確に察してくれていた。

 「ありがとう…。貴方が、私の担当さんについてくれて、心から良かったと思うわ」

 

 フィリピン人のガイドに、付き人の男が耳打ちする。そろそろ、港に帰る為に、船は船首の方向を変え始める。

 これ以上、過去への追憶だけに時間を費やしている事も出来ない。志乃は、多くの記憶を呼び起こされる、この海の墓標を去って、地に戻る。そこからは、「今」へ、そして「未来」へと、戻っていかなければならない。

 船は、完全に、来た方向と逆の方角に船首を向け、ルソン島の方角へと引き換えし始めた。

 船が引き返し始めた時、志乃は、一瞬だけ、後ろを振り返った。自分が、海底に眠る辰巳に手向けた花-白の紫苑の行く先が気になったから。

 海に放った白の紫苑達は、もう、遠くにその白を、濃い青の海面の、さざ波に揺れて、微かに見え隠れさせるのみで、船が遠ざかっていくと、それも完全に見えなくなった。

 

 「また…、必ず来ましょうね、琴音お姉さま。辰巳さんが眠る、この海の墓標へ、私達で。花を会手向ける為に」

 船の上に、一輪だけ残された、白の紫苑の花に、志乃はそう語りかけた。

 先程、確かに、琴音、更には、辰巳の声までも鮮やかに蘇らせ、聞かせてくれた、この花は、志乃の、和服に包まれた膝の上に置かれ、今はもう何も語らない。

 次に、花を手向けにこの海へ訪れる時も、琴音の母親が、自分に託してくれた、この、紫苑の花の着物をまた着てこようと、志乃は思った。


 風が吹いている訳でもない、船の上であったが、志乃の膝の上で、志乃の言葉に頷くように、紫苑の花は、小さく揺れた。


 (了)

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

海の墓標に手向ける花は わだつみ @scarletlily1125

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画